外に出ていたわたくしは、何かほしいものはないかとLINEを送った。本当に簡単な一文。一分未満で打てて送信できてしまう、何気ないもの。
すぐに返信はなく、買い物ができる店の通りから離れてしまわないように一駅分を歩いた。まだ梅雨明け宣言もなく、蒸した空気に汗が滲む……流れるのを感じては手持ち扇風機の持ち方を変えて。
さすがに猛暑には敵わない。
駅の入り口を見つけてすぐに駅構内へ逃げ込んだ。車両の中は音がするほど冷気が吐き出されていて、ちらほらと長袖を羽織っているひとを見かける。
最寄り駅に着くまで、いつでも反応ができるように電子書籍のページを送っていたけれど、あなたからの返信はなかった。
とうとう玄関前に。
音を鳴らさなかったスマホはカギと入れ替えに鞄の中へ。
「(寝ているのかしら)」
ただいま、と声をかけながら薄暗い廊下を伝ってリビングへ入る。キッチンとリビングのあるそこにはあなたがよく好むソファがあるけれど、空っぽのまま。
買い出したものを片付けながらあなたの痕跡を探してみた。キッチンにコーヒーの香りが漂っているだけ。
それを追うようにあなたの私室。
ノックすれば「んーー…」と生返事。
入りますよ、と声をかけても。
ベッドの端に座るあなたはサイドテーブルにマグを置きっぱなしに、一口も飲んでいないで。じーっと眉間にシワを寄せながら手許を一点凝視していた。
両手で持たれたそれは、かけるならば汗を多量にかいていたことでしょうね。
「何をそんなに熱心に見ているんですか?」
「きみからのLINE」
「おや」
「返信にすべてかけてるの。邪魔しないで」
「あらぁ…」
「……ん、これはよくない。別のにする」
「何かほしいものはありましたか?」
「あった。だからそうやって返信しようとしてるの。きみへの返信、誤字脱字不適切用語よくない。どうせならちょっといい奴って思われたい。全身全霊かけてる」
「なるほど。頑張ってください」
「ん」
そろぉ~と部屋を抜け出す。
なるほど、そういうことでしたか。そういうことならば、わたくしも気合いと覚悟を持って応えなくては。
ボディーシートは大変便利。
クローゼットにかかった服たちを眺めながら完成形を思い浮かべ、吟味してゆく。鞄だって持って行っていた機能性容量重視のものではなくて、おしゃれなものを。
テーブルに置いたスマホが新しい一件を受信するまで、全身全霊をかけましょう。
#1件のLINE
あいつの自己管理能力は凄まじい。
少しでも体調が悪ければすぐに時間をつくって市販薬や処方箋を手に戻ってくる。仮眠室で身体を休めたり自身の身体のケアは怠らない。必要最低限のタスクを終わらせてから、早退したり。
周囲に迷惑をかけないラインで無理をしない程度に無理をする。
もともと病弱らしく、気づけば不調を抱えているのだが、自己管理が徹底されているせいで変に気を遣えないことに俺を含め周囲がもどかしく感じている。
あいつは気づいていないのだろうか…?
その日も妙に体調が悪そうだった。
クールビズの季節に長袖を着てマスクで鼻口を覆い、水筒から香るのは喉にいいとされるハーブの香り。
「今日はちょっと体調が悪くてコンディションが落ちるかも知れない。ごめんね」
そう言いながら人を見つけてさっさと引継ぎ作業を。引き継ぐことができないものは持ち前の能力の高さで片付けてゆく。
コホンコホンと咳をするので飴でも渡そうかと思うのだが、その口からカラカラと音がしていた。
昼食も「なんか味が濃い物がたべたい…」と言いながらも、調子の悪い身体を鑑みて胃にやさしい雑炊を選んでいた。
昼休憩の終わり頃にふらふらしながらデスクに戻ってくる。目が虚ろでさすがにと思い、休むよう言おうとした前に自己申告。
「ごめん、仮眠室行ってくる。一時間して戻らなかったら起こしてほしい」
「お、おう」
重たそうな身体を引き摺る背中を見送った。
しばらくして仮眠室に様子を見に行けば、薄暗い防音性の高いそこで清潔なベッドで寝息を立てていた。あからさまつらそうに眉間にはシワが寄っているし、汗をかいた顔が赤い。
自販機でスポーツドリンクでも買って氷枕か冷えピタを、と脳内で世話を焼こうとするが、枕元にはすでに半分飲まれたスポーツドリンク。額にはぴっちりきれいに貼られた冷えピタ。ベッドの足許に置かれたバッグには替えのスーツが。
できることがなさ過ぎる。
せめて、と壁掛けの時計を外す。備品の予算をケチるウチには電波時計などない。だがそれがかえって良い方へ向くときもある。
****
ふと目が醒める。
頭が随分と重たいが、ぼーっとする感覚は薄らいで手に伝わる首の熱も少し下がったみたいだ。眠る前に飲んだ解熱剤が効いたのだろう。
「(……いま何時)」
スーッと視線が慣れたように壁を伝って時計を見た。文字盤にフォーカスされ認識した脳が違和感を発する。
「あれ」
眠る前に時計を見てからまだ二〇分も経っていない。おかしいと思いながら今度はスマホを手に取った。持ち上げられて感知した画面がパッと数字を映して違和感の正体のヒントを見せた。
むずむずとした慣れない気持ちに不甲斐なさ。今後の反省点を見出して頭に刻んだ。
カラカラに乾いた喉にスポーツドリンクを流してから、そそくさとベッドに横になった。
不思議と、不調時にひとりで横になっているときに感じる心細さがなく、すんなりと眠りに落ちることができる。
四〇分後のことを頭でシミュレーションしながらもぞりと丸まって。
#目が覚めると
これは高いところが好きだった。
やたらと最上階を推してきて、低ければ低いほど時間を見つけては高い台に行きたがる。
抜けるような青空を支えるビル群。そこにじりじりと夏の暑さに姿を変えつつある入道雲が浮かび、風林火山一文字を微妙に戴いている。
その手前に頭。
窓のサッシにタオルをわざわざ敷いて、そこに顎を乗せるそれは、じーっとその真白な雲を見ていた。
「何をそんなにジロジロ見てるんです」
「……」
薄い唇で空気を破裂させ、まるで赤子のように口をもごもごと動かした。
「やめなさい。みっともないです」
「あのね、それお湯沸いてないよ」
「え」
ティーバッグに落としかけた液体。耐熱のビーカーを見れば、湯気など上がっていなかった。たぷんと揺れて手にかかったのは正しく水。
するとそれは、「レンジはね設定しないとあたためてくれないんだよ」とこちらを見ずに言う。
さっさとレンジにビーカーを戻し、今度こそボタンを確実に押した。ブーン、と赤く照るのも確認をした。
また背後でパッ、パッ、と破裂音。
もごもごと空気を口内で徒にあたためている。
「口寂しいなら飴でも舐めなさい」
「あのね、雲、もくもく」
「まあ、夏雲ですからね」
「上に伸びておいしい形してる」
「おいしいって…」
「あのね、シロップは何色がいい?」
「……なるほど。ちょうどいい頃でしょうし、梅シロップでもかけますか」
これは何を言い出すか分からない。だから、家にはある程度の季節ものを揃えている。
去年新しく買い替えて日の目を見ずに季節を逃したかき氷機。常備してある円形に固めた氷をセットして、横のハンドルを腕力に物を言わせて回してゆく。
ガリッガリッ…ザリ…ガリッガリッ…ガッ…!
時々ハンドルが氷につかえるのに眉を寄せながら、下に置いた涼し気な容器に氷の粒を落とす。なかなかに体力を要する作業に、これはじーっと擬似的な雪もどきを眺めながら「あのね」と口を開けた。
「あのね、いまどき電動のが主流なんだよ」
「醍醐味っ、という、ものがっ、あるでしょう!」
「…あのね、どうせ夏はやるんだから、労力の醍醐味はただの面倒くさいになるよ。楽して別のたのしいをしたらいい」
「ぐぅ…っ」
「あとね、きみがつくると、ふわふわじゃないし入道雲にならないね」
テレビで見るような白いやわらかな氷などない。器に積もってゆくのは荒削りな細かい氷。
シロップをかければ、カチャカチャと音を立てて。溶けてゆくに従って山盛りにしたはずの氷はシロップと混ざり、どろりと重たく甘い液になって溜まっていった。
まるでスープのように、ちみちみと舐めるこれは「つめたいね」「あたまいたいのは、口で溶かさないからだよ」とくすくすと笑う。
それを流し、こめかみを押さえながらさっさとジュースにして飲み干した。シロップの甘さが舌に貼りつく。
「悪かったですね、お前が食べたがるかき氷をつくってやれなくて」
「なんで?」
「なんで、って」
「あのね、べつにふわふわなのが食べたかったわけじゃないんだよ」
渡してやったストローでズズッと吸い上げる。
「あのね、きみと食べたかったんだよ」
「そっ、そう、ですか…」
「あとね、」
「はい」
「電子レンジ、もの、入れっぱなし、だめなんだよ」
「は……っ!!!!」
入道雲はとっくに溶け切っていた。
#入道雲
「は」
違和感はひとを急激に現実へと戻す。
膝元で毛布がくしゃりと皺をつくった。飛び起きた反動でベッドが軋む。遮光カーテンが陽光を集めてぼんやりと光っていた。
おかしい。
いつもと雰囲気がまるで違う。
感覚でシーツの上をまさぐれば充電コードにつないだままのスマホが手に当たる。センサーで点いた画面を見れば、もうすでに朝とは言い難い数字。
「っ‼」
着替えるのもパジャマを洗濯機に放るのも忘れてリビングに駆け込んだ。
キッチンもダイニングもリビングもつながっているその空間の、ベランダに近い場所。駄々を捏ねられるままに購入した、私の生活には見合わないソファの上で、それは膝を抱えながらワイドショーの下世話なトピックスをじっと見ていた。
笑うでもなく、顔を顰めるでもなく、ただただ単に動く絵画を見るように。
私に顔も向けず、「おはよ」と。
思わず腹が立ってそれを見下ろして眉を寄せる。
「お前っ、起こしてくれてもいいじゃあないですか‼」
「あのね、おはよ」
「ようやくの休日なんですから、やることが」
「あのね」
ぐるん、と向けられたグレイの目が無邪気に諫めてくる。これはいつも、傲慢で的確で毒弁。何もかもに囚われず。
「朝なんだよ」
「……お早う、ございます。朝ごはんはどうしましたか」
「あのね、デイトレックスたべた」
「あれは非常用だと言ったでしょう」
「あのね、非常だった」
これからすれば私が起きておらず朝食がない状態は、正しく非常でしょう。
それはいい。
どうせ期限がくれば新しいものに買い替え、さっさと腹に入れるなりなんなりして処分しなければいけなかった。
問題なのは、私が寝坊する前に起こしてくれなかったこと、それに伴って家や自身の世話に割ける時間が少なくなったこと。
ただでさえ、平日は気力もなく後回し後回しにしていることが多いというのに。この休日できれいさっぱり清算できなければ、来る翌週に支障が出る。
家のことが滞るのは私にとってもこれにとっても大打撃。清潔さも余裕もない家では困る。
これが家事を変わってくれるわけもなく。
ならせめて、私を起こしてほしかった。
「いつも言っていますが、ただでさえお前や家の世話をする時間が足りないんです。ん、お前、今朝のパジャマはどこにやったんです」
「あのね、洗濯機」
「なるほど、有難うございます」
洗濯機を回して、その間に二部屋分の掃除、水回りや共有空間にも掃除機を走らせて。本当なら窓や壁の掃除もしたいが、優先順位が低い。
ベランダを軽くきれいにしてから洗濯物を干す。
それからすぐに来た昼の準備をしてこれに食べさせ、空いたソファに人工成分の霧を吹いておく。
食べ始めてさえいなかったこれの向かいに腰を下ろして、私は一回目、これは二回目の食事を。
一週間の生活費を管理して、これを連れて買い出しに出かけ帰ってくる頃には一日最後の食事の時間になっている。
夜支度をすればあっという間に次の日が迫った。
やっておくべきこと、やっておきたいことの半分さえままならない。
「あと少し、今日が長ければ」
「あのね、べつにぜんぶやる必要ない」
「何言ってるんですか、ひとらしく文化的な生活ができませんよ」
「あのね、ぜんぶきみがやる必要ないの」
「お前がやってくれるわけでもないのに、よく言う」
「食器はね、使い捨てでいい」
「環境に良くありません」
「家のお世話はね、ハウスキーパーにやってもらったらいいの」
「私ができるのにお金がもったいないです」
「できないから労力を買うんだよ」
「ぐぅ…」
「あのね、あるんだからお金で解決すればいいの」
私には正論の暴挙。私の価値観に合わせるつもりはさらさらないと言わんばかりに、最善で殴りつけてくる。
……分かってはいるけれども。
「あのね、ぼく、明日も起こさないよ。お寝坊すればいいの」
「だから冷凍のグラタンを欲しがったんですか」
「ん。おやすみ」
「……おやすみなさい」
パタンと閉じられたドア。
はぁ、と肩を落として私の一日は終わってしまった。
#日常
好きな色は何ですか?
と、何の気なしに訊いてみた。あなたが好むものはいくつかあったけれど、特定のそれを感じたことはなかったから興味本位。それから、今後の贈り物の参考にしようと思っての言葉だった。
しかし、あなたはギョッとしてから目を泳がせる。それほど言い難いものかしらと促してみても、「うぅー」だとか「あー」と濁そうとするばかり。
ただ単に色の好みを訊きたかったわたくしは、内心首を傾げながらしかし逃がさなかった。言葉を待っていると暗に示す。
するとやがて、あなたは諦めたように口を開いた。その声色はひどく弱弱しく、奥歯を噛むような表情を。
「…あのね、絶対に引かないでね」
「引くほどひどい色なんてありませんでしょう?」
「……例えば、茶色って言うんじゃなくて、人工的な廃棄物で汚れた海の色が好きって言われたらなんかいやでしょ?」
「た、たしかに驚きはしますけれど。でも、その色が好きなのでしょう? それなら、それでいいじゃあないですか」
「……ちがうの。結果的に示された色じゃなくて、色を示す経緯に問題があるって言いたいの」
「はあ」
分かるような分からないような、…やはりわたくしには想像し難い。そう伝えればあなたはくしゃりと顔を歪めて、もう一度「引かないでよ」と。
連れられたのは脱衣所。
場所柄、清潔な同系色でまとめたそこ。大き目の白い風呂桶が蛇口から流れる透明な水を受け止めてゆく。
半分以上溜まった円状の水。
念を押すようにわたくしを見やったあなたが、「ここ、手を入れて」と。訳も分からず手首までを透明色に沈めた。波立ってゆらゆらと揺れる水をじっと見下ろす。
特に変化も変哲もない。
いったい何をさせたいのか。
疑問をそのまま口にすれば、やはりあなたの目は泳ぐ。言葉を探して口を開け閉めしてから、ようやく観念したよう。
ぽつりと小さな声で告げてきた。
「…あのね、水とかお湯とか、透明な液体に沈んで揺らぐきみの肌色がね……好きなの」
「は」
首の上がじわじわと熱くなってゆく。
今度はわたくしが目を泳がせる番だった。
「だから引かないでって言った!」
「ち、ちが……えっと……」
「めっちゃ率直に言うと! お風呂に入ってるきみの色が反射するお湯の中に沈んで、湯気で隠れながらチラチラ見えるきみの肌の色が好きなのッ‼」
「へ、変態ですか⁉」
「そうだよッッ‼」
くわっ、と食い気味の返事をされてわたくしが面食らう始末。まさか、まさかそんな色を示されるとは思っていなくて。
肌色が好きってことですか、と訊けば。
肌色なんて無限にある。きみの肌の色が好きなの、唯一無二! と半ばキレ気味に返されてしまう。
「わ、わたくし…、プレゼントの、参考に、したくて……」
「そ、そういうことは早く言って! ぼく、ガラスが好き。色のついてない透明なやつが好き!」
「な、なんか、嫌です…」
「ゔぁあっ」
べそかいたあなたが鳴いた。
#好きな色