ふわりと漂ってきたこれに、ああこれだ、と思い出した。
甘い脂のようなけれど独特な酸味があるような、突き放す素振りを見せながらもすり寄ってくるあの生物を彷彿とさせる香り。
使っている柔軟剤が無香料なせいか。洗濯機の水に注がれて充満して定着することなくやわらかさを残し、このにおいをまとえば、空気だけでもあれを再現できる。
グォングォンと稼働する洗濯機の機械声が所要時間を告げれば、私の足は勝手にリビングへ向かった。
「紅茶ですか」
「んーん。あのね、香水」
ベタベタと雨が覆う暗い空間で換気扇そばのライトだけに照らされた生物が顔も上げずにそう言う。
室内スピーカーから論文の読み上げ音声を垂れ流させ、ホウロウの鍋を木べらでかき混ぜて。近くにはいくつか茶葉のティーバッグが転がり、はちみつの瓶が蓋があいたまま、それから牛乳パックひとつ、傍で…………、
「アッ」
「なに。あのね、うるさい」
「お前…!」
歩く勢いを上げたから足許でスリッパがバタバタ床を叩く。うるさい、と不規則に連呼するこれを無視して冷蔵庫を開け放つ。右側のポケットにちょうどひとつ、残りを管理していた牛乳パックが――――もちろん、ない。
あれが空けたのが最後のひとつだったのだから。
振り返って腹立たしくもふわっふわな後頭部を睨みつける。
昨夜、滑り込んで買ったシャンプーとリンスが良かったのだろう。……これのチョイスだが。
ねこのヒゲのごとく敏感なはずのこの生物の神経を逆撫でできなかったのか、これは振り返りもせずぶすったれた声もなく言ってのける。
「あのね、おひるに聞いたらよるごはん、牛乳いらないって言ったのはそっちなんだよ」
「だからって全部使ってしまうなんて! 少しくらい残しておいてくれたっていいでしょう。使うかも知れないのに」
「そう言ってね、たべものくさらせたの、だあれ?」
「う゛」
蓋つきのガラス瓶にホウロウで煮込まれた中身が溜められていく。少しクリーム色が強く、ほんのり粘度のあるミルク。ティーバッグもそこにひとつ、スプーンの先で沈められていった。
においだけならば、理路整然とした生物をとろかしてぎゅうぎゅうに詰めたもののようだ。
「…………香水だって、食べ物が触れるところでつくってほしくないのですが」
そもそも、これが香水を吹いているところなど、見たことも香ったこともない。
「あのね、これ、ただの紅茶。…ほかのおなまえがあった気がするけど、たくさん煮込んだミルクとはちみついっぱいの、紅茶」
「紅茶……の香りってことですか?」
「んーん紅茶。あのね、ぼくがのむんだよ」
「はあ」
「んふ、ぼくのこと、思い出したでしょ。ぼくのにおい」
「そっ、いうわけでは……」
「ふぅン」
ガラス瓶は冷蔵庫に入れられ、完成した(らしき)マグカップだけを持ってこれは私横を過ぎてゆく。
やはり、鼻に残るのは馴染んだ香り。
それをまとったまま、振り返った生物の表情筋はひどくふてぶてしい。
「あのね、残ったやつ、のんじゃだめ。ぼくがのんで、ぼくのなかで、はじめて完成なんだよ」
「は、……私は、ストレート派です」
「あのね、しってる」
マグカップの中身をひとくち飲んだのか、ことばの音も甘ったるい。
これが片付けを放棄してやりっ放しだと気づいたときには、もう、小難しい論文の音声だけ残したあとだった。
#香水
8/31/2024, 9:57:09 AM