『誰よりも、ずっと』
思い返せば小学生のころ。
私は誰よりも、ずっと清く正しく、真っ当な人間でありたいと思っていた。
理由は単純で、
他人を貶したり馬鹿にしたりする人が気に食わなかったからだ。
しかし大人になるにつれ、私は迷い始めていた。
結局のところ正しさなんてものは人それぞれで、
真っ当な人間になるには想像以上に努力が求められたからだ。
実際のところ、今ここにいるのは理想を掲げるだけで、自分からは何もしない。
ただのろくでなしだった。
「だったら今からでも努力すべき。人生に遅いなんてことはないはず」
「それは成功者の詭弁だ。大抵の人間は衰えからか、その気力はない」
ああ言えばこう言う。そうやって逃れ続けてきた。
いつからだったかなんて覚えてない。
たぶん子どもの頃には身に染み付いていたと思う。
この逃げ癖と高い理想を掲げながら、きっと私は孤独に消えていくのだろう。
『星が溢れる』
「先輩、戻りましょうよ〜」
街外れにある、とある廃ビルの一室にて。
私は剥き出しになったコンクリに集音器を当て、となりの部屋に聴き耳を立てていた。
「おっ、次は麻薬の元締めについて話すらしい。これは、どんどんシマが上がるぞ」
「やっぱり危険ですよ。早く誰かに連絡するべきでは」
そういいながら、私の背広を力なく引っ張るのは、
私の部下もとい後輩。
今年で3年目になるらしい。
だんだんと、背広を引く力が強くなるので、
仕方なく集音器から耳を外し、私は後ろへと振り返った。
「お前は、このままでいいのかよ」
「何がです?」
後輩は、さも不思議そうに首をかしげていた。
その表情のなんたる呑気なことか。
こいつ、自分の置かれてる状況をまるで理解していないようだ。
「いいか?この薄いコンクリートの壁の向こうには、世間にも公表されない、凶悪なホシが溢れているんだ。それをお前、指を咥えてみてろって言いたいのか」
「いや、だから他の人に連絡して、応援を呼びましょうよ」
「それだと、俺の手柄にならないだろうが!!」
その声は、築数十年と思われるこの廃ビル内に響き渡った。
すると、となりから何名かがこの部屋に駆けつけて、
私たちはどこかへ連れ去られてしまう。
現在。
ここがどこなのかは分からない。
ただ一つ、確かなことがあり、
それは、見上げた夜空には、星が溢れる。
じきに私たちも、あの中の一つになるのだろう。
『もっと知りたい』
あの人はああだとか。
この人はこうだとか。
人は、人のことを気にしてばかり。
「自分のことは、まるでわかってない癖にね」
「ああ、全くその通りだと思う」
お互いに頷くと、二人はゆっくりとブランデーの続きを啜った。
誰もがもっと、自分自身に目を向けるべきだと思う。
例えば、一度書いた文を読み直すとか。
自分を通して、他人を見るのではなく、
他人を通した自分を理解する必要がある。
相手に指摘やダメ出しばかりする奴は、
それがまるで分かっていない。
あろうことか、そういう奴に限って、
取り巻きに持て囃され、自分が上手くやれていると勘違いしているから、本当にタチが悪い。
「まさに、”井の中の蛙、大海を知らず”といったところだろう」
「ええ、その通りね」
片方がくすくすと笑い、ブランデーを吹きこぼす。
そうすると、店で呑んでいた他の客たちも大声で笑いだした。
「これは、誰が悪いとかそういう話じゃない」
「そうね」
「誰にだって努力はある、経験もある。
それを省みず、腐したり、軽蔑するような行為は、たとえその相手が誰であろうと」
「その振る舞いは、あまりにも嘆かわしいものだと、私は思いますよ」
『平穏な日常』
「あんた、だれ?」
フード付きのスウェットと、さらさらとした長髪。
赤縁のメガネの向こうから、鋭い眼差しがこちらを見つめていた。
「いや、ここオレの家だけど」
会社から帰宅すると、
1Kアパートの自室に、見知らぬ女性が転がり込んでいた。
季節は3月の中頃で、日中もまだ肌寒い。
いつも日没に帰宅する私にとって、紺のトレンチコートは、帰ってからもすぐには手放せない。
だというのに、今日は玄関入ってすぐ、
私の全身は今すぐコートを脱げと、汗が吹き出しはじめていた。
「おいこれ、何度に設定されてんだ」
半開きになった扉から、
真夏の室外機のような熱気が突き抜けていた。
あの向こうで、悲鳴をあげているエアコンのことを考えると、心と来月の電気代がいたむ。
早くあいつを止めてやらなければ。
訳もわからぬまま、靴を脱ぎ捨て、自室へと向かう。
しかしそこに、女性が立ち塞がる。
「不用心だから、鍵は閉めていたはずだけど、どうやって扉を開けたのかしら」
「それはこっちの台詞だよ」
彼女を払いのけ、今度こそ部屋へと向う。
中はサウナ室だった。
エアコンを止めるため、木製テーブルへと視線を向けるものの、
「うわ、何だよこれ」
普段から、リモコンしか置いてない筈のテーブルの上には、
ビニール袋と、バーガーやら牛丼やらの容器が散乱。
どうやらこの女、勝手に人の家に上がり込んだうえ、
デリバリーまでしたらしい。
「ほんと、不用心よね。パスワードはもう少し複雑にするべきだわ」
そういって、女性はベッドの上に転がったタブレットを指差した。
「まさか…」
慌ててスマホを開く。
クレジットの使用履歴を確認すると、正午と夕方に覚えのない金額があった。
合計、6千円。
1週間のランチ代が消えてしまっている。
まじで何なんだよ、この女は。
「ねえ、あれ見てよ」
絶望する私のことなどいざ知らず、女性は再びタブレットを指差す。
そこには、何かのドラマか映画の映像が流れていた。
どうせあれも、私のサブスクに決まってる。
「わたし、恋愛映画が好きで、よく観るんだよね。それも純愛じゃなく、どろどろしたやつ」
「だから、どうしたんだよ」
投げやりに尋ねると、ふっと不適な笑みが帰ってきた。
「ああいうのって、みてると安心するの。自分よりまだ、不幸な人が居るんだって。私の方が、平穏な日常を送れてんだって、…そう思うの」
だから、どうしたんだよ。
そもそも、どうやって入ったんだよ。
『この場所で』
猫が目の前を横切った。
リズミカルに鈴の音を鳴らし、右から左へ。
優雅に過ぎ去っていった。
一見、私の事など気づいていないような素振りだが、
その実ちゃっかり、尻尾を振って誘惑しているのは明白だろう。
当然、頭では理解している。
しかしながら、体は正直というもので、私はまんまと彼女の後を追いかけることとなった。
「ミャーン」
「……‼︎」
何たる甘い鳴き声か。
危うく失神するところだった。
しかし幸いにも、
今日の私は、幸運の女神に祝福されている。
なんと、右ポッケに入れていたナイフが、偶然太ももに突き刺さり、かろうじて気絶を免れることが出来た。
私は右脚を引きずりながら、子猫ちゃんを追いかけていく。
「ミャー」
「……⁉︎」
危ないところだった。
また私は気を失うところだった。
よろめいたとき、体を電柱にぶつけてしまった。
しかしながら、幸いにも内ポケットしまっていた粉末の殺虫剤は破れずに済み、舌を噛むだけで済んだ。
そうして私は、彼女を追いかけるため、路地裏の深いところまで進んで行った。
「ミャオ」
相変わらず子猫ちゃんは甘ったるい声を上げていた。
そして、電柱の前に片足を上げ始める。
「……な゛んだと⁉︎」
まさか子猫ちゃんは、この場所でするつもりなのか。
こんな薄暗いーーー路地裏の隅っこなんかで。
次の瞬間、私は貧血のあまり、地面に倒れ込んでいた。