五線譜の上に並ぶ黒色と白色の楕円を追いかける日々が私の青春だった。
音楽の中でも、特に歌というものは非常に原始的な表現方法だと思う。言葉を発する延長に、節があり、メロディーがつき、歌となっていく。
私は物心ついた頃からシンガーソングライターだった。例えば、「今日の夕飯はたらこスパゲッティがいいなあ」というこれだけの文章にメロディーをつけて、歌うことができた。あなたにもきっとできただろう。
それだけ、歌は原始的で、感覚的なものなのだ。
それをこの楽譜という形で、紙面に残し、誰が見ても再現できるようにしたイタリアの修道士に、ノーベルわたし賞を授与したい。ノーベルに許可を貰えるかは分からないが。
「ここで休まない!この八分休符で次のメロディーへの勢いをつけるんだよ!」
声楽科出身の顧問の溌剌とした怒声が響き、私たちは演奏を中断した。
どこか心地よい怒声だ。
私はシャープペンシルで、小枝のような記号にグルグルと丸をつけた。
休符を休みだと思うと音楽の流れが止まってしまう。休符は次のフレーズへの助走であり、跳び箱の手前に置かれているロイター板でもある。
何度も言われて耳にタコができそうだが、顧問の指摘を意識して再度同じところを演奏する。
「そう!」
満足気な顧問の反応。
今度は怒声によって演奏をストップすることはなく、川が流れるように音楽が溢れていく。
昨日の雨で少し勢いを増した川を横目に見ながら、10代の頃のそんなワンシーンを思い出した。
今日は美術館に行き、本屋で資格勉強のための書籍を購入し、喫茶店でホットケーキを食べて、帰路についている。
私は先週、仕事を辞めた。
辞めた理由は色々あるし、限界だった。
生活に不安がないと言ったら嘘になる。
けれど、今は休符を演奏しているだけなのだ。この時間が、未来の私を形作ると信じている。
休符があったって、五線譜は続いているのだから。
19.束の間の休息
私は今日という日が来てもまだ、あなたとの別れを受け入れることができなかった。
この物語の始まりを思い出すのはとても容易なことだった。
全国チェーンの焼き鳥屋で飲んでいた時。
金曜日の夜に咲いた喧騒を貫いて、あなたの歌声が私の鼓膜をリズミカルに叩いた。
厳密には、12人の歌声の中にあなたの歌声があって、まだ全然区別なんかついていなかった。私はまずその楽曲について知りたいと思った。
私は盛り上がっている話の腰を折ることも厭わず、トイレに駆け込み、アプリを使ってその曲を検索した。
どうやらその曲はあなたがいるグループのデビュー曲だということが分かり、私はメンバーの名前を覚えることから始めたのだった。
しばらくは、動画サイト上で公式にアップロードされたミュージックビデオや企画動画を見たり、メンバーのブログを見たりして応援していた。俗に言う、無銭在宅オタクというやつである。
しかし、デビューして1年も経たないうちに、社会全体が自粛ムードに追い込まれ、コンサートやイベントが出来なくなった。
私自身というと、友達に会えず、就職活動も上手くいかず、心が塞いでしまっていた。
それでもできることを、と動画をアップし続けてくれた彼女たち。新曲も発表された。チアガールの衣装の応援歌だ。
底抜けに明るいのに、なぜ涙が出るのだろう。溌剌とした明るさは、私にとってのビタミンとなった。そして、色とりどりの歌声の中でも一際力強く、芯があるあなたの歌声は、いつのまにか私の心の柱となった。
いつかまたコンサートが開催されたら、必ず行こう。
社会情勢に合わせて段階的に、コンサートやイベントが復活していき、いよいよこれからだという時に、あなたはグループからの卒業を決めた。
今までアイドルの推し活をしたことがなかった私でも、少しずつ現場に参加しはじめていた矢先のことだった。
しかしどういった事情なのか、通常の卒業コンサートに使用されるようなキャパシティのホールではなく、ライブハウスでの卒業となることが発表された。
武道館でのコンサート経験があるグループだけに、卒業コンサートのチケット争いは苛烈を極めた。
当然のように、私にはチケットは用意されず、映画館でのライブビューイングとなった。
暗くなった映画館。
いつもはスマホの明かりすら嫌厭されるというのに、ほぼ全ての客が、真っ赤なライトを掲げている。
客観的に見れば、ある意味滑稽な姿かもしれない。
私たちは映像を観ているだけで、どんなに力強くメンバーカラーを振っても、それをあなたが目にすることはない。
拍手も涙声も届かない。
それでも私は赤を振り続ける。
そうすることでしか、あなたのこれまでに感謝を示すことができないから。
そうすることでしか、あなたの未来に餞を送ることができなかったから。
今までありがとう。
あなたにどんな未来が訪れるのかは分からない。
だけど、どこまでも伸びていける羽を持っている人だと信じています。
明日は筋肉痛かも、と覚悟しながら、私はまたライトを振る。
18.力を込めて
あとがき
「あなた」のモデルを分かってくれる方はおられるのでしょうか…。「あなた」についてはノンフィクションですので、もし気になった方がおられたら、あわよくば…あわよくば「あなた」の歌声を聴いてみていただけると、とても幸せです。
滑り込むように地下鉄の電車に乗ると、イヤホンを耳にはめ、いつものようにアプリを起動。音楽再生。
ひしめき合う車内でやっと居場所を見つけ一息つくと、自動シャッフル機能で、懐かしい曲が聴こえてきた。
1本の指で紡がれているであろうピアノの旋律が4小節ほど続いたかと思うと、ギターの力強い音色が登場する。
制服を来て、ガラガラの電車に揺られながら、この曲を聴いていたことを思い出す。
狭い世界の人間関係や、勉強のこと、親とのこと、今思えばあまりにも青すぎる悩みではあったけれど、少し息苦しかったのはきっと、制服のリボンをきつく締めすぎていたからではなかったはず。
美しくもやや無機質に思えるメロディーが、あの頃の切なさを思い出させて、胸がキュ、と締めつけられる。
田んぼや木々に囲まれた田舎道を歩きながら流した涙は、今の私にとってはあまりにも尊すぎる。
今の私は何を思って泣くのだろう。あの頃の私は何を思って泣いていたのだっけ。
もうすぐ5分が経過しようとしている。
不思議なものだな、たったの5分間で、あの頃に引き戻されたような感覚に陥るなんて。
タイムトラベルを終わりにするつもりで、次の曲を再生した。
17.過ぎた日を想う
数十分間にわたって身体を揺らしていた振動が止まり、瞼の内側まで光が差し込んできた。
車のエンジン音が途絶える。鍵を抜く音、その反動で複数の鍵たちがぶつかる金属音。そしてシートベルトが外される音、ドアが開く音が続く。
「着いたよ。起きなさい。」
慣れ親しんだ心地よい揺れに、いつの間にか微睡んでいたようだ。
リクライニングされた助手席のシートを元に戻すと、緩慢な動きではあるが、私もまたシートベルトを外し、車から脱出する。
空港から実家までは20分ほどだったろうか。今回の帰省は、仕事を終えてバスに飛び乗り、そのまま空港へというスケジュールだったため、母の運転する車での移動中につい眠ってしまった。
車の外に出ると、ツンとした空気が頬を撫でる。
冷たいが、美味しい空気だ。
肺の中に、これでもかというほど空気を取り込むと、体の中にまでひんやりとした温度が伝わる。
車のバックドアが開けられている。
お土産の入った袋は母が持っていってくれたようなので、残されたキャリーバッグを車から引き摺るように下ろし、バックドアを閉める。
白い息を吐きながら、夜空を見上げる。
ーーーそうそう、この時期はオリオン座がはっきりと見えたっけ。
一人暮らしをしてる家の上空にも、同じ星々が浮かんでいるはずなのに、オリオン座と顔を合わせるのは久しぶりのように思える。
それだけ地元の空は澄んでいて、はっきりと星座が見えるのだ。
こんな夜中に姿を見られることもないだろうと、不恰好にも首を90度上に傾けて、そのままキャリーバッグを引き摺りながら玄関へ向かう。
オリオン座と目を合わせたまま、できるだけゆっくりと。
とはいえ3分くらいで、玄関の庇がオリオン座との面会を阻んだ。
そこからは現実に引き戻され、手洗いうがい、お風呂の準備。人工的な照明の光が私を照らす。
疲れと眠気で緩慢になりながら動く私の脳裏に、わずかに星々が焼き付いている。
そういえば、家の前の道路に寝転んで、母と2人で夜空を見上げたことがある。
この道路は、連なる住宅に囲まれた袋小路になっていて、夜遅くにはほとんど交通がないからと、母が寝転んで、私はそれを真似した。
「自然のプラネタリウムやねえ」
母は目線を夜空に向けたまま言った。
私はランドセルを枕にして寝転がったように思い出されるので、あれはきっと中学受験の塾から帰ってきたところだったのだろう。
あの頃は妹もまだ幼く、母は育休から明けたばかりだった。あの夜もスーツで道路に寝転がっている母を見て、この人が時々突拍子もないことをするのは忙しすぎるからなのかなどと子どもながらに思ったような気がする。
ただ、塾からの帰り、車での移動中は、親が妹を忘れて私だけを見てくれているように思えて、好きな時間だった。
道路で開催された自然のプラネタリウムはその延長。
母にとっても、大事な時間になっていたのだろうか。
「明日の夜はちょっと散歩しようかな。さっき星が見えて綺麗やった。もうちょっとゆっくり見たいし。」
「そうやろう。向こうでは見えんろうきね。まあいいけど、気ぃつけよ。」
「うん。」
「そういえば、昔道路に寝っ転がって自然のプラネタリウムしたね。」
「…うん。またしたいねえ。」
16.星座
別れ話をした。
夜の公園で。
滅茶苦茶に泣いた。
別れ話を切り出されたことで感情がぐちゃぐちゃになって、蚊に刺されてとても痒いことすら悲しかった。
どこから修復したらいいのだろうとか、そんなことばかり考えていた。
私の部屋に来て話さなかったのは、きっとすぐ帰るつもりだったからだろうけど、結局1時間後には私の部屋で同じベッドに潜っていた。
肌を重ねることはなかったけど、今思えばわずかな思い出を、私は泣きながら振り返り、感謝の気持ちを述べた。
翌朝、彼がベッドから抜け出す気配に気づいた。
どんな顔をして見送ればいいか分からなくて、泣き腫らした目は閉じたまま。
彼は私の唇に、柔らかすぎはしない、慣れ親しんだ感触を残していった。
私は未熟だったから、まだ愛してくれているのかもと勘違いしていた。
私はまだ知らなかった。
くだらない男が、女を手放す時、カラオケルームを出るギリギリまで歌ってやろうとか、バイキングでできるだけ元を取ろうとか、それくらいの調子でキスをすることもあるということを。
あれだけ好きだった彼が、そんなくだらない男に成り下がったということを。
私はまだ知らなかった。
そんなくだらない男にされたくだらないことで、その後何年も心に傷を抱えて生きていくことを。
15.別れ際に