『空に向かって』
たった一枚のパン切れ、
始まりはただそれだけだったんです。
私がまだ母のお腹の中にいる時、
私の実の父親は投資で多額の借金を作ってしまい、返済の目処も立たない中、毎晩浴びるように酒を飲んでいたと聞いています。
見かねた母はある日、父と大喧嘩をしたらしいのですが、散々言い争った結果、今まで暴言こそあれど暴力は振るわなかった父がとうとう手を出し、力でねじ伏せられた母は狭い浴室に閉じ込められてしまいました。
そんな最悪のタイミングでまさか私が生まれてくるとは、
きっと、母も父も予想などしていなかったのでしょう。
激しい陣痛に襲われた母は父に助けを求めるのですが、
あろう事か父は母と私を見捨て、逃げ出す仕度を始めました。
玄関の戸が閉まる音を聞いてすぐに母は私を1人で産む覚悟を決め、家賃2万の格安アパートの浴室で、私は元気に産声を上げるのでした。
私には、私が産まれるきっかけを作ってくれた父を恨むことなど出来やしません。
ましてや、私が物心付いてまもなく、父の残した多額の借金を残し姿をくらました母や、私を売り飛ばした取立て屋を一体誰が責められるでしょうか。
ただ、たった一枚のパン切れでいいから、
これを毎日食べる事が出来れば、どれだけ幸せなことなのだろうかと、
お金のない飢えた私は空に向かって手を伸ばし、日々、それだけを夢描いておりました。
やがて長い年月が経ち、
借金を完済した私は今では好きな物を好きなだけ食べ、
欲しい物を欲しいだけ買うことができる程、裕福な人生を送っています。
かつて勤勉家だった父が母を浴室に閉じ込める際に使った本棚を、母が私の為に残しておいてくれたおかげで、お金が無く学校に通えなかった私でも勉強をするきっかけを得ることが出来たのです。
お金に満たされた今の私には、かつてのように一枚のパンを夢見る事はもう無いのですが、
あの日々の事は今でも鮮明に覚えています。
今でも私は空に向かって手を伸ばし、日々、新たな夢を描いています。
4/3/2025, 6:58:36 AM