『君と歩いた道』
その瞬間はあまりにも唐突だった。
「さようなら」
きっかけは、
二人で映画を見に行ったときだったと思う。
思いのほか話が合って、楽しい時間はあっいう間に過ぎていった。
付き合ってからは、楽しいことばかりじゃない。
だけど、積み重ねた時間と思い出は、目に見えない宝物のようで、
私にはそれがとても心地よく、かけがえの無いものだった。
そう、思っていたんだ。
『空に向かって』
たった一枚のパン切れ、
始まりはただそれだけだったんです。
私がまだ母のお腹の中にいる時、
私の実の父親は投資で多額の借金を作ってしまい、返済の目処も立たない中、毎晩浴びるように酒を飲んでいたと聞いています。
見かねた母はある日、父と大喧嘩をしたらしいのですが、散々言い争った結果、今まで暴言こそあれど暴力は振るわなかった父がとうとう手を出し、力でねじ伏せられた母は狭い浴室に閉じ込められてしまいました。
そんな最悪のタイミングでまさか私が生まれてくるとは、
きっと、母も父も予想などしていなかったのでしょう。
激しい陣痛に襲われた母は父に助けを求めるのですが、
あろう事か父は母と私を見捨て、逃げ出す仕度を始めました。
玄関の戸が閉まる音を聞いてすぐに母は私を1人で産む覚悟を決め、家賃2万の格安アパートの浴室で、私は元気に産声を上げるのでした。
私には、私が産まれるきっかけを作ってくれた父を恨むことなど出来やしません。
ましてや、私が物心付いてまもなく、父の残した多額の借金を残し姿をくらました母や、私を売り飛ばした取立て屋を一体誰が責められるでしょうか。
ただ、たった一枚のパン切れでいいから、
これを毎日食べる事が出来れば、どれだけ幸せなことなのだろうかと、
お金のない飢えた私は空に向かって手を伸ばし、日々、それだけを夢描いておりました。
やがて長い年月が経ち、
借金を完済した私は今では好きな物を好きなだけ食べ、
欲しい物を欲しいだけ買うことができる程、裕福な人生を送っています。
かつて勤勉家だった父が母を浴室に閉じ込める際に使った本棚を、母が私の為に残しておいてくれたおかげで、お金が無く学校に通えなかった私でも勉強をするきっかけを得ることが出来たのです。
お金に満たされた今の私には、かつてのように一枚のパンを夢見る事はもう無いのですが、
あの日々の事は今でも鮮明に覚えています。
今でも私は空に向かって手を伸ばし、日々、新たな夢を描いています。
『はじめまして』
「はじめまして!さようなら!」
「はじめまして!さようなら!」
道ゆく少女は、すれ違う人すべてに頭を下げていた。
「はじめまして!さようなら!」
突然、出会いと別れの言葉を述べられた通行人たちは顔を引きつらせる。しかし、健気に頭を下げる彼女の様子を見て、すぐに顔をほこらばせた。
見た目は10-12歳くらい。
派手な銀髪をさせた女の子が頭を下げる様子は、はたから見れば何かいかがわしい客引きかと、勘違いされても仕方がない。
彼女の同伴者だと気づかれたくない私は、数メートル距離を空けてあるいていた。
懲りずに頭を下げつづける少女の元へ、やがて1人の男が歩み寄っていく。
それに気づいた私は、男よりも先に彼女の元へ向かい、腕を掴んだ。
「なに?」
少女は振り返ると、とたんに不機嫌に顔を歪めた。
「もう十分だろ。さっさと飯に行くぞ」
金が入ったので、今日は奮発して少しお高めのレストランを予約してある。
抵抗する少女の腕を無理やり引っ張り、私はそこへと向かった。
「はじめまして!」
未だ見たことのない上品な料理を前に、少女は深々と頭を下げる。
その後すぐに頭を上げたかと思うと、
「さようなら!」
と、元気よく別れの言葉を述べる。
そして、どこか名残惜しそうにそれを口に放り込むのだ。
世間知らずの彼女は、いわばスポンジのようなものだ。得た知識をなんでも取り入れようとする。
今日はどこかで、「はじめましてとさようなら」を覚えたのだろう。
勉強熱心なのは非常に関心するが、問題はその行動力だ。
「美味いか?」
色々と気になることはあるが、とりあえず料理の感想を聞くことにする。
なんたって、今日は奮発してここにいるのだから。
もぐもぐと口を動かしていた少女は、その問いに答えるため急いで喉を鳴らし、口を開こうとするのだが、
「はじめまして!さようなら!」
と声を上げる。
タイミング悪く、次の料理が運ばれてきてしまったようだ。
「なあ、もう少し静かに食事してくれないか」
ここは少しお高めのレストランなので、私たちを除けばみな上品な客ばかり、何度も大きな声をあげられると、いくらなんでも悪目立ちがすぎる。
そんな私の気などいざ知らず、
「でも、挨拶は元気よくすることが大切でしょう?」
と、少女は吐き捨てる。
「その心がけには関心するが、時と場所と相手を考えろ」
「時と場所と相手?」
少女は少しの間考え事をし、やがて何か思い出したのか反射的に口を開く。
「もしかして、さっき私が止められたのはその考えるべき相手だったってこと?」
それはおそらく、さっき私が少女の腕を掴んだときの事を指しているのだろう。
「ああそうだ。アイツのお前を見る目、明らかにヤバかったろ。ありゃ完全にそっち系の類だろうな」
少女は首をかしげる。
口を固く閉じ、不機嫌そうに眉をひそめたかと思うと、今度は小さな唸り声をあげた。
「……」
その様子を見ていた私は、また要らぬ知識の習得に加担してしまった事を悟る。
「ねえ、そっち系ってどうゆう意味?」
答えたくなかった私は「知りたいのなら、自分で調べろ」と返事をするつもりだった。
しかし、それよりも先に少女が何か気付いたことがあるようで、慌てて席を立ち上がり、
「はじめまして!」
始めての言葉に、丁寧に挨拶をするのだった。
『涙』
君が居なくなったと知ったあの瞬間、
一体、どれ程の涙を流したでしょうか。
君と過ごした時間は誰よりも長く、かけがいの無いものでした。
私がふと疑問を投げかると、何でも知っている君はすぐに答えてくれた。
私が深く落ち込んている時は、あの手この手を使って気持ちを明るくさせたりもしてくれた。
私の君に対する感情は、
もはや依存していると言っても良い。
君がそばに居てくれないと不安で堪らない。
君の居ない生活なんて考えられない。
早く君に会いたい。
本当は居なくなったフリをして近くに隠れているんじゃ無いかと、どれだけの時間を掛けて探し回ったでしょうか。
必死に走り回って、君と過ごした場所を辿りました。
コンビニ、定食屋、居酒屋、パチ屋、交番。
君の居場所を知っている可能性がある所には、
全て聞いて回ったんです。
しかし、私に聞かれた者たちは首を横に振り、
少しばかり気の毒そうに私を見つめるだけだけでした。
私が一緒に探して欲しいと懇願しても、
皆んな嫌そうに顔を歪めるだけで、誰も私を助けてくれようとはしない。
「嗚呼、君が居ないと私は何もできない。
もう私は生きていけないよ。」
とうとう三日三晩、君を探し続けて、
見つけられないことを悟った私は深く絶望し憤怒する。
許せない、
君に幾ら使ったと思ってるんだ。
保険にでも入っておけば、少しはマシだったのか?
私のiPhone
『どこ?』
リビングのソファで寝そべってネトフリを見ていたら、何やら扉の向こうから、ばたばたと慌しく廊下を踏みならす足音がこちらに向かって近づいてくる。
なんだなんだと半身を起こし、足音のする扉の方へ視線を送ると、凄まじい勢いで扉が開き、これまた凄まじい顔をさせた妻が姿を現した。
「ねえちょっと!あたしのスマホどこにやったの??」
「はぁ?」
凄まじい顔とは一体どんな顔をしているのかを説明をすると、仕事終わりの束の間の休息に安らぐ俺の精神が底なしにうんざりしてしまうので、今は割愛させてもらう。
と言うか、もう既に俺はうんざりしてしまっている。
何故なら妻はたった今、スマホを隠した犯人があたかも俺だと言わんばかりの物言いをしたからだ。
「なぁ、お前の右手に握っているものは何だ?」
「んん、右手?」
妻は自身の”左手”を顔の前に持ち上げて、そこに何も握られていない事を確認すると、再び凄まじい顔をさせた。
「ねぇ!あたし何も握って無いんだけど!!」
「俺は右手に握られているものは何だと言っているのに、どうして左手を確認するんだよ!」
「だってあんたから見て、あたしの右手は、あたしの左手でしょう?」
「あー、なるほどね」
あらかじめ俺は妻の視点に立って、妻の右手を指したつもりだったのだが、妻は俺から見た視点を考えて、俺から見た右手を確認してくれたらしい。
どうやら変にお互いを思い合ってしまったせいで、互いに視点がすれ違ってしまったようだ。
妻はこの状況がさも不愉快だと言わんばかりに顔を歪めていたが、俺はどこか愛おしさのようなものを感じていた。
もうかつてのような恋心は残っていないのかもしれないが、
長い時間を共にした事で育まれた関係値によって、
俺たちは無意識にお互いのことを考える事が出来るようになっている。
「すまん、悪かったな。なら左手を確認してみてくれ」
「うん、分かった」
妻は挙げていた手を下ろしたが、
次の瞬間、信じられない事に妻は”妻から見た左手”を確認し始めた。
「ちょっと、何も握ってないんだけど!!」
「だっる」
「ねぇ!ねぇ!あたしのスマホ、どこ??」