一行日記なら毎日続けられるかも!
そう思ってワクワクしながら文房具屋で日記帳を手に取った。
何のことはない。たかが一行、されど一行。
飽き性の私はすぐに三日坊主になってしまった。
昔からそうだ、どんなことも中々継続することができない。
軽く自己嫌悪に陥りながらもたった二行しか綴られていない文字をなぞる。
「今日はしんどかった。でも嫌なことも全ては糧!」
「先生に怒られた、もう無理」
ネガティブ全開である。
でもここでは誰の目も気にすることなく自分の心を安心して晒すことができる。
SNSに綴る文字はどうしても見られること前提で書いている自覚はある。
その点、誰にも見られないことが約束されている日記は自分に嘘をつく必要がどこにも無いのだ。
……少し時間が経ったけれど再開してみようか、日記帳。
自分の自分による自分のための日記、どこぞの大統領の格言を拝借し、これで良しと私は言い聞かせる。
また今日から始めよう、私だけの心の日記を。
まだ殆ど白いページにさっそくペン先をちょんと付けた。
他人と向かい合わせになるのはちょっぴり、緊張しちゃうね
でもあなたとならわたしは大丈夫
あなたと向かい合わせになってほんの少し目を閉じるわたし
滝のように流れゆく日常の中からキラキラだったり仄暗かったり、そんな無意識の感覚を掬いあげるわたし
嗚呼、とかく日々に流されがちな私たちだけど、心はちゃあんと細かく反応しているんだね
わたしはあなた あなたはわたし
自分と向かい合わせになれるのは自分だけ
スポンジのように吸収する、とか茹だるような暑さ、とか。
自分の思いや感情を、手垢のついた表現方法でしか伝えられない時に、どうにもやり場のないじりじりした気持ちに駆られてしまう。
あの人ならもっとオリジナリティ溢れる言い回しができるだろうなとか、我ながらn番煎じでつまらん喩えだなとか。
でも、最近になってこうも思う。
確かに他と同じような、月並みな表現にはなってしまうかもしれない。
しかしそれでも、古着屋さんや古本屋さんで売られている商品みたいに、その言葉はどこそこの誰兵衛の手に渡ったり袖を通されたりして、確りと愛されていたのではないのかとも。
特に昔からずぅっと使われ続けている言葉なんて、淘汰もされずに生き残っているなんて、遥か昔から現代に渡って人々の心に生き続けている証拠だと思うのだ。
そう考えれば、古の人にならって私もそれを踏襲するのは満更悪いことでもないのだろうな。
温故知新。故きを温め新しきを知る。旧いことも新しいことも全て大切、常に勉強勉強。
いつの間にか私のやるせない気持ちは宇宙の果てまで飛んでいってしまったようだ。
今、キラキラと凪ぐこの海面が、実は色々な顔を見せることを私は知っている。砂浜に咲く色とりどりのパラソルの下で、実はとんでもなく心温まるストーリーが展開されていることも。
A子は、灼けた堤防の上で一人三角座りをしたまま、自身の膝に顔を埋める。
私にもかつては連れ合いがいて、一緒に行くぞと誘ってくれる人達もいた。
今は皆どこへ行ってしまったのだろう。もしかして海の藻屑へと消えてしまったのかしら 笑
海を見つめる彼女の瞳には確かに仄暗い光が宿っていた。
『愛の反対は憎悪ではない、無関心である』
これはかの有名なマザーテレサの言葉だ。A子はパタンと本を閉じる。毎日少しずつ、何かが削がれていっていると思っていたこの感覚に、まるでマザーから言葉を付けてもらえたような気がした。
その間もB男はスマホから顔を上げず、親指で画面をスライドさせるのに今日も夢中になっている。
慈愛に満ちた彼女の格言が、じんわりと確実にA子の中で波紋を広げていく。何かがすぅっと冷えていくのを感じた。
「……もうここに愛は無いの」
B男がこれを聞いているのかどうかなんて、最早そんなことはどうでも良かった。これからやるべきことに一筋の光が射す。
A子はダンボールを購入しに行くべく、その場でゆっくりと立ち上がった。