こんなものまで売っているのか。
壁面の陳列棚にぶら下がった小袋。そこに閉じ込められているのは春の象徴だ。
あなたの気質――――精神面から考えても、大勢が集まる外での鑑賞は苦だろうから。どうせならゆっくりと楽しみたい。
宙に舞わせるのも一興だが。
「なあに、それ」
頭上から降ってきた声に顔を上げた。
しゃがむわたくしの背後から、わたくしが手先で触れているものを不思議そうにのぞき込んでいる。その目許には黒い隈。あなたの顔には疲れがべったりと貼りついていた。
それに思うところがありながらも、あまり見つめ過ぎないように視線を手許に戻す。
「さくらの花びらの造花です」
「いま、季節だね」
「ええ。湯船にでも浮かべようかと思って。どうでしょう、買い、ですかね」
「……お風呂、浮かべたら、あのね、きれいだと思う」
「ふふ、では買いですね」
ありあとざしたー、店員の言葉に会釈と挨拶を小さく返すあなた。
夕方なこともあってか、外は薄手のコートでも肌寒い体感温度まで下がっている。
昼間のあたたかさは陽気な日とともに落ちて、湿った夜気がゆるやかに侵蝕してくる。この陰気さはよくない。
あなたの思考を湿らせて融かして、ぐちゃぐちゃに、どろどろに、一辺倒にしてしまう。
はやく家路を終えたくて足早になってしまいそうになる。それを咎めるように、
ぶわ――――っと春の風。
目が乾いてしまう前に瞼を閉じた。うしろからも「わぁっ」とあなたの声。
「大丈夫ですか?」
「うん。平気」
振り返って思わず目を瞠ってしまう。
「え、なに?」
「ふふ、いい感じですよ」
「え?」
目をまばたかせるあなた。前髪が持ち上がって、その上にさくらの花びらがちょんと乗っている。それに気づく様子がないのがまた、わたくしの笑いを誘った。
けれど、ふふ、連れて帰りたくて。
****
「春の運び屋、お疲れさまでした」
「?」
首を傾げたあなたに、まだ離れない花びら。帰路にはさくらの木がそれなりに植わっていた。いずれかがあなたを選んだのだろう。
計四枚。
それらはあなたに気づかれないエージェントだ。
任務を完遂した薄桃色を手のひらにのせてあなたに見せる。
「うそ、ぼく、ずっと…?」
ちょいちょいと前髪も直してやって。
「せっかくですから玄関に飾りましょうかね」
「うぅ…、今日のこと思い出しそうだから、あとでベランダから風にのせてリリースしとく」
「おや残念」
「ごめんね」
「いいえ」
ぐっと息を詰めてしまった。
悪いことではないのに。
わたくしは、どうなのだろう。ベランダから風にのせて飛ばすよりも、……塩漬けにして食べてしまったほうがいいかも知れない。
****
「わっ、きれいなさくら色!」
「ふふ、ちょうどいい色の入浴剤があってよかったです」
たっぷりお湯を張った湯船に、薄っすらと色づくさくらの色。そこにぷかぷかと浮かぶさくらの花びらのフェイク。ほのかに香るのは前に買ったまま放ってしまっていたチェリーブロッサムのお香。
本当は徳利をお盆で浮かべてもいいけれど、危ないから。
ちゃぷ、と手を湯船に差し込んだあなたは花びらをつついて小さく笑った。
揺れる桜流しのような絵。
そこにあなたが浸かればきっと、おそらく、延々と出てこないこともあるのでしょう。
どこか幻想的で、うつくしく、一度きり。
ただ、儚いとは思えなかった。
……このあと、排水口に花びらのフェイクが引っかからないよう掃除をしなくてはいけないから。
「あたたかいうちに入ってくださいね」
「うん。いまから入る」
「では、肩までよく浸かって。けれど後頭部はつけないで。鼻下も沈めてはいけませんよ」
「なあに、それ」
「…念のため、です。タイマーが鳴ったら上がってくださいね」
「うん」
浴室にあなたを残して、セットしていたタイマーをスタートする。
数字がゼロになったとき、あなたはどんな顔をしているのだろうかと想像する。けれど、リビングに戻ったあなたはきっと、いつもみたいに、少し困ったように笑みを浮かべているのだろう。
小さなものほど、逃げやすいのだから。
#小さな幸せ
「珍しい。お前がイヤホンなんて」
「ん。あのね、シャンシャンうるさかった」
ぶすっとしたその生物は防寒しきれなかった鼻の頭を赤くさせている。首許から耳のすぐ下まで、ほとんど耳朶を覆うために伸ばされたタートルネックが、マフラーの下から少し覗いている。こんな格好をしていると、首を竦めたときにイヤホンが外れてしまうのだとか。
「だからきらい」と言っていたのに、珍しい。
「あのね、あったかい紅茶ほしい。温度も上げて」
「空調は効いていますよ」
「たんない。さぶい、さぶい」
「光熱費も馬鹿にならないんですからね、まったく」
仕方がないから壁に埋め込まれたモニターで空調をいじって――――はやらず、すでに廊下のどん詰まりで待機していたストーブを焚いてやった。
手早く電気ポッドで沸かした湯にティーバッグを放り込み、色が滲む前にその生物の手に持たせる。
じんわりと器を介して熱が冷えた手を融かしてゆくだろう。
いつの間にか部屋着にチェンジしていたそれの姿は、さっきよりも薄着に見えるのは確かだ。いつまで経っても難しい年頃の感性のまま。
「あまり近すぎると危ないですよ」
「…あのね、それなに」
「鍋です。せっかくストーブを焚くので、お夕飯はこれにしようかと。水が少なくなっていたら足して下さい」
「ふぅン」
ジロッと見てくる生物のグレイの目は見透かしてくる。……簡単に見透かされてそれに自尊心を削られるほうがいけないのだろうか。
「昨日のね、「あッ」て声はこのことだったの。寝る前だったのにベッドから出て」
「うるさいです。……テレビを点けて」
音声認識でリビングのテレビの電源が点く。パッと映ったのは、夕方のニュースチャンネルだ。クリスマス一色――――厳密にはわずかな正月を差し色にはしているが、ともかく、映ったそのストリートは赤色と緑色それから白色でデコレーションされている。
同じようにトナカイのツノを被ったリポーターが、人だかりが賑わうイルミネーションを背景にマイクを握っていた。
もちろん、効果音には頻繁にベルが鳴る。
シャンシャン、
何かあるたびにシャンシャン。
すでに整っている野菜をビニールから取り外し、鍋に入れてゆく。にんじん、馬鈴薯、たまねぎ、キャベツ、ブロッコリー、蕪。
ひどく簡単で手間いらず。その謳い文句に感心してしまう。もう味付け用の調味料もパッキングされており、それも鍋に入れてしまえばいいのだから。
牛筋とブロックベーコン、ダメ押しのウィンナーは控えめに。
その少し下で、それは口をむにむにと尖らせたりしながら手のひらを火に向けていた。
「……」
「あのね、なあに」
「…いえ」
あの人違いを起こしそうなほどの仏頂面はどこへいったのか。
この生物は案外、五感が澄んでいる。いまはイヤホンをしていないから、テレビから鳴るベルの音は外とそう変わらないだろうに。
シャンシャン、シャンシャン。
『―――が行われていて、この時間からすでに家族連れやカップルの方々が――――』
「テレビ、消しましょうか?」
「ん-ん、いまはいい」
「そう、ですか」
むしろご機嫌になっている。
相変わらず不可解な生物だと思う。
#ベルの音
天才と謳われたその生物は、しっかりと私に振り返った。目が合ったわけではない。そもそも生中継の映像を観ていた私と直に合うはずがない。
何かを言いたそうにしたそれは、しかし、その場の人間誰ひとりにも言わず、そのまま階段を登っていった。左から半円を描いて右へ移るグレーの眼球が脳裏にこびりつく。
嫌な予感がした。
そしてそれは、見事に当たってしまう。思い出せば、私のこういった直感じみた感覚は、外れたことがこれまで一度もない。
天才、奇跡、怪物、努力。とにかくそういう二つ名をつけられたヒトたちが搭乗したそれは、大量の煙を吐いて重力に逆らい始めた少しあとに、無残にも姿を残さなかった。
重たい破片が飛び散り、炎を巻いて、轟音を響かせ、あっという間に地に落とされる。まるで神話のようだった。
だから嫌だったのだ。
薄い皮膜で守られた生活をわざわざ捨てるような真似は。だからあの生物に言い聞かせようとした。あの真空管に詰められた膨張性の無限は、お前には退屈すぎると。
悲鳴は映像からも、私が座っていた食堂のあちこちからも響いた。
いままで空の皮膜やそれを破る偉業を声高に語っていたリポーターが、身体を瓦礫に滑らせて抜け出そうとしながら、ああ、ああ、と泣いている。助かった幸運な記者が泣きながらまだ生きている人に縋り付いている。
それから数日間、故人の名前や遺品を羅列するニュースばかりが流れた。そこにあの生物のものは映らなかった。
****
「お前は天性的に生かされますね」
「ん……お口つかれた。フラッシュ目に悪い、視力下がっちゃう」
まだそれに執着するのか。それとも深く尊いという、感情の一種か。その生物は車椅子の上でぶすっと口を尖らせる。
あれから数ヶ月ほど経てば、これには『天才』の他に『奇跡』という冠がついた。本人はどちらにも興味なさげだが。いわゆる、時の人、それになってしまった。
太腿にできてしまった生身と無機質の境目を、その生物がカリカリ搔く。かゆいかゆいと何度も訴えるから、クリームを塗ってやってはいるが、傷痕には効かないのかもしれない。
疲れた、そう言いながらその生物はタブレットに更新された論文を開く。もちろん、テーマは、これが焦がれてやまない膨張性の闇について。定期的に追加されるそのテーマの数ある論文の中に、もちろん、これが新しく執筆したものもあった。
いま出てきた会場内は、この生物に対するざわめきで溢れている。
誰もがこれに期待している。
新しい発見を、騒動を、不幸を、奇跡を。
私がこれに期待することといえば、ありふれたものばかりだというのに。
「ちょっとうるさかった。あのね、お耳いたい」
「お前の奇妙な脳みそに期待しているんですよ。唯一ですから」
「あのね、どの意味で?」
「すべての意味で」
「でも治療費浮いた」
ギシッと機械的な関節が鳴る。
スポンサーは多くつき、寄付金が注ぎ込まれた。
「同情と話題への対価は最初だけですよ。一瞬です。ヒトは飽きやすい」
「……」
「何です」
「あのね、きみも?」
じっと見上げてくる顔には傷痕ひとつない。どこもかしこも、私の造形と同一のもの。……むろん、なぞらえているのはこの生物のほうだが。
「私は一生同情してやりますよ」
「あのね、ぼくのお顔に免じて?」
「お前に免じて」
「ふぅン」
くるりと半円を描いたグレーの眼球は、そっとタブレットに戻っていった。
……それも目を悪くするのでは?
#愛情
ふわりと漂ってきたこれに、ああこれだ、と思い出した。
甘い脂のようなけれど独特な酸味があるような、突き放す素振りを見せながらもすり寄ってくるあの生物を彷彿とさせる香り。
使っている柔軟剤が無香料なせいか。洗濯機の水に注がれて充満して定着することなくやわらかさを残し、このにおいをまとえば、空気だけでもあれを再現できる。
グォングォンと稼働する洗濯機の機械声が所要時間を告げれば、私の足は勝手にリビングへ向かった。
「紅茶ですか」
「んーん。あのね、香水」
ベタベタと雨が覆う暗い空間で換気扇そばのライトだけに照らされた生物が顔も上げずにそう言う。
室内スピーカーから論文の読み上げ音声を垂れ流させ、ホウロウの鍋を木べらでかき混ぜて。近くにはいくつか茶葉のティーバッグが転がり、はちみつの瓶が蓋があいたまま、それから牛乳パックひとつ、傍で…………、
「アッ」
「なに。あのね、うるさい」
「お前…!」
歩く勢いを上げたから足許でスリッパがバタバタ床を叩く。うるさい、と不規則に連呼するこれを無視して冷蔵庫を開け放つ。右側のポケットにちょうどひとつ、残りを管理していた牛乳パックが――――もちろん、ない。
あれが空けたのが最後のひとつだったのだから。
振り返って腹立たしくもふわっふわな後頭部を睨みつける。
昨夜、滑り込んで買ったシャンプーとリンスが良かったのだろう。……これのチョイスだが。
ねこのヒゲのごとく敏感なはずのこの生物の神経を逆撫でできなかったのか、これは振り返りもせずぶすったれた声もなく言ってのける。
「あのね、おひるに聞いたらよるごはん、牛乳いらないって言ったのはそっちなんだよ」
「だからって全部使ってしまうなんて! 少しくらい残しておいてくれたっていいでしょう。使うかも知れないのに」
「そう言ってね、たべものくさらせたの、だあれ?」
「う゛」
蓋つきのガラス瓶にホウロウで煮込まれた中身が溜められていく。少しクリーム色が強く、ほんのり粘度のあるミルク。ティーバッグもそこにひとつ、スプーンの先で沈められていった。
においだけならば、理路整然とした生物をとろかしてぎゅうぎゅうに詰めたもののようだ。
「…………香水だって、食べ物が触れるところでつくってほしくないのですが」
そもそも、これが香水を吹いているところなど、見たことも香ったこともない。
「あのね、これ、ただの紅茶。…ほかのおなまえがあった気がするけど、たくさん煮込んだミルクとはちみついっぱいの、紅茶」
「紅茶……の香りってことですか?」
「んーん紅茶。あのね、ぼくがのむんだよ」
「はあ」
「んふ、ぼくのこと、思い出したでしょ。ぼくのにおい」
「そっ、いうわけでは……」
「ふぅン」
ガラス瓶は冷蔵庫に入れられ、完成した(らしき)マグカップだけを持ってこれは私横を過ぎてゆく。
やはり、鼻に残るのは馴染んだ香り。
それをまとったまま、振り返った生物の表情筋はひどくふてぶてしい。
「あのね、残ったやつ、のんじゃだめ。ぼくがのんで、ぼくのなかで、はじめて完成なんだよ」
「は、……私は、ストレート派です」
「あのね、しってる」
マグカップの中身をひとくち飲んだのか、ことばの音も甘ったるい。
これが片付けを放棄してやりっ放しだと気づいたときには、もう、小難しい論文の音声だけ残したあとだった。
#香水
「ひぁあッ‼」
「紫様ッ⁉」
珍しく情けない声を上げた紫に、黒は慌てて廊下を抜けた。縁側に面しているその広間は、昼の間はたいてい障子も開け放っている。そこで何か――――十中八九奇行をしていた紫は、真っ青な顔をしながら無言で一本の柱を指差した。
普段、何事に対してもケロリとしている人が何をそんなに怯えているのか。
怪訝に思いながらも覗き込むと、
「――――ひッ‼」
手のひら大ほどのふさふさとした蜘蛛が、ぺたりと柱に張りついていた。左右四本ずつの山折りを描く脚がそれぞれ柱にしっかりと掴まっている。動く気がないのか、その蜘蛛も緊張状態にあるのか、時折ピクッと動くだけでそこに鎮座しているのだ。
あまり室内で見たくなかった大きさに、黒の全身の毛が逆立つ。服の下で毛先が布に触れているのが分かるほどにだ。顔を引き攣らせた黒が思わず後退りをした。
靴下越しに響くい草の感触。
そろそろ畳の裏返しをする頃か、などと現実逃避が一瞬で頭を過る。
だが背後がドンッと詰まった。
首だけで振り返ればいつの間にか黒の背中に回り込んでいた紫が、黒の背中をぐいのぐいのと押しているではないか。口では言わないが明らかに、それ以上は下がるな、その前にその蜘蛛をどうにかしろ‼ と言わんばかりだ。
どっと流れ出た冷や汗が一筋、背筋をちょうど流れてゆく。
同時に黒は立場も忘れて「マジか馬鹿野郎!」と喉から出かかった。紫が蜘蛛を嫌うのと同じように、黒とて特別そういう類が平気なわけではない。
むしろ苦手だ。
退治か逃がすかしてほしいのならば、そういうことは先に言って頂きたい、否、言うべきだ。準備ってもんがある…!
日焼けしたい草に踵をめり込ませながら、じりじりと窮地に追い込まれる黒はそう思った。
#逃れられない