きみがいつになく、デパートに行きたいって言うから手袋は忘れずに着けてきた。エスカレーターで何度も建物の中心を回りながら少しだけ見えるそのフロアの雰囲気を、サブスクみたいに味わう。
手袋を買ってくれた階でドキッとしたけれど、予習していた気分になっただけだった。
上階に行くエスカレーターが途切れた最上階。催事場の看板があるそこ。
「あっ、バレンタイン…」
「この時期はきれいでおいしいものが集まりますから、わくわくしますね」
「そうだね」
ちょっと甘ったるいチョコレートの香りが広がるフロアに、様々な店舗の自信作がひしめき合う場所。バレンタインフェアと銘打たれたショーケースに宝石みたいに並ぶ商品たち。
特別感が刺激されるデコレートはどれも個性があってきれいなのに、どうしてかチープに見えていた。
照明とか空気感とか、特別感っていう感じじゃなくて異世界みたい。何だか、今日のぼくのバレンタインの気分と、この場のバレンタインの空気感がちぐはぐしているみたいで少しだけ、いやだなって。
だけれどきみは楽しそうにショーケースを覗きながら、たまに販売員さんの話を聞いて。
ぼくは母鳥の後ろを追いかける卵みたい。
「あれ」
ふと気づいたら、きみが紅茶のブースで販売員さんに捕まってた。すっごく茶葉に誇りを持っていそうなひと。きみがひとつ質問すれば十になって返ってくる。
ふんふん、と頷いていたきみは、けれど何も買わずに結局催事場を出てしまった。
「デパ地下に行きましょう」
「うん」
何か買わなくてよかったの、って声が喉で引っかかる。ぼくは出せずじまいの一言に口の中が少し苦くなって、胃もたれっぽくなっちゃう。
デパ地下は相変わらずのきらびやかさだけれど、日曜じゃないからさほど――――思ったよりひとは少なかった。有名店の店舗できみがずっと気になっていたらしいダックワーズをいくつか手に取る。
「サクラのダックワーズ?」
「えぇ。ちょっと前に動画で見て気になっていたんです。すぐに売り切れてしまうみたいで、買えてよかった」
「ふぅン」
お店で配っていた試飲コーヒーは季節感のある、チョコレートを溶かしたもの。あたたかくて、ちょっと苦味のある甘さ。
「どうでした、コーヒー」
「ん、おうちでも同じようなのつくれそう。チョコの種類で味も変わると思うから」
「ふふ、ついてますよ、ここ」
「え゛ッ」
飲み終わった紙コップをくしゃっと握り潰しながら、口の端をハンカチで拭う。……確かに、ちょっとついてた。
恥ずかしい。
「買いたいものは買えましたし、道が混む前にそろそろ帰りましょうか」
「うん」
いつの間にか持っていた買い物かごをレジに置くきみは、すっごく楽しそうな横顔をしている。
「きれいな包装もしてもらえて、テンションが上がりますね」
「そうだね」
****
「ということで、バレンタインのプレゼントです」
「え」
おうちに戻ってきて、試飲したコーヒーを思い出しながら家にあるもので再現できたときだった。一番手前にあったカップにできたコーヒーを淹れて、ソファに向かう途中、きみがそう言って渡してきたの。
高見えする紙袋に、さっき買っていたダックワーズ。それからスーパーで売っているちょっとお高めの、板チョコじゃないチョコレート。
いつもだったら気になるけれど手には取らない品々。それがなんだか、ホッとするくらいうれしい。
ふわふわしていた居心地が、すっかりきみのとなりに収まった気がしたの。
「たまにはこういう詰め合わせのバレンタインもいいかと思いまして。あ、ひとつだけ、お高いチョコレートを入れておきましたから、味の感想、楽しみにしてますね」
「……んふ、だいじにたべるね」
「えぇ」
#バレンタイン
「ではおやすみなさい」
「あ、うん。おやすみ、なさい」
パタンと閉じられたドアはもう微動だにしないけれど、きみの余韻はふわりふわりと薄暗い廊下に残留している……気がしている。
きみがさっきまで嗜んでいた紅茶の香り。寝る前だからってミルクたっぷりの、まろやかで甘くて深い香り。
眠たげだからかちょっと語尾がふにゃふにゃしていた。お風呂上りの肌に体温が透けていたし、日中にはないラフな姿は一日の中でもっとも自然体なきみそのもの。ぼくがあげたパジャマ、すっごく似合ってた。
だけれど完全に抜け切っていない昼間のしゃんと感が仕草とか表情が残っていて、そのおかげで大人っぽいしっとりとした雰囲気がまだ残ってる。
今日一日のぜんぶのきみが重なり合ったり別れたりしながら同時に存在しているから、そりゃあ、もう、ね。
たまんない。
そそくさとぼくも私室に入って、ベッドに潜り込んだ。
「あ゛~~~~~~ッッ‼(小声)」
枕に顔を押さえつけて息を吐き切るみたいに、枕の中身にぼくの声を吸収させる。マットレスに足を弾ませないよう気をつけながら空中で足先をバタつかせて、今日一日中の想いを叫ぶの。
最高な日だった!
昨日もそうだったけれど、今日も最高! ぼくの中の全人類がそう言ってるからまったく正しいの。異論なんてない。
朝起きてからのことを思い出して、そのときこころで思っていたことを指先でぐりぐりシーツに書き殴ってゆく。もう語彙力なんてゼロに等しいから、「あ~~」とか「きれい」とかそんなんばっかりだけれど。
本当なら日記とかメモアプリとかに残しておくのがいいと思う。だけれど、ひょんなことで誰かの目に映るのなんてやだ。自分で見返すのだって、こそばゆい。
だから、眠る前に、シーツに指で文字のシワをつくっては伸ばしてつくっては伸ばしてを繰り返す。ぼくの背中に閉じ込めて眠って、夢でもういっかい体験してから、こころに詰め込んでおくの。
もし心配なら、シーツごと洗濯しちゃえばいい。
それで、朝にはとってもいい気分。
「んふ」
枕の下には今日の夢のリクエストを書いておく。成就率は低いけれどね。
#どこにも書けないこと
「はぁ、変わらないものはないんですね」
「どうし――――ン゛、ぼくデジャヴ感じてる」
カチャリと置かれたカトラリー。はぁ、とまたため息をしたきみはキッチンにおかわりを盛りに行った。
常々思う。きみはよく食べる。
ほんと、まあ、よく食べること。
一般的に言えばきみは細身なほうなのに、本当によく食べる。カレーなんて一晩寝かせる間もなく、その日に食べきっちゃう。
巻き戻されたみたいに盛られたお皿を見て、ふと思った。
「話変わるんだけれど、きみってばそんなにたくさん食べて、将来、お腹出るんじゃない?」
お皿に向かっていたきみの手が止まる。
「――――――ません」
「え?」
「話変わってませんッッ‼」
「あー……」
頭を過ったのはここ数日の食事。
世の中が浮かれてるってことはその世の中に生きるぼくたちも浮かれてるってこと。イベントだからって手の凝ったものをつくっては食べ、甘いケーキで普段の摂生をなかったことにし、年末だからと冷蔵庫の中身もあれよあれよと捌けさせた。
のに、新年に向けて冷蔵庫に蓄えている。
ついでにお酒も。
今年はおいしいワインをきみと呑めてよかった。
……じゃなくて。
きみを見れば止まっていた手は順調にお皿の上を片付けていた。さめざめとしていた割には、ひょいぱく、ってなかなかの食べっぷり。
「おいしい?」
「……えぇ」
少し硬い声で、でも確かに頷きながら答えるきみに思わず苦味を含んだ笑いがこぼれちゃう。
盛っちゃったものは仕方ないね。食べなきゃもったいない。
味変がしたくなって傍らのビールを一口。
しゅわしゅわの大人の味が口の中で弾ける。炭酸の爽快感が喉を通って油っこいのももったりとした味覚の集合体もぜんぶ流してくれる気分。思わず目を細めちゃうほどおいしいやつで、これぞ至福! って感じに近い。
あーお酒おいしい!
「あなたもですよ」
「え」
じーーっと見てくるグレイの目。
エッいつから見てたの?
「あなた、わたくしほど食べませんけれど、うんとお酒を吞みますよね?」
「えー? 普通じゃない?」
「だとしても、それが蓄積されてゆけば後々、将来お腹は出るでしょうね」
「エ゛ッ……」
それは困った。
とっても困る。
お皿を持ったきみがスッと席を立つ。
「変わらないものはないんですよ、何事も」
「……そうだね。ところでそれは?」
「? おかわりですけれど」
「そ…っか」
ゆるく、ゆるーーーく変わってゆくのもいいよね。
ウン。
#変わらないものはない
照り返しが強いとその空間は白く光った。幼子の足の甲には波紋の陰が踊り、遠くではさざ波打つ音がしている。
パチャ、パチャ。
飛び回る足に驚いて退けてゆく鱗が、静かになったときにはうろうろと潜っては離れて。さらさら波に揺られながらピカン、ピカン、と気まぐれに所在を放った。
「タモでも持ってくればよかった!」
半袖から伸びる細い腕の先が水面を荒らした。
そんなとろくさい動作でいきものを捕まえられるわけもなく、幼子の鈍い編みには何もかからない。だが、気にすることもないらしい。
それが目的ではなさそうだから。
パチャン、と跳ねた透明な水が頬にかかる。小さな粘膜がそれを舐め取れば、味蕾は塩味だと言う。
自然がこすれる音。
ざわざわ音を立てて幼子の耳を横切った。生温かい風は七日目の蝉の声を運んでいるらしいが、やはり、幼子は気にすることはない。足を攫う波に夢中になりながら、掌でこめかみの汗を拭った。
ひとつ、くしゃみ。
ガシャンッ――――‼ 割れ物の音。
「?」
「迷い子か?」
声が見下ろしていた。
白地の反物に、衿を跨ぐ青い魚。その優雅さとは対照的に帯には深緑の嵐が刺繍されていた。顔を隠す紙には『声』と記されていて、ビューッと吹く冷たい風に何度もビラビラと捲れかける。
「そのかさ、五百円の?」
「さあ、忘れてしまった」
「雨ふるの?」
「いいや、落ちる」
「おちる?」
ガシャンッ――――‼ 割れ物の音がその傘を打った。同時にけたたましいほど、風鈴の音が幼子の鼓膜を覆った。ガラスがガラガラと粉砕しているらしく、心地良い音などではない。
ビクッと肩を跳ねた幼子が白地の反物にしがみつきながら、傘越しに見上げる。
無数の風鈴。
それが壊れ破片が傘で打っている。足を攫う水がどうしてか、体温を奪いに来ていた。あまりのことに呆気に取られていれば、声は申し訳なさそうに傘を傾ける。
「ようやく代替わりだ」
「さぶいの?」
「そろそろ」
「きんぎょじゃない…!」
寒々しいもみじが反物を染め上げ、肩には葡萄色のショールが色を足していた。あたたかげな装いに幼子のこころが一気に切なさを覚える。
いつの間にか風は冷えていたし、あの眩しいほどの照り返しは終わっていた。
「銀杏に洋酒は合うだろうか」
「ぎんなん、くさいから好きくない」
「どれ、焼き芋屋でも見つけてやろう」
「…うん」
水から上がったときに磯の香りは弱かった。
#秋風
毎日、意識が浮上すると、あなたは真っ先に少し暗い部屋が見えるのだと言う。次に聞こえるのは朝鳥の声で、薄明りの射し込む窓からにぎやかな朝の気配を感じるのだとか。
わたくしはあなたとは違う。
意識が浮上してもまだ夜か朝か分からなくて、枕と布団の音がもぞもぞと耳を通る。
ふとかおる朝露のにおいとか、雨のにおいとか、それこそ、朝の生活のにおいとかが、ああ朝なんだと認識させてくれる。
……認識させてくれるだけで、回らない頭はまだ眠れるだろうと身体をベッドから離してくれない。わたくしもそうしていたいから本当に、抵抗なく。
あまりにもうだうだしていると、ゆらの声が。
玉と玉を弾かせて動かせる音。何かいいことが起こるのではないかと思わせてくれるような、そんなあなたの声。
「ねーえ、そろそろ起きたぁ?」
「……ふあい、ただいまぁー」
それから生活の音。
トントン
バタバタ、パタパタ
ジュー…ジュ―…
コトコト
聴き入りたくなるような手際のいい音。
まだ抜け出せない布団の中からこれを聞くのは朝を感じられるとても好きな時間だ。
「もう起きなよー」
「はあい、起きましたー」
もそもそと名残惜しくベッドを離れる。
まだぼんやりとしていても、手櫛でひどい寝癖がないか確認はする。ひどければ急ぎ洗面所へ。
まだ冷たくない板張りと壁を伝って、ドアを開ける。そうすれば、またゆらの声。
「お早う、今日は青天。せっかくのお休みだから、どこか行こうか」
一言二言返せばその倍になって声が返ってくる。
あなたの声は縁起のいいゆらの声。それが聞こえるわたくしでよかった。
#声が聞こえる