テーマ:『君に会いたくて』
視界の景色があっという間に過ぎていく。
小石を巻き込み自転車の後輪が跳ね上がる。
ゆったりとした下り坂を、足が追いつかないほど速くペダルを回していた。
噴き出す汗で服が張り付く。息をするたび肺のした辺りが痛む。喉もとで鉄のような味がする。
でも、苦しいとは思わなかった。
君に会うために。君と、そのときを共有したいから。
君の、その瞬間をすぐそばで見ていたいから。
家族からもうすぐかもしれないと連絡があって飛んできたのだが、果たして間に合うかどうか。
家に到着すると自転車を捨てるように降り、ただいまも言わずに自室へと向かった。
そして神棚に飾るかのように置いてある小さな箱を慎重に取り出す。
中にいる彼女の様子を確認した。
「良かった!今からだ!」
箱の中には白く輝く小さな糸の玉。その一部が茶色く変色し、穴が開く。
彼女―――蚕が羽化する瞬間に僕は立ち会っている。
田舎のおばあちゃんから譲り受けた蚕の幼虫。その時おばあちゃんは二つのことを僕に教えてくれた。
蚕の繭から絹を作るには、繭の中に蚕がいるまま熱湯に入れて、蚕が死んだ状態で繭から絹を紡ぐこと。
蚕は成虫になると羽が生えるが飛べず、食べ物を食べる力さえないからすぐに死んでしまうこと。
そう話した上で、おばあちゃんは僕に聞いた。
お前はどうする。
それは、幼虫の段階で殺して絹をとるか、すぐに死ぬとわかっていて成虫まで育てるかのどちらかを選べという意味だ。
僕は即答した。この子は成虫にさせると。
金を紡ぐ繭玉を断ち切って、彼女がその全身を晒した。
あの幼虫からは想像もつかないほどに、美しく愛らしい姿をしていた。その体毛の白さはまさに絹色。クリっとした瞳と小さな手足。それは虫というよりも天使と言った方がしっくりくるほど、素敵な容姿であった。
あぁ、良かった。無事に羽化できた。
ほっと胸を撫で下ろし、やっぱり成虫にさせて正解だったと誰に聞かせるでもなく言った。
しかし、彼女の残りの命はもうわずかなのである。
それを知ってか知らずか、彼女は飛びたとうと懸命に努力している。が、どれほど力強く羽ばたいてもその身体はちっとも浮かばない。
なおも羽ばたく彼女を見て、僕は心を締め付けられた。
この命は愛しく、儚く、尊い。
僕は、君に会うために。
君は、僕に会うために。
テーマ:『木枯らし』
寒風ふきすさぶ北の大地。陽の温もりを感じさせない曇天のなか、禁忌の森の奥地にその男はいた
そこにはひときわ異彩を放つ大木があり、男は虚ろな目でそれを見上げていた。
「やぁ。元気かい」
掠れた声で男は言った。
村人達が恐れる大木―――“誘いの木”に向けて。
突然、男は視界が揺れる感覚に襲われた。酷い吐き気を催したが、視界が安定するまでなんとか耐えた。
すると、誰もいなかったはずの男の目の前に女がひとり佇んでいた。
その姿は俗世とかけ離れた美しさを秘めていた。
歳は16ほど。輝くように白い肌と腰まで届く黒絹の髪、幼さと同時に妖艶な雰囲気を漂わせる女は、正面の男を見つめては妖しく微笑んでいる。
「今日もいらしてくださったのですね」
淡桃色の唇が小さく開き、魅惑の声音が男の耳をくすぐる。それだけで男は絶頂した。初めてその姿を目にしてから毎日こうして会いに来ているわけだが、その度に新鮮なな驚きがある。嗚呼なんて美しさなんだ、と。
見慣れる気配すら感じられないほどに強く心を奪われてしまったのは、それだけ女に惚れてしまったからなのか。はたまた妖術にでもかかっているのか。
いずれにせよ、それは男にとって重要なことではなかった。今こうしてその女の存在を感じられることに幸福を覚えていたからだ。
しかし、と女は言う。
「私は冬を越えることが難しいようです。もしかすると貴方に会えるのもこれが最後かもしれません」
「そんな……!」
男は凍った思考を無理矢理うごかし、あらゆる策を提案する。村中の毛布をかき集めて暖めよう。村の食糧庫から食べ物を持ってこよう。
だが提案する度に女は首を振る。哀しく微笑みを維持したまま、それでは駄目なのですと。
男は諦めなかった。何か方法はないものか考え込む男に向けて、ひときわ艶めかしく女は言った。
「もし、貴方がそばにいてくだされば、この冬は寒い思いをせずに済むかもしれませんね」
「……!!」
男が竦んだのは甘い言葉にやられたため。女の目の奥に恐ろしい光が宿ることに気づきもしなかった。
「あぁ居るともさ。冬を越えるまでと言わず永遠にでも!!」
「ふふふ。嬉しいです。」
瞬間。冷たい風が吹き荒び、大木の葉を毟り取る。
すると、女は笑みを浮かべたまま霧のようにすうと消えた。
禁忌の森でまた一人になった男だが、その場から動こうとはしない。あの女と約束したのだ。ずっとそばにいると。
風が吹く―――
周囲では木々が生き物のように揺れている。
風が吹く―――
男の体温がじりじりと奪われる。
風が吹く―――
誘いの木は静かに佇んでいる。
またひとつ、葉が落ちた。
テーマ:『美しい』
住宅街にひっそりと営んでいるカフェ“ハチみつ“
私は長年ここで働いている。
ここでいろんなお客さんと触れあっていると様々な価値観があることを知る。私はそれに影響されてたくさんの物事に興味や疑問を抱くようになっていた。
そのせいか、今では物思いに耽る時間が一日の大半を占めるようになっていた。
店内にお客さんは一人もいない。何をするでもなく、ゆったりとした時間だけが流れる。こういう時間があるからついつい考え込んでしまうのだ。
ここ二日くらいは、人にとって美しいとはなにかがテーマだ。
人の言う美しいものはあまりにも多い。誰かが「醜い」と言ったものを、別の誰かは「美しい」と言う。
そのもの自体が美しいと思うのはもちろん、そこまでに至る過程が美しいと思う人もいる。
そうなると、この世の全ては美しいということになる。
が、少し腑に落ちない。
人は美しいものを追求する。動きや結果、過程などを、より美しいものにするために。例えそれが世界で一番美しいものだとしても。
それは本当に美しいと思っているのか疑う行為だ。現状に満足してないからそうするのではないか。
これよりも美しいものがあるはずだと思っているから人はそれを追求するのであろう。しかしそれはまだ美しくないと思っている証拠なのではないだろうか。
いや、もしかするとその過程こそが人が感じる“美しい”ものの正体かもしれない。なるほど、過程が美しいというのはこのことか。
人は、今の“美しい”よりも未だ見ぬ“美しい”に心を奪われているのだ。
チリンチリンと、来店を告げる鈴の音が軽やかに鳴り響く。それを聞くやいなや物思いに耽っていた頭を瞬時に切り替える。さぁ仕事の時間だ。
お客さんは若い女性の二人組で、通されたテーブルにつくなり店内の雰囲気に小さくはしゃいでいる。注文するメニューを決めているときも何だか楽しそうにしている。
注文を受けて店主が品物を提供するまでのあいだ。それが私とお客さんが触れ合う時間だ。
私は、ゆっくりとした足どりでお客さんの足もとまで行くと一声吠えた。
「わふっ」
すると二人ともこちらに気づいたようで、私を見るなり黄色い歓声をあげた。
「え〜かわいい〜〜 なんていう子だろう」
ハチって言います。店の名前にもなっています。
「でもちょっとブサイクだね」
それは聞き捨てならない。
「わかる。丁度いいくらいのブサイクだよね。君ブチャイクだね〜〜」
そんなん可愛く言ってもダメージ変わらないんですが。
まぁ何を言っても私――犬の言葉は人には伝わりませんがね。あ、この人おいしそうな匂いする。舐めとこ。
「や〜ん本当かわいい〜ブサカワだね。君ブサカワよ」
何だそのブサカワというのは。ブサイクと可愛いってどっちかじゃないのか。絶対に交じりあわないものだろう。
「あ~ブチャカワだ〜ブチャカワブチャカワ」
こちらの人間は可愛く言えばなんでもいいとでも思っているのか。あ、この味は鳥だ。鳥食べて来てるよこの人。
その後もひたすらブサカワと呼ばれて撫で回される私。
ブサカワってなんだろう。
物思いに耽るときに使う題材がまたひとつ増えた。
テーマ:『この世界は』
―――千年に一度、この星に月が最も近づく日。
今宵ふりそそがれるは災いの光り。照らされる全てのものは冷たく、青に染まる。
そして―――
薄い外套に身を包み、仄暗い森のなかを月あかりだけを頼りに進む。背の高い木々はどれも奇怪な格好をしていてそれが闇へと誘いこむ魔物のように見える。
だいぶ前から喉が乾いているが、水袋の中身は残り少ない。はやく飲み水を確保しなければならないのだが、残念ながらその時間はない。迷わずにまっすぐ行けたとしても、目的達成に間に合うかどうか。
歩く速度を上げたつもりだが、四肢の感覚が麻痺していてうまく歩けているのかすらも分からない。からだ中から響く悲鳴は聞こえないふりをしている。限界はとうに超えていた。
ふいに、一匹の蝶が目の前を横切った。
鮮やかな飴色に黒で細く縁取られているその翅は、万物を青に染めあげる月の光りをものともせず、異彩な存在感を放っている。
それはまるで、悠久の時のなかで太古の光りを秘めた琥珀の翅。
蝶はこちらを誘うように森の奥へと飛んだ。ひらひらと、しかし真っすぐにどこかへ向かっているようだった。意を決してそのあとを追いかける。
どのくらい経っただろうか、蝶に誘われるがままついて行くと大きくひらけた広場に行き着いた。
眼前に広がる此の世のものとは思えない光景に、息をすることさえ忘れていた。
広場には、人の手でつくられたであろう建造物があり、その一部が広場の中心にある水晶色の泉に水没している。
足もとには見たこともない植物が生い茂り、そこかしこに得体のしれない光が漂っている。
星空を思わす瑠璃色の葉と、光沢を帯びた純白の幹をもつ大樹が広場をぐるりと囲み、頭上には今にも堕ちてきそうな青い月がしんしんと光りを放っている。
青と白でできた、美しくも冷たい神秘がそこにあった。
疲労も痛みも何もかも忘れて、ただ見惚れてしまっていた。危うく、本来の目的を見失ってしまうところだった。
すると、目の前をまたあの蝶が横切った。蝶は遥か上を目指して飛んでいく。
目の先で追いかけていると、別の蝶が視界に入った。翠玉の翅をもつそれもまた、上へと飛んでいく。さらに黄玉の翅をもつものや、紫水晶の翅に紅玉の翅など、多彩な翅の蝶が空へと飛んでいった。まるであの月を目指しているかのように。
何十匹。いや何百匹と天高く舞っていくさまは、この冷たい空間に色とりどりの宝石をばら撒いたようで、少しだけ温もりを感じられたように思えた。
だが、しかし。
美しい光景とは裏腹に、非常に残酷な事実を突きつけられているのだ。
気がつけば、涙が頬を伝っていた。自分が泣いていることを認識すると、激しい感情が渦となり心臓を暴力的に押し上げ、嗚咽を吐かせ、涙を決壊させた。
「ごめんなさい。間に合わなかった」
彼方むこうの月を装飾するように、夜空に散りばめられた宝石たちに向けて、私は力無くそう呟いた。
一陣の風が吹いた。優しく涙を拭うかのように。
その風に乗って、彼らは更に高く舞いあがった。
高く、高く、
―――千年に一度、この星に月が最も近づく日。
今宵ふりそそがれるは災いの光り。照らされる全てのものは冷たく、青に染まる。
そして
この世界は、新しく彩られる。
テーマ:『どうして』
私のすぐそばを、色とりどりの寿司が流れていく。握りに軍艦、揚げ物やスイーツまである。
少しすると初めて見るネタも回って来た。ポテトチップスに駄菓子、漫画本にハンドクリーム。あっ、スマホの充電器もお皿に乗ってやってきた。
そんな魅力的なレーンがある横、私達が囲んでいるテーブルの中央では、もうもうと上がる煙の中で汗だくの男が手際よくもんじゃを作るという光景が繰り広げられていた。
どうしてこうなった―――
遡ること一週間ほど前。知り合いが運営する小さな回転寿司屋が閉店する知らせを聞いた。
その店はそこそこの田舎にあって、最近になって車で十数分で行ける場所に大手チェーン店が建ったらしい。それで客がそっちに流れてしまって売り上げが激減し、なくなく閉店する決断をしたとのこと。
私も昔はよく行っていて、いつ訪れても地元の人々が温かく迎えてくれた。客も店主もアットホームすぎるけど、それがあの店のいいところでもあった。
閉店してしまうなら最後にもう一度行ってみようと店主に連絡をしたところ、どうやら週末に最後の営業をするらしい。ぜひ来てほしいと言われ、二つ返事で約束をした。
店の雰囲気がいいだけでなく、寿司も普通に美味しいのでとても楽しみにしていた。
そして当日。
「何だこれ」
店の扉を開いた先に広がっていた光景に、私の思考はピタッと止まってしまった。
店内は人で溢れかえり、様々な音や匂い、話し声でひしめき合っている。あるところでは酒が所狭しと置いてあり、またあるところでは花束が山積みになっており、さらには銅鍋から何かを掬って配っているところもあったりで、もうシッチャカメッチャカになっている。
棒立ちの私の前を子供達が走り抜けていった。誰かが私のことを手招きしている。誰かは知らない。ホントに初対面。
私は手招きをした人物の方へと向かった。その短い間にも寿司屋らしからぬものがあるのを視界の端に捉えていた。じゃらじゃら音がするのは麻雀をしているテーブルがあるからである。
私がテーブルにつくと、あっと言う間にそこの空気に取り込まれてしまった。温かくて、優しくて、大きなものに包まれるような安心感によって、これ以上ないほど早く打ち解けていたのだ。
店主にも挨拶を済ました後、知らない顔を紹介されたあとすぐに打ち解け、また新しく紹介されては打ち解けを繰り返していた。
店内の人数は増える一方。また誰か新しく来たらしい。入店した男性の手にはなぜかホットプレート。
その男性は私のいるテーブルにやってきた。この店の近くでもんじゃ焼きをしている方なのだそうだ。今からご馳走してくれるらしい。……えっ、いまここで?
―――そして現在に至る。
ここまでの経緯を振り返ってるうちにもんじゃが出来上がっていた。寿司屋で食べるもんじゃは、美味しいけどなんだか不思議な感じだ。
私がアツアツのもんじゃを食べている真正面では、男性がもんじゃを取り分けて回転寿司のレーンにせっせっと乗せていた。レーンにはもんじゃの他に同じ絵柄の雀牌が4つ流れている。すぐ後から変身ベルトが乗った皿が追いかけていた。
隣の席からはこっちにももんじゃをお願いという声が飛び、あちらの席ではカラオケが始まり、向こうの席ではテーブルゲームで超エキサイティングしている。
酒を少し仰ぎながらこうして辺りを見渡すと、自然と口の端が上がってしまう。
ほんと、
どうしてこうなった。