あにの川流れ

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 天才と謳われたその生物は、しっかりと私に振り返った。目が合ったわけではない。そもそも生中継の映像を観ていた私と直に合うはずがない。
 何かを言いたそうにしたそれは、しかし、その場の人間誰ひとりにも言わず、そのまま階段を登っていった。左から半円を描いて右へ移るグレーの眼球が脳裏にこびりつく。

 嫌な予感がした。
 そしてそれは、見事に当たってしまう。思い出せば、私のこういった直感じみた感覚は、外れたことがこれまで一度もない。

 天才、奇跡、怪物、努力。とにかくそういう二つ名をつけられたヒトたちが搭乗したそれは、大量の煙を吐いて重力に逆らい始めた少しあとに、無残にも姿を残さなかった。
 重たい破片が飛び散り、炎を巻いて、轟音を響かせ、あっという間に地に落とされる。まるで神話のようだった。
 だから嫌だったのだ。
 薄い皮膜で守られた生活をわざわざ捨てるような真似は。だからあの生物に言い聞かせようとした。あの真空管に詰められた膨張性の無限は、お前には退屈すぎると。

 悲鳴は映像からも、私が座っていた食堂のあちこちからも響いた。
 いままで空の皮膜やそれを破る偉業を声高に語っていたリポーターが、身体を瓦礫に滑らせて抜け出そうとしながら、ああ、ああ、と泣いている。助かった幸運な記者が泣きながらまだ生きている人に縋り付いている。
 それから数日間、故人の名前や遺品を羅列するニュースばかりが流れた。そこにあの生物のものは映らなかった。



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 「お前は天性的に生かされますね」
 「ん……お口つかれた。フラッシュ目に悪い、視力下がっちゃう」

 まだそれに執着するのか。それとも深く尊いという、感情の一種か。その生物は車椅子の上でぶすっと口を尖らせる。
 あれから数ヶ月ほど経てば、これには『天才』の他に『奇跡』という冠がついた。本人はどちらにも興味なさげだが。いわゆる、時の人、それになってしまった。

 太腿にできてしまった生身と無機質の境目を、その生物がカリカリ搔く。かゆいかゆいと何度も訴えるから、クリームを塗ってやってはいるが、傷痕には効かないのかもしれない。

 疲れた、そう言いながらその生物はタブレットに更新された論文を開く。もちろん、テーマは、これが焦がれてやまない膨張性の闇について。定期的に追加されるそのテーマの数ある論文の中に、もちろん、これが新しく執筆したものもあった。

 いま出てきた会場内は、この生物に対するざわめきで溢れている。
 誰もがこれに期待している。
 新しい発見を、騒動を、不幸を、奇跡を。
 私がこれに期待することといえば、ありふれたものばかりだというのに。

 「ちょっとうるさかった。あのね、お耳いたい」
 「お前の奇妙な脳みそに期待しているんですよ。唯一ですから」
 「あのね、どの意味で?」
 「すべての意味で」
 「でも治療費浮いた」

 ギシッと機械的な関節が鳴る。
 スポンサーは多くつき、寄付金が注ぎ込まれた。

 「同情と話題への対価は最初だけですよ。一瞬です。ヒトは飽きやすい」
 「……」
 「何です」
 「あのね、きみも?」

 じっと見上げてくる顔には傷痕ひとつない。どこもかしこも、私の造形と同一のもの。……むろん、なぞらえているのはこの生物のほうだが。

 「私は一生同情してやりますよ」
 「あのね、ぼくのお顔に免じて?」
 「お前に免じて」
 「ふぅン」

 くるりと半円を描いたグレーの眼球は、そっとタブレットに戻っていった。
 ……それも目を悪くするのでは?



#愛情



11/28/2024, 5:58:17 AM