『系』
いつからか、私の前に一本の細い糸が伸びるようになった。
「あんたにも、見えるのかい」
ある日、通りすがりの老婆に声をかけられた。
なんでもこの糸を手繰り寄せると、その時の自分に一番必要なものが手に入るという。
「系は一度使うと二度と現れぬ。万一の拠り所として、いつまでも残しておくといい」
そう言って、老婆はどこかへ消えてしまった。
私は老婆の言いつけを守り、糸を使わないでおくことにした。
「キミ、変わったよね。なんというか、自信がある」
最近は仕事仲間から、よくそう言われるようになった。
万一のときは、糸が助けてくれる。
その安心感が私を強くしてくれたのだ。
やがて良い妻にも巡り会い、糸のおかげで、私の人生は見違えるほど良くなった。
「ふざけないでッ!!」
ある日、私は妻と大喧嘩をした。
共に生活をすれば意見のすれ違いなど幾つもあるだろうが、この日ばかりは私に非があった。
浮気がバレてしまったのだ。
「し、信じてくれ。私が愛しているのはお前だけだ」
どれだけ言葉を並べても、妻は私を信じようとしない。
「これから父さんのところに行って全て話すから。あなたもついてきて」
「そ、それだけは、勘弁してくれ」
泣きつく私を払いのけ、妻は支度を始めてしまう。
この状況からなんとか助かる方法はないのかと、私は必死に糸を手繰り寄せる。
出てきたのは、菓子折りだった。
『届かないのに』
家に帰ると、少女が机に向かっていた。
彼女は青い便箋を何やら真剣に見つめている。かと思うと、今度はその隣にある白紙の便箋へ視線を送り、それを繰り返していた。
「飯食ったか」
私が問うと少女は振り向かず、
「さっき」
と答えた。
なら簡単なもので済ませようと、私は冷蔵庫を静かに開いた。
「ねぇ」
ちょうどウインナーが焼き上がったころ、再びリビングから少女の声が飛んできた。
カウンター越しに覗くと、彼女は相変わらず机を睨みつけたままだ。
「どうしたんだ?」
これが反抗期というやつなのだろう。
私が問いかけても、少女は返事どころか目も合わそうとしない。
「思うんだけど、有名な神社ってみんな列を作ってでも参拝するじゃない?あれって、馬鹿みたい」
久しぶりに話しかけてきたと思ったら、また突拍子もないことを口にする。
「なぜそう思う?」
「だって、あんなところで祈ったって神様には届かないんだから、無意味だと思わない?」
身も蓋も無い、なんとも不謹慎な考えだ。
やはり反抗期とはすえ恐ろしい。
「そんなことはないだろ」
そう答えると、少女はため息をこぼす。
「神様だってヒマじゃないのよ。そんな大勢で押しかけられたら、困っちゃうでしょ」
「…」
もしかしてこいつは、いつも私が仕事に出ている時間、こんなくだらない事を考えて過ごしているのだろうか。
そんな考えが脳裏を過ぎると、腹ただしくも、どこかいたたまれない気持ちにもなった。
机に向かう少女の横顔に、そんな眼差しを送る。
「学校は行かなくていいのか」
少し間を空けて、少女が口を開く。
「お金ないんでしょう?」
痛いとこを突く。
「少しばかり働いてもらえば、なんとかなる」
「そしたら、学校行けないじゃん」
そう言ったのち、少女は左手に万年筆を掴み、もう片方の手で白い便箋を押さえつけた。
まるで親の仇でも見るような、そんな眼差しで紙を睨みつける。
私はもう何も話さないでおくことにした。
______そのつもりだった。
だが真剣に机と向かい合う少女の姿を見ているうちに、思わず声をこぼしてしまう。
「お前だって一緒だろ」
万年筆の動きが止まり、少女は私へ顔を向けた。
「それ、何のこと?」
眉をひそめ、怪訝な眼差しを向けられる。
それはさっき机を睨みつけていた時よりも、ずっと冷たいものだった。
「その手紙のことだよ」
私は白い便箋に視線を送る。
「”宛名の無い手紙”を書いたところで、誰にも届かないのに、それこそ無意味だ」
少女は少し驚いたように目を開く。
「……ッ」
何か言おうとするが、返す言葉が見つからないようだ。やがて少女は諦めたのか、机へと向かい直した。
しばらくして、少女がゆっくりと口を開く。
「……おかしいよね。届かないのにね」
そう呟き、青い便箋を読み返す彼女の表情は、どこか愛おしげに感じられる。
まるで、差出人の顔がようやく見えたかのような、そんな眼差しだった。
そして少女は、便箋に綴りはじめる。
『記憶の地図』
記憶とは通り過ぎた過去の思い出であり、
地図とは向かう目的地へと導く案内図である。
記憶とは曖昧で、地図とは正確でなければならない。
相容れない2つの関係は、まるで水と油のよう。
しかし、水と油がそうなるように、この2つが交わって、ふと思いがけないものを生み出す瞬間がある。
「えー!凄いじゃん!めっちゃ上手いじゃん」
それは、特売チラシの空白を埋めるため、何気なく描いた絵だった。
メジャーな品種の野菜に手足や顔をつけた簡素なデザインだったが、即席にしては悪くないと我ながら感心していた。
翌朝、これが思いのほかパートさんらの好評を受ける。
「こんなのすぐに描けちゃうなんて、センスあるよ」
「息子に写真見せたら、すごい喜んでたわ!」
「ウチの娘、これ見てピーマン食べれるようになったの!」
普段は仲の悪い彼女らが、やたら団結して私を褒めるので、おそらく今後チラシの空白埋めは私が担当になるのだろう。
それが分かっていても、やはり褒められるというものは、なかなか悪くないものだ。
その瞬間ふと私の脳裏をかすめたのは、学生時代に漫画家を目指していた記憶だった。
私の中で消えていた、あの頃から続く一本の道が浮かび上がる。
記憶の地図とは、所詮ひとつの道でしかない。
地図の終着点がどこなのか定かではないが、少なくとも、その道を進まなければ続きは描かれないだろう。
そんな未来が思い浮かび、私は息を呑んだ。
『マグカップ』
「今日も、雨ね」
彼女はそう呟いて、白いマグカップを見つめていた。
カップの底には、飲みかけの紅茶が薄い曇り空のような模様を浮かべている。
朝起きるたびに、彼女はそのマグカップで一杯の紅茶を嗜む。
晴れの日はショッピングに出かけ。
曇りの日は図書館で本を読む。
雨の日は家でふたり映画鑑賞をする。
「マグカップの天気は、たいてい当たるの」
知人は笑っていたが、彼女にとってこれは約束事のようなものだった。
このマグカップは昔もらったものだ。
贈り主はもういない。
だけど、マグカップの天気予報は、時々思い出も運んでくれる。
「あ、もしかして、今日は午後から晴れるのかな。だったら、日傘を持ってかなくちゃね」
マグカップに浮かぶ曇天を飲み干すと、彼女はクローゼットに向かった。
鮮やかな向日葵が描かれた、お気に入りの傘。
たとえ天気が曇りでも、彼女の中は晴れる時もある。
そんな時は、この思い出の傘と一緒に出かけるのだ。
あの人のことを、いつまでも忘れないように。
『どうしてこの世界は』
「どうしてこの世界は、ゴミで溢れかえっているのだ!」
青年は右手に持ったポリ袋を、力強く握りしめた。
大容量90L、10枚入600円。色は透明。
少しお高めだがそのぶん生地はしっかりで、鉄やガラスが掠れても簡単には破れやしない。
青年は勢いよく、ゴミを集めていく。
あえて透明な袋を選んだのは、集めた戦果を通行人たちに見せつけるため。
彼らに反省を促すためだ。
そんな彼の姿を見て感心の声が上れば、冷たく嘲る者もいる。
たくさんの視線が通り過ぎていく中、
青年はどこか悲しげに、ぽつり呟いた。
「どうして誰も手伝おうとしないんだ」
彼にとって、応援も嘲笑もただの傍観に過ぎない。
ゴミ拾いの同士が増えない限り、この世界の汚れは悪化するばかり。
「あのー」
嘆く彼の肩に、ぽんと軽い手のひらの感触が触れる。
顔を上げると、目の前には半透明のポリ袋が。
青年は瞳を輝かせる。
「すいません。これも一緒にお願いしていいですか?この辺、ゴミ箱なくて……」
青年は叫んだ。
「どうしてこの世界は、ゴミで溢れかえっているのだ」