中学生のわたしは、早く大人になりたかった。
仕事をしている大人がかっこよく見えたし、わたしもあの中に混ざって、ゆくゆくは結婚して家庭を持って、なんてありきたりな未来を思い描いていた。相手はきっと職場の人だな、とか居もしない恋人との関係を考えていた。
「今日で二十歳だっけ。おめでと」
妹が缶チューハイを手元に置いている。その前には半分食べられたケーキ。もうそんな歳なんだな、と毛先だけ染めた髪を見つめる。
「あんがと。お姉、今日飲める?」
「ごめんパス。明日なら良いよ」
「ん、分かった」
割と素直に答えてくれる。昔はもう少し、駄々をこねていたのに。
わたしは仕事用のバッグをその辺に放り投げて、遅い夕食を食べ始めた。野菜炒めのラップを外しても、湯気はたたない。
妹が、缶チューハイを一口。とん、とテーブルに置く。
「全然さ、大人の仲間入りって感じはしないけどさ」
「うん」
「でも多分、お姉みたいカッコ良く仕事してさ、いつか結婚もするんだよ。二十年はあっという間だったけど、きっと良い大人になるよ、私」
「そうだね」
えへへー、と妹は既に赤くなり始めた頬を弛める。
わたしは、今年で二十八になった。
中学生の時思い描いていたのはまやかしで、仕事ができる大人にはなれなかったし、結婚も……恋人すらまだだ。
妹には、わたしのようにならないでほしいと思う。
かっこよく仕事をする大人は、日付が変わるギリギリに帰ってきたりしないのだと、知ってほしいと思う。
「なれるといいね」
「うん」
わたしは冷めたご飯を、そのまま口に入れた。
「うさぎって大変だよな」
珍しく化学部部室にやってきた幽霊部員くんが、部室の本の山に埋もれながら言った。
はて、本の山に動物図鑑などあっただろうかと覗き込めば、彼が読んでいたのは月の本だった。うちは化学部だというのに、一つ前の顧問が科学部と勘違いして置いていった本だ。そういえば、処分に困って山の中に混ぜていた気がする。
いやしかし、それで何故うさぎの話になるのだろう。逡巡し、思い至ったのは月のクレーターだった。
「まさかキミ、月にうさぎがいると思っているタイプか?」
思わず口にすれば、彼は不思議そうな顔で首を傾げた。
「いるだろ、うさぎ。満月の時見えるだろ」
「小学校の理科から学び直した方がいいぞ」
「なんでだよ……俺はうさぎが大変だって話をしてんだぞ」
自分の意見を曲げる気はないらしい。無知もここまでくると可愛ささえ感じる。
「分かった。一旦うさぎがいると仮定しよう。それで、何が大変なんだ?」
「月って満月になる前に欠けてる日とかあるだろ。三日月とか、半月とか」
三日月や半月を知っているのに、何故クレーターを知らないのだ。というツッコミは、私が心の中で十回唱えたのでしないでほしい。
「その時って、うさぎは月を追い出されてるわけだろ? で、満月になったら戻って……大変だろ?」
この言葉がトドメだった。私は頭を抱えて唸った。
「…………私は今、キミにどうクレーターや月の満ち欠けの原理を伝えるべきか悩んでいるんだが」
「は? なんて? 化学オタクの言葉、難しすぎて分かんねー」
「化学(ばけがく)ではなく科学の領域だし、これは義務教育の範疇の知識で……ああ、もう分かった。こうしよう。今日の夜、三丁目の公園に集合だ」
「なに、月でも見んの?」
「ああ。本来ならばうちの部の活動内容には入らないのだが、特別だ。キミに月について徹底的に叩き込んでやる」
今度は反対方向に首を傾げる幽霊部員くん。
徹夜にならなければいいが、と窓の外を見る。暗くなってきた空に、三日月がぽつりと浮かんでいた。
「先生には水色が似合うと思う」
「えー、そうかなぁ。私的にはあの先生、黄色だと思うなぁ」
元カノがゆったりと話す。ピンクのグロスと派手なネイル。今考えれば、俺には合わない派手な人。
どちらから告白して、どちらからフッたのかはもう忘れてしまったけど、お互い他に好きな人ができたということだけは事実だった。たまたま街中で会って、たまたま好きな人へのプレゼントをお互い探していたものだから、今は流れで一緒にいるけども。
「ていうかさぁ、あの先生ってブレスレット付けてくれんの?」
ピンクと赤のブレスレットを手に取る元カノ。俺のプレゼント探しには興味がなくなったらしい。
「付けさせるから問題ない」
「うっわ、おも。私そーゆーの無理ー」
「嘘つき。知ってるんだからな、バイト先の後輩とクリスマスデートしたこと」
色とりどりのブレスレットをいじっていた手が、ピタリと止まる。
「なんで知ってんの」
「企業秘密」
「プレゼント、これにしたら」
ム、と口を結ぶ。差し出されたのは、黒のブレスレットだった。
「数珠じゃないんだから」
「それよりさぁ、私のプレゼント探し手伝ってよ。アンクレットにするから」
「重いのはどっちなんだか」
うっさい。ふん、と俺に背を向けて、店の奥にある色とりどりのアンクレット売場へ向かう元カノ。
別れて正解だったな、と黄色のブレスレットを手に取って背中を追いかけた。
いつも置いていかれるから今日こそは、と家を出た。朝五時。外はまだ暗く、誰も歩いていない。
しかし、家の前の雪にはすでに足跡があった。
「また置いていかれた」
足跡を追って進む。家を出て、右。突き当たりを左。佐々木さんの愛犬・シオタが起きたから手を振って、二つ目の信号を右。
「いた」
『売家』と書かれた看板の前に、その人は立っていた。いつも私より先にこの場所に来る人。
「お兄ちゃん」
「ん、おはよ」
「おはよう」
お兄ちゃんの隣に並んで、看板の奥の空き地を見つめる。
元々ここには、お兄ちゃんの友達が住んでいた。
わたしは何があったか知らない。ただ三年前の冬、唐突にこの家はなくなった。それから、冬になるとお兄ちゃんはこの場所に来るようになった。雪に足跡をつけて、この場所とわたし達の家を繋げるように。
「寒いよ。帰ろう」
「うん。分かってる」
お兄ちゃんは、名残惜しそうに空き地を見る。それを振り払うように、わたしはお兄ちゃんの手を強く引いて、来た道を戻る。お兄ちゃんとわたしの足跡を辿る。
「寒いなら、無理に追ってこなくていいんだよ」
シオタに吠えられた後、お兄ちゃんはそう言った。
わたしは何も答えなかった。
だってお兄ちゃん、いつか消えそうじゃない。あの空き地に吸い込まれて、足跡さえ残さずに消えそうじゃない。なんて、絶対に言わなかった。言ってしまったら、本当になる気がした。
だから、わたしはお兄ちゃんを追いかける。
例え何度お兄ちゃんが一人であの場所に行っても、必ず連れて帰って来れるように。雪が、お兄ちゃんの足跡を消す前に。
おじいさんはね、魔王だったのよ。それが90歳を過ぎた頃からのばあちゃんの口癖だった。
曰く、ばあちゃんは昔異世界に飛ばされ、そこで魔王に一目惚れされ、魔王と一緒にこちらの世界に帰ってきて結婚したらしい。昨今蔓延る異世界転生ものも真っ青の体験談である。
もちろん、そんなことはあるはずがない。
確かにじいちゃんの遺影はない。だけどそれは、じいちゃんが写真嫌いで一枚も写真が残っていなかったからだ、とお母さんが言っていたし。
でも、何度「そんなわけないでしょ」とツッコんでも、数分後にはまた同じ話をしているのだ。もうだいぶボケているのだと思う。ばあちゃんの話をまともに聞いているのは、もう飼い猫のマオしかいない。
「おじいさんはね、それは素敵な方だったの」
今日も縁側で、ばあちゃんは独り言を呟いている。隣にはマオがちょこんと座って、黄色い目でジッとばあちゃんを見ている。時折、うにゃん、とばあちゃんの話に相槌らしきものを打ちながら。
「ばあちゃん、体冷えるから中入りなよ」
「夜空のようなサラサラの髪とね、その中に輝く一等星のような金色の瞳とね、ああそれと、交換した指輪をいつも付けてくれていたわ」
聞こえてないな。
私は仕方なく、ばあちゃんに近寄ってもう一度声をかけようとした。しかし、その前にマオがこちらを振り向いて、思わず足を止めてしまった。
マオの首元。鈴の代わりに指輪がぶら下がっている。そういえば、昔からマオを探すのには苦労した。音の鳴らない指輪を付けているから。
(ていうか、マオって今何才なの?)
お母さんの話では、お母さんが小さい頃にはもうマオがいたらしい。少なくとも四十年近くは生きている計算になる。それっておかしくない? 猫の平均寿命って何才だっけ?
一瞬のうちに様々な疑問が私の頭の中を駆け巡る。
にゃあ。マオが鳴いた。私をジッと見てくる。
「おじいさんはね、魔王だったけれど、全然怖くなかったわ。わたしは、そんなおじいさんと一緒に暮らせて、とても満足よ」
ねえ、とばあちゃんがマオの背を撫でる。マオは私からばあちゃんに視線を移し、再びにゃあと鳴いた。
いやいや、まさか。いや、そんな、まさか、だって。
ばあちゃんは今「一緒に暮らせて満足」と言った。「一緒に暮らせて満足"だった"」ではなく。
それって、今も一緒に暮らしていることにならない? 私の考えすぎ? でも、それなら全部の説明が……
「あら、そろそろお茶の時間だわ。さ、マオさん、中に入りましょ」
ばあちゃんはマオを抱き上げて、縁側から立ち上がった。私の横を通る時、マオは幸せそうにばあちゃんの腕の中で微笑んでいた。