いつも何かに追われているような気がしていた。若しくは潰されそうになる感覚。
一体俺は何と戦っているんだろう。
ひたすら弱者が搾取され、強者がそれを我が物顔で踏み躙る世の構造。
だから俺は力が欲しかった。早く完全な姿になりたかった。
でも本当は違った。そこに求めているものは無いし、そもそもそんなものを求めていること自体が本来の自分では無かった。
それを優しく教えてくれた相棒。
不完全な僕のままでいい、そこに人間の本質がある。
見えるものだけに縋る必要なぞ無かったんだ。
「……ありがとな」
聞こえるか聞こえないかくらいの声量。いや聞こえてなくったって構わない。
僕は自分よりも亭亭たるその背中に、感謝の気持ちを込めてそっと手を回した。
初めて手にしたのは、親がどこからか見つけ出してきた物だった。
それはスッキリとした清涼感のあるシトラスの香りで、どこか背筋が伸びるような気がする。……気に入った。
耳の裏にほんのり付けると良い。
どこかで聞き齧った情報を頭の引き出しから引っ張り出し、一、二滴振って耳の裏に塗り込む。
今日は休日で部活だけの日。
誰かに気付いてもらいたいような、それでいて誰にも気付かれてはいけないような、少し大人になれた特別感を抱いて自転車を漕いだ。
「オッサンの匂いがする」
部室の扉を開けた先輩の開口一番がこれだった。
後々よくその香水を見るとメンズ向けだったことを知るのだが、この時の少女はまだ知らない。
耳の裏には太い血管が走っており、香水が揮発するのに非常に向いていた。要はめちゃくちゃよく香ったのである。
「ねえ、何でこんな臭うん?」
大きな声で眉を顰めた先輩がキョロキョロと辺りを見回す。
他の部員達は不思議そうに目と目を合わせている中、少女は顔を真っ赤にして俯くことしかできない。
少女はアレルギー性鼻炎で、あまり自身の鼻が利かなかったのも良くなかった。
「……あー、もしかしてそう?」
鼻の良い先輩に早々にバレてしまい、それ以上は追及されることも無く終わったのだが、この一件以降少女が香水を使うことは金輪際無かったそうな。
夜が更けて辺りは厳かなる静寂に包まれていた。
リビングにあるダイニングテーブル。そこで少女が椅子に座っていて、その机上には沢山のテキストが所狭しと山積みになっている。そして恐らく夜食だろうか、温かいお粥とほんのり湯気を立てているお茶が小さな盆の上に乗せられていて、机の端っこに少し居心地悪そうに置かれていた。
手元だけがぼんやり光るようにスタンドライトを一つ付けて、ただひたすらノートにペンを走らせている少女。
目の前の課題に集中していたつもりだ。いや、集中していたからこそ気付いてしまったのかもしれない。
静かな部屋でカサカサカサと耳慣れぬ音が聞こえた。ギョッとして音の方を振り返ると、皆さんお馴染みの茶色いアイツがどこからが現れてこちらを見ているではないか。
少女は無益な戦いを避けるべくわざと足音を立てたり、机を叩いたりして脅かそうとした。元いた所にお戻り。それでもそいつは寧ろジリジリと距離を縮めてきた。
何で、どうして。私達争わなくても各々でやっていけるじゃない。言葉なんてなくったって分かり合えたはずじゃない。
少女の願い虚しく、ヨロヨロとこちらの領域にまで侵攻しようとするそれ。こうなると流石に身の危険を感じるわけで。殺虫剤を手に取り、遠慮なく思いっきりそいつ目掛けて噴射した。
余談だが、ホウ酸ダンゴには喉の渇きを発生させて弱らせ、且つ明るい所に引き摺り出すという性質があるらしい。
願わくば人知れずひっそりとその生涯を終わらせてほしいものだ。
「これまた懐かしい顔だね」
控えめにノックしたけれど、そんな間を開けずに扉は開かれる。果たして中から現れたのは老人だった。
白髪の生えた頭、昔のように勢いのある髪は何処へやら、すっかり薄くなった頭を掻きながらも眼鏡の奥の目が柔らかく微笑んでいる。突然の訪問客を嬉しそうに迎え入れてくれた。
「元気にしていたか?」
暖かい珈琲と、得意料理であるホットケーキを振る舞う男。深煎り豆の良い匂いが部屋中を包む。とろりとろけるバターとたっぷりの蜂蜜がホットケーキにじゅわりと染み込んでいる。
いただきますと律儀に手を合わせる少年。ナイフとフォークを器用に使い、ホットケーキをカチャカチャと切り分けていく。
「皆、元気にしていますよ」
一口分をフォークで突き刺し、そのまま頬張る少年。口の中いっぱいに、ふんわりと蜂蜜とケーキの柔らかい甘みが広がった。少し苦めの珈琲で後味サッパリと口内を整えてくれる
「そうか、良かったよ」
男はそのまま優しい眼差しで少年を見つめる。どことなく気恥ずかしくなってパクパクと残りのケーキを口に放り込む。……本当はもっとゆっくり味わいたいのに。
会っていなかった間の貴方の話も沢山聞きたい。しかし心と身体とは裏腹に、ホットケーキも珈琲もあっという間に平らげてしまった。
「これからはまたいつでも来ると良い」
少年の心境を知ってか知らずか、男はそんなふうに声を掛けてくれた。自然と弛む少年の口角。嗚呼、やっぱりこの人には敵わない。
『これから』という言葉の担保にこんなにも救われる日が来るなんて。奥の奥に潜めていた感情が時間が、ゆっくりと動き出す音がした。
色々と言いたいことはたくさんあった。
しかしそれは唇から外を出て空気に触れ、言の葉の形を成すまでに全て泡となって消えていく。
嗚呼、己の口下手がこういう時に嫌になる。
どろどろとした言葉になり得なかったものたち、成仏できなかった醜い感情たち。
これらをまるで禊みたいに全て綺麗に流してくれるのが雨だった。
ある日たまたま傘を忘れてしまい、仕方なく雨の中ひた走って帰ったことがあるのだが、あれはとんでもなく心地の良い経験であった。
何一つ忖度することなく、全身を満遍なく柔らかくそれでいて叩きつけるように雨水がじわりと身体を包み込む。
雨も涙も全ては泥濘へと吸い込まれていった。
ずっとこの中で佇んでいたかったと今でも思う。
何故私たちは雨を何となく忌み嫌う習性があるのだろう。
傘なんて無くったって雨と共に生きることもできるのに、少なくとも私はそう思う。