クッキーを一口つまむ。それはさっくりとした食感で、ほろっと甘みを残して口内にすーっと溶けていく。
ピーチフレーバーの紅茶を啜ると、あっという間にほんのり柔らかな桃の香りで満たされていった。
「形あるものに縋りたくないの」
まるで紅茶に上書きされたクッキーのようにそれは必ず消えていく運命だから、と女は続けた。
再び茶菓子をつまみ、ティーカップに口を付ける彼女。
僕は何だか見てはいけないものを見てしまったような気がしてそっと目を逸らす。顔全体が茹で蛸のように真っ赤になる。心臓がとくんとくん、音を立てて暴れる。
「……でもね、嬉しかったわ」
こんな私に愛を囁いてくれる人がいるってこと。
貴方はいずれ上書きされていくかもしれないけれど、そこにあった愛だけはこれからも消えずに残るから。
嗚呼、勇気を出して良かったんだ。
開け放たれた窓から射し込む木漏れ日、鳥たちの囀る声、そのどれもが僕を、僕たちをあたたかく祝福してくれている。
彼女にとっての最初のクッキーに選ばれたこと、優越感にも似た心持ちで温くなった紅茶を一気に流し込んだ。
遠くで汽笛が鳴っている。
やおら底を覗き込めば思わず吸い込まれてしまいそうな真っ暗い輝きを放つ。
海はキラキラ凪いでいた。
どんなものも優しく迎え入れてくれるような静けさにA子はうっとり目を閉じる。
頭の中ではひたすら騒がしいのに眼下の景色とはまるで真反対。
嗚呼、ここだ。ここが私の居場所。やっと見つけた。
ただいま。
胸の高鳴りと共に彼女は一歩を踏み出した。
ぐんぐん風を切って空と地面との境界線が曖昧になっていく道で少年はペダルを漕ぐ。
これさえあればどこまでもどこまでも行けるような気がした。
少し成長した彼は原付バイクに乗った。
世界が広がる音がした。
もっと大人になった男はやがて車を運転する。
知らない街との出逢いに心臓がどくんと跳ねた。
そのうち自転車は埃を被り、とうとう廃棄されることになった。
それでも決して忘れないで。
あなたの大きな一歩を、優しく力強く背中を押してくれた存在であるという事実を。
「忙しい」は心を亡くす、と書くんだよ
だから「忙しい」ではなく、「充実している」とポジティブに言い換えなさい
尊敬する師の言葉に女はそのまんま感化された。
「充実している!」スケジュール帳が真っ黒になった。
「充実している!」家を空けることが増えに増えた。
「充実している!」充実していた!
心の健康を保つのは本当に人それぞれやり方が違う
「頑張れ」がダメだと必ずしも言いきれないのと同じく、「充実している」と言い換えることが必ずしも良い訳ではない。
女の場合、言葉をそのまんま受け取ってしまって自分の心の叫びに気付くことが出来なかった。
だから今、彼女は「忙しい」は「忙しい」と敢えて言う。
それが心のバロメーターであり、「忙しい」時には休みを必ず取る時間を作れと自分の脳みそに伝えるためでもある。
心を一度壊したことで沢山の気付きを得た。
女の場合は、壊れた心が良いブレーキにもなっている。
無茶をしない、できないのではなく、しない。
心の健康を保つって本当に人それぞれ、あなたはどう?
何か特別な楽器なぞ無くったって君にしか出せない音があって、私はそれを聴くことでしか心が満たされないのだ。
それは例えば私にだけ注ぐ熱い眼差し、それは例えば耳元で囁く愛の言葉、それは例えばマーブル模様みたいに汗と涙の混ざり合う瞬間。
私の私だけの君との時間は、私だけの楽器であってほしい。