あにの川流れ

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 「ひぁあッ‼」
 「紫様ッ⁉」

 珍しく情けない声を上げた紫に、黒は慌てて廊下を抜けた。縁側に面しているその広間は、昼の間はたいてい障子も開け放っている。そこで何か――――十中八九奇行をしていた紫は、真っ青な顔をしながら無言で一本の柱を指差した。
 普段、何事に対してもケロリとしている人が何をそんなに怯えているのか。
 怪訝に思いながらも覗き込むと、

 「――――ひッ‼」

 手のひら大ほどのふさふさとした蜘蛛が、ぺたりと柱に張りついていた。左右四本ずつの山折りを描く脚がそれぞれ柱にしっかりと掴まっている。動く気がないのか、その蜘蛛も緊張状態にあるのか、時折ピクッと動くだけでそこに鎮座しているのだ。

 あまり室内で見たくなかった大きさに、黒の全身の毛が逆立つ。服の下で毛先が布に触れているのが分かるほどにだ。顔を引き攣らせた黒が思わず後退りをした。
 靴下越しに響くい草の感触。
 そろそろ畳の裏返しをする頃か、などと現実逃避が一瞬で頭を過る。
 だが背後がドンッと詰まった。
 首だけで振り返ればいつの間にか黒の背中に回り込んでいた紫が、黒の背中をぐいのぐいのと押しているではないか。口では言わないが明らかに、それ以上は下がるな、その前にその蜘蛛をどうにかしろ‼ と言わんばかりだ。

 どっと流れ出た冷や汗が一筋、背筋をちょうど流れてゆく。
 同時に黒は立場も忘れて「マジか馬鹿野郎!」と喉から出かかった。紫が蜘蛛を嫌うのと同じように、黒とて特別そういう類が平気なわけではない。
 むしろ苦手だ。

 退治か逃がすかしてほしいのならば、そういうことは先に言って頂きたい、否、言うべきだ。準備ってもんがある…!

 日焼けしたい草に踵をめり込ませながら、じりじりと窮地に追い込まれる黒はそう思った。



#逃れられない



5/24/2024, 12:04:56 AM