「大嫌いです!」
何度目か忘れたけど、後輩の女の子が俺をキッと睨んで言った。
はいはい、いつものね。俺は何度目か分からない適当な相槌を打って、後輩の頭をぐりぐり撫でる。
「そっかー、大嫌いかー」
「そうです、大嫌いです! 私の名前を間違ってばかりの先輩なんて、嫌い!」
「そっかー、間違ってたかー」
別に、本気で間違えていたわけじゃない。たまに違う名前で呼ぶと、不思議なものを見る目で俺を見てくるのがたまらなく好きなのだ。とか、言ってしまうと怒られそうなので誤魔化すけれど。
「ごめんごめん。お名前なんて言うんですか、お嬢さん」
「もー! わざとでしょ、先輩!」
「はは」
「ゆず! もう忘れないでくださいよ!」
「そうそう、ゆずちゃん。俺の大好きな柚子の匂いのゆずちゃん」
頭を撫でる手を止めて、そのまま抱きつけば、後輩は腕の中で暴れ出す。
「からかってますよね!?」
「さあ、どうだろ」
「私、先輩のそういうところ嫌いです!」
「そっかー。俺のこと、好きじゃない?」
「好きじゃないです!」
「そっかー」
残念だなー。そう言いつつも、俺は後輩を離さない。後輩も、暴れる割に抜けようとはしない。好きじゃないとか言ってるけど、ホントはそこそこ心を許してくれてることくらい分かっている。
だから、俺は笑って受け流す。
「俺はゆずのこと好きだよ」
「は!?」
「なんちゃって」
「…………もー!! ほんっと、大嫌い!」
「なんやお前、こいつ俺のやぞ」
「あー、すんません。見えてませんでした」
ナンパ失敗。かもしれない。ギラギラとした闘志を含んだ眼で、ぎろりと睨まれる。間にいた女の子は俺と彼を交互に見て、居心地悪そうに肩をすくめる。
「見えてませんでした? 言い訳ヘタクソやな。正直に言うてみい、わざと俺の目の前でナンパしましたて」
「わざと貴方の前でナンパしました」
「ほんまに言う奴がおるかアホ」
溜息をつく彼。呆れたのか、諦めたのか。
彼は先帰り、と女の子を帰す。何度かこちらをチラチラ見ながら、女の子は帰って行った。
ここまで想定通り。
「お前、喧嘩売ったんやから覚悟できとるんやろな?」
「はい」
「よぉし、上等や。こっち来い」
「あの」
ぐるんぐるん腕を回す彼を見据えて、俺は笑ってみせる。
「もし俺が勝ったら、俺と付き合ってくださいね」
「は?」
回っていた腕が止まり、彼はお化けでも見たかのような顔をした。
最初から、俺の目的は彼だった。そのために女の子をナンパしたのだ。もう二度と離さない。彼は忘れてしまっているだろうけど。
「約束」
「するかボケ!」
きっと勝って、思い出させてあげるから。約束。
暗い部屋に帰ると、親友が蹲っていた。
「びっ……くりした……」
電気をつける。蹲った親友が照らされる。私は親友の横を通って、バッグをリビングに置いた。
親友はよく、家出をする。実家暮らしなんて楽で良いじゃんと思うけど、実際は違うらしい。最初の頃、私が帰ってくるまで部屋の前で待っていたから、合鍵を渡した。それ以来、親友は一人暮らしの私の部屋によく転がりこんでくる。
「今度は何」
「…………」
「言いたくないのね。別にいいけど」
そこどいて、料理するから。そう言えば、親友は数センチ横にズレた。何も言わないのなら何も聞かない。昔から、私たちはそうだ。二人でいる時は、なんだか世界にふたりぼっちになったみたいで、親友の声がよく聞こえた。
「今なら私しかいないよ」
ふたりぼっちだから大丈夫だよ。
夕飯を作りながら言うと、親友の顔が少しだけ上がる。
「うん」
「で、何?」
うんとね、と話し始める親友の、鼻頭が赤い。
昔から変わらない。私たちの世界は時々、私たち以外の音が聞こえなくなる。それが、私は愛しく思うし、私しかいない世界の親友を守りたいと思う。
空を飛んでる時点で、薄々思ってはいたけれど。
「うん、これ夢だな」
高校の同級生がどっかの国の王様になって、カップラーメン1日1食法案を通そうとしたり。冷蔵庫の中から手が出てきて引きずり込まれ、その先が天国みたいな場所だったり。自分の想像力って豊かだったんだなぁと他人事のように思う。
「夢の中で意識があるって、いわゆる明晰夢ってやつ……?」
それなら、やりたいことやるか。
空を走って、校舎裏で告白を受けて、アイドルになったり消防士になったり。忙しい日々が、一瞬で過ぎていく。
やがて、世界の輪郭が歪み始めた。
夢が終わるようだ。
「じゃあ、起きる前に最後の無茶しとくか」
おれは、足に力を込めてあらゆる建物の壁を走った。
途中で壁が崩れて、地面に真っ逆さまに落ちていく。
「いっっっったっっ!!」
ベッドから落ちて、おれは涙目になった。
朝はいつも、ギリギリに起きる。
それっぽく髪を整えて、制服を着て、必ずトーストを咥えて家を出る。
通学路には三つ、曲がり角があった。私はいつも、その曲がり角たちに差し掛かるたびにドキドキする。
今日は、今日こそは……! 私の王子様に!
少女漫画が大好きで、曲がり角での出会いに憧れて、かれこれ五年。まだ曲がり角で王子様に会えてはいない。
分かってる。現実はそんなに簡単じゃない。でも、現実にだってそんな素敵な展開があってもいいじゃない。
二つ目、三つ目の曲がり角を曲がる。誰も私とぶつかってくれない。今日も王子様はいなかった。
トーストを一気に食べて、近くの自販機でりんごジュースを買って飲む。
「明日こそは、王子様がいますように!」
私の胸の高鳴りは、まだまだ収まらないようだ。