『この場所で』
猫が目の前を横切った。
リズミカルに鈴の音を鳴らし、右から左へ。
優雅に過ぎ去っていった。
一見、私の事など気づいていないような素振りだが、
その実ちゃっかり、尻尾を振って誘惑しているのは明白だった。
当然、頭では理解しているのだが、体は正直
というもので、私はまんまと彼女の後を追いかけることとなった。
「ミャーン」
「……‼︎」
何たる甘い鳴き声か、
危うく失神するところだった。
幸いにも今日の私には幸運の女神がついてるようで、
ズボンのポッケに入れていたナイフが偶然突き刺さり、何とか気絶を免れることが出来た。
私は右脚を引きずりながら、子猫ちゃんを追いかけていく。
「ミャー」
「……⁉︎」
危ないところだった。
また私は気を失うところだった。
よろめいた時に、体を電柱にぶつかってしまったが、
幸いにも内ポケットしまっていた粉末の殺虫剤は破れずに済み、代わりに舌を噛むだけで済んだ。
私は彼女を追いかけるため、路地裏の深いところまで進んで行った。
「ミャオ」
相変わらず子猫ちゃんは甘ったるい声を上げたのち、
電柱の前に片足を上げ始める。
「……な゛んだと⁉︎」
まさか子猫ちゃんは、この場所でするつもりなのか。
こんな薄暗いーーー路地裏の隅っこなんかで。
次の瞬間、私は貧血で地面に倒れ込んでいた。
『君に会いたくて』
「君に会いたくて、地球を一周してきたんだ」
それは一聴するとロマンチックにも聞こえるが、本当に会いたい人ならば、わざわざ地球を一周してくる必要なんてない。
むしろそれは会いたくない人にする行為だ。
などと考えながら、この両手にいっぱいの花束を持った男に、私は少しばかり軽蔑の眼差しを送る。
男の格好はあまりにもみすぼらしく、それこそ会いたい人にするべき格好ではなかったからだ。
手入れされず無造作に伸びた髭に、不潔な長髪。
黒のTシャツ?は泥まみれにボロボロで、同じく黒のズボンなんか両膝のうえで破れて短パンになってしまっている。
靴もひどい。かろうじて革靴だが、どれだけ使い潰したのか汚れと傷で傷みきっている。
よく見ると、男の格好はタキシードの一張羅だった。
その瞬間、私の脳裏にとんでもない考えが過ぎる。
もしかしてこの男、本当に地球を一周してきたのか?
それを裏付けるように彼の胸ポッケからは海藻がはみ出す。
まさか船も使わず、ここまで泳いで渡ってきたというのか。
「ああ、これかい?」
私の視線に気づいたのか、男は恥ずかしそうに胸ポッケから海藻を取り出した。
「泳いでる途中、キミに似合うと思って取っておいたんだ」
そう言って男は花束を私に預けた。
そして海藻を広げて輪を作ると、まるで花冠のように私の頭に被せてくれたのだ。
『閉ざされた日記』
わたしは毎日日記を書いている。
最初のころは書きはじめるまでに随分と時間がかかっていた。
何十分、下手をすると1時間以上も、ぼーっと机の上を眺めているだけ。頭の中では色々と考えているのだが、何を書けばいいのか、上手く内容がまとめられなかった。
しかし、今ではなんて事はない。
気づけば習慣のひとつとして体に染み付いている。
やはり何事も継続が大切なのだろう。
日記の内容はその日によってまちまちで、自分が体験したこと、考えたこと、今日のニュース、とか。
特に書くことが無ければ明日の予定について綴ることもあった。
それでも、どうしても何もない時は1行目に『特に何もなし』と一言だけ書いて、その日の日課は終了としていた。
それくらい気楽な方がいいと思う。
でなければ、日記なんてもの私には続けられない。
そんな私がそれでも日記を書こうと思ったのは、いつか自分で読み返すとか、死んだあと家族に読ませるためのものとか、そういった類の理由ではない。
私は書き終えた日記は自分でも読めないよう、金庫の中に保管している。
何十年、もしかすると何百年後。
この閉ざされた日記が誰かの手に渡り、それがいま私が生きている時代の歴史を紐解く記録の一つとして、末永く残り続けてくれたらいいな。
なんて、ロマンチックに目覚めたからである。
『雪原の先へ』
視界は真っ白で何も見えない。
降り注ぐ大粒の雪が瞳を打つたび、眼球が凍りつきそうな痛みが走り、思わず目を閉じてしまう。
一度目を伏せると、そこは深い暗闇の世界だ。
暗闇の番人が、どこまでも、どこまでも、私を闇の底へと誘おうとする。
その誘惑に負けてしまえば、もう私に明日はない。
頭では理解していても、ゆっくりと、しかし確実に、闇の番人は私のすぐそばまで迫ってきている。
だから私は足を動かし続ける。
一歩、一歩、確実に。
前に進むため。
先に言っておくが、これは決して不慮の事故なんかじゃない。
雪原には、私の自らの意思で入っていったのだ。
普通に暮らしていれば、こんな苦労をすることは無かっただろう。
転ばぬ先の杖とはよく言うが、後悔先に立たずもよく耳にする話だ。
何にせよ、もはや私は、この雪原の先に何があるのか確かめる他ないのである。
『子供の頃の夢』
原っぱの真ん中で竜が眠っていた。
大きな体躯は燃えるように赫く、分厚い鱗の瞼は硬く閉じられる。
長い口元が寝息を立てるたびに、そこから熱を帯びたものがこぼれ、少しだけ景色が揺らいだ。
竜は円を描くように寝そべっていた。
垂れた翼が陽を遮り、円の中に深い影を作る。
その奥にぼんやりと見えるのは、小さな人影だ。
歳はまだやっつを迎えたばかり。
1人の少年が、竜の小指もない小さな体を大の字にして、心地よく寝息を立てていた。
少年は夢を見ていた。
母親のように、強く気高い竜となって大空を自由に駆ける夢。
彼はいつか自分も竜になると信じていた。
竜も彼が自分の子どもだと信じていた。
夢の中で竜が旋回すると、少年も寝返りをうって母親の胸の中にうずくまる。
竜は少しだけ瞼を動かすと、また静かに寝息を立て始めた。
いつしか少年は20歳を迎えていた。
だが彼は大人になっても竜になることはなかった。
人の村で暮らすことを選んだ少年を、竜は遠くの山から見守っていた。
竜は何も言わなかった。ただ、静かに目を細める。
やがて年老いた彼は、子供の頃の夢を思い出す。
母親のように立派な竜となって、大空を駆ける夢。
結局、彼の夢は叶うことはなかった。
次の日、再びあの原っぱを訪れた。
けれど竜はもう、どこにもいない。
そこにはただ、赫く焦げた円の跡があるだけだった。