「それじゃあ、お先に失礼しますね」
先輩が立ち上がったので、私も合わせて席をたつ。
もう会社には私たちしかいなかった。残業大好きな先輩と、年始の仕事を減らしたい私しか。
先輩が帰ると言うのだから、本来なら私も一緒に帰って節電に貢献すべきなんだろうけど、まだ仕事が終わらない。
「お疲れ様です。今年もお世話になりました」
とりあえず、挨拶しながらお辞儀をする。
「こちらこそ、ありがとうございました。来年もよろしくお願いしますね」
「はい、お願いします。良いお年をお迎えください」
「あなたも、良いお年を」
ふ、と微笑んで、先輩は私の手に飴を握らせてきた。
「無理しないで、早めに帰るんですよ」
「はぁい」
そういうところだぞ、先輩。
ぐ、と飴を握りしめ、良い子の返事をする。
先輩が見えなくなったのを確認して、もう一度席に座った。
「よし。あともうちょっと」
飴を口に放り込む。
先輩の飴があれば、きっと良い年を迎えられる。そう思いながら。
「毎年言ってると思うけど、一年って短くない?」
あたしの言葉に、兄貴が顔をあげる。半分ほど読んでいた漫画をこたつの上に伏せて、大きく頷いた。
「毎年言っていると思うが、それは歳をとるとさらに早くなるぞ」
「げー……やだなぁ」
「だからこそ、毎日を無駄にしないように過ごさねば。短い一年が積み重なれば、やがて短い一生に辿り着くのだから」
それはそうだけどー、とあたしは皮を剥き終わったみかんを口に放り込む。うん、今年のみかんは甘いな。って、これも毎年思っている気がする。
「てか、最もらしいこと言ってるけど、兄貴が一番毎日を無駄にしてるから」
「どこがだ?」
「ソシャゲ周回にSNS徘徊、実況動画の無限リピート再生……それで半日を溶かす人に、無駄にするなと言われても、ねえ?」
「無駄じゃないだろう! 全部俺の人生には必要なものだ!」
何やら叫んでいるが、あたしには無駄にしか思えなかった。だって、今伏せている漫画、多分十回は読んでるもん。去年も同じタイトルの漫画読んでたもん。
家族って血が繋がっているだけの他人だとどこかで聞いたけど、まったくその通りだと思う。あたしは多分、兄貴の趣味嗜好を一生理解できない。
「大体、漫画とは教訓も多く含まれる第二の教科書で──」
「あーはいはい、分かった分かった。あたし、お母さんのこと手伝ってくる」
「こら! まだ話が途中だぞ!」
なんだか似たような会話を前もしたような、と考えて苦笑する。結局人って、一年やそこらで劇的に変わるようには出来ていないらしい。
また来年も今年と同じ会話をするのかなぁ、とキッチンに向かいながら、あたしの頭の中では、恐らく無駄だっただろう一年が再生されていた。
小学生の頃、母が熱で倒れた日があった。
その姿を見たわたしは、母が死んでしまうのではないかと焦って、何かできることはないかと必死に探したものだ。そうして辿り着いたのは、なぜか『みかんジュースを作る』だった。
分かっている。今のわたしなら、みかんジュースを一から作るなんて馬鹿馬鹿しいと一蹴するだろう。でも、残念ながら当時のわたしは本気でそれしかないと思っていたのだ。
家中のみかんをかき集め、ぎゅうと握り、手をみかん汁でびちゃびちゃにしたのは良い思い出である。最後にちょっと砂糖を入れて、衛生観念など皆無のみかんジュースが出来あがった。それを母に渡すと、おいしいと笑って飲んでくれた。
「血は争えないってよく言うよねぇ」
今、わたしの目の前にはみかんジュースがある。ついでに、手をみかん汁でびちゃびちゃにした娘もいる。
この母にしてこの娘あり。
わたしは、娘の手作りみかんジュースを口にした。みかんの原液ってこのことかなあ、と思っている途中に、じゃりじゃりの砂糖が飛び込んでくる。決して、市販のみかんジュースみたいではないけれど。
「うん、美味しい」
わたしは、娘に笑ってそう言った。
明日から冬休みね。どうしましょう、やりたいことが沢山あるわ。あら、私は別荘でウィンタースポーツを嗜んでくるわよ。それじゃあ私は──
「何あれ」
窓から離れない私が気になったのだろう。クラスメイトの男子が私の視線を追って、首を傾げた。
私は下でお上品に笑い声をあげる人達を見たまま、苦笑いする。
「隣のお嬢様学校の冬休み予定自慢大会」
「それ、見てて楽しいか?」
「全然」
でも、良いなぁとは思う。
私の冬休みの予定は、雪のように真っ白だから。決まっている予定と言ったらせいぜい、こたつでみかんやアイスを食べるくらいだ。
「じゃあ、窓閉めてくれよ。寒い」
「そうだね、ごめん」
勢いをつけて窓を閉める。バン、と跳ね返り、少し隙間ができた。
何やってんだよ、と男子が呆れたように窓をしっかり閉めて鍵をかける。
「怒ってんの?」
「全然」
「さっきからなんだよ……あ、もしかして冬休み暇?」
「全然」
「おい……」
別に、怒ってはいない。暇なのは事実だし。どちらかといえば、それをコイツに知られたのが嫌だった。
私の返答が気に食わなかったのか、男子は厶、とする。
「せっかく良い話持ってきたのに」
「…………良い話?」
「なんだと思う?」
「………………さあ」
「これ」
差し出されたのは、映画館のチケット。ぱ、と顔を逸らす男子に、思わず詰め寄る。
「何これ、ねえ。誘ってる?」
「悪いか!」
「全然」
「おま……その全然ってのやめろ」
「んー……じゃあ、悪くない。最高。冬休み予定なかったし」
「ん」
よし。と言わんばかりにチケットを押し付けられたので、ありがたく受け取る。男子は目的を達成したらしく、「後で連絡する!」とさっさと教室を出て行った。
チケットを見つめながら、息を吐く。
とりあえず、冬休みの予定に困ることはなさそうだ。
すっかり寒くなったね。
ずず。鼻を赤くして、隣に並んだ生徒を見下ろす。
「冬だからなぁ」
「だねー」
猫のように伸びをして、彼はニヒ、と歯を見せた。
終業式で短縮授業だから、生徒は皆帰ったものと思っていたが、こいつは違うらしい。帰る生徒を見送る教師の横に、わざわざ並ぶなんて物好きだ。
彼はマフラーに顔を埋め、手を擦る。その指先が鼻と同じで赤くなっている。マフラーにコートという防寒対策をしておいて、何故手だけ無防備なのだろう。
「手、冷たいだろ」
「うん、もう感覚ない」
「手ぶくろは?」
「教室」
じゃあ持ってこい、と送り出そうとしたが、それより先に彼が呟いた。
「先生の手ぶくろ貸して」
「なんで」
「あったかそうだから」
まあ確かに、今の今まで付けていたし、顔に似合わずモコモコの手ぶくろだから暖かいとは思うけど。
あれこれ考えているうちに、彼が手ぶくろを奪っていく。
「へへ、もらうね、せんせ」
「貸すって話じゃなかった?」
そうだっけ。
とぼけた顔で言うものだから、彼の頬を両手で挟んだ。つめたっ、という抗議の声は聞かないフリをして。