驚いただなんて生易しいものではなかった。けたたましい叫び声と同時に状況を表す短い単語。錯乱に陥った脳が指令を出しあぐねているのも構わず、身体は防災用のヘルメットを頭にふとん叩きを手に持っていた。
混乱した脳はそれでも『脱衣所』の文字を浮かび上がらせて見せた。
引き戸が反動で戻ってくる前に下着姿のあなたと『それ』を確認。
あなたの顔は真っ青で、『それ』から目を離せずにいた。恐怖か行方をくらませたくないのか。
「そこ! そこぉッ‼」
指も指さずに声だけで指示を出す。うんと拙くあまり意味もなさないそれに従うまでもなく、わたくしはふとん叩きを振りかぶった。
ダァンッ‼
『それ』は力なく壁を伝い落ちてゆく。
床で完全に事切れているのを確認して、わたくしはその場でへたりこんでしまった。
「……っ、はぁっ」
「うぇ…っ、じぬがとおもっだぁあッ!」
「わ、わたくし、だって……」
ふたりで抱き合って慰め合って。
心臓も冷や汗も尋常じゃないくらいにひどく、いまでも足は震えている。
動くことはないと分かっていても、もうその姿さえ見たくなかった。おぞましく恐ろしい。あんなものが家に存在していると思うと、涙がちょちょぎれてしまう。
「知らなかった…きみってば、平気なほうなの?」
「まさか。あなたのためにすべて奮ったんです」
「ゔぁあ……ありがと。ほんと、どうなるかと思った。ほんと、ほんとにありがと」
「この家の安寧が保たれてほっとしています」
まだタオルドライの途中だったのでしょう。水滴がぽたぽたとわたくしの腕や服を濡らした。このままではあなたが風邪を引いてしまうだとか、家中が濡れてしまうだとか気にする余裕はまだない。
あなたがさっさと行ってしまわないように腕に閉じ込めて、耳元でおねがいを。
「わたくし、もう、勇気も気力も絞りきりました。カラカラです」
「おっしゃあとは任せて。チリトリ持ってくる!」
ぽんぽんとわたくしの背を叩いたあなたが、勇ましく立ち上がって廊下に飛び出してゆく。その音を聴きながら思った。
(互いのために動けるこの関係性、ぜったいに手放したくなどない)
そう、強く強く、思ったのです。
#あなたがいたから
「わ、雨」
それから、
「傘忘れちゃった」
なんてテンプレ。
……それをかましたのはぼくだけれど。
出先で雨に遭遇した。ぼくが屋根の隙間から覗くように言えば、きみも釣られて上を見る。きみのアップデートが済んだときでよかった。まあ、済んでなかったらきみはお留守番だっただけだけれど。
きみは肩にかけていたカバンから折りたたみ傘を取り出す。バサバサって予備動作。
雨に濡れたきみを見たことがないから、いつも持ち歩いているんだろうなぁ。そもそもきみは忘れ物をしないし。
「出かける前に言ったじゃあないですか。雨降りますよって」
「言われた。それでね、ちゃんと傘持った」
「どうしたんです、その傘は」
「たぶん玄関。靴履くときに手、放した気がする」
「ストラップに手を通す癖をつけさせたほうがいいでしょうか」
「やだぁ、なんか耄碌してるみたい!」
するときみは肩を軽く落として、まるで肺から空気を抜くようにした。それからバンッて傘を広げると、ぼくに差し出したの。
「わたくしは走って帰りますから、ゆっくり帰って来てください」
「へ」
ぼくに傘を押しつけたきみが走り出したの。雨粒がアスファルトを叩きつける白い滝の中に消えていっちゃう。
慌てて追いかけるけれど、え、待って、きみってば結構足速い…っ! うそ、ぼくといっしょにラボに篭ってるくせに。
「待って待ってぇ!」
振り向いたきみが呆れた顔で駆け寄ってくる。逃げないように腕を掴んで傘の中に引き入れた。
「ゆっくり来てと言ったでしょう」
「だって、きみ濡れちゃう」
「もう濡れてます。それに、防水加工は完璧なのでしょう?」
「そりゃもちろんだけれど…。濡れないに越したことはないよ。けどね、ぼくだって雨に強い」
「風邪をひくくせに」
「む。気持ちの問題!」
雨の中に出て行かないように捕まえたまま少しだけ早足。傘はあるけれど折りたたみ傘だから、ぼくもきみも肩が濡れちゃう。
けれど、ひとりだけ世話を焼かれちゃうのも何だかいや。それに、
「カギはぼくしか持ってないでしょ?」
「……」
「きみだけ先に帰ってもぼくが来るまでお家に入れない。それに、きみが支度してるあいだにぼく、風邪ひいちゃうかも」
むーーっ、てお顔。
いいお顔。そういう表情ってすっごくだいじ。
「だから一緒に帰ったほうが、きみはずっと雨に濡れてなくていいし、ぼくのこころも救われちゃう。ね、こっちのがいいでしょ?」
「……そう、ですね」
きみは諦めたような声色で言った。だからとびきりのスマイルをして肩を寄せたの。きみの頬も緩まっていいかんじ。
でも、きみがすぐにこう続けた。
「それはそれとして、やはりストラップの癖はつけましょう」
「んぇ、なんで⁉」
「そもそも、あなたが忘れなければいいのですから」
「ゔぁあ」
いい雰囲気で意識を逸らせたと思ったのに、こういうところはしっかりしてるんだから!
#相合傘
落ちていた。
どこから、なんて分からない。どこまで、なんてこっちが知りたい。どうして、なんてさっぱり。釈然としない悶々とした何かが心に居座っている。
きっと飛び降りたのだろう。じゃなければ落とされた。……いまとなってはどちらでもいいのだけれど――――いいこともないかも知れないが。
どこからか宙に飛んで、すぐに気絶してしまったのだと思う。それで起きたらまだ落下の最中で意味もなく記憶が混乱している。
つまり、僕の現状はこうだった。
きっと随分と高いところから落ちたのだろう。あたりは白い靄で霞み、落下場所までどれだけ猶予が残されているのかも分からない。
悪あがきに頭から落下していたのを大の字で風を受け止めてみた。比較対象はないからスピードの変化は分からない。
せめて、どうして落ちているのかさえ分かればいいが。
ため息は肌をすべって僕の軌跡を逆走してゆく。
何気なしだった。
ふと横を見た瞬間に、落下してゆくのを見た。僕ではない――――彼女が、頭から真っ逆さまに僕を追い越していったのだ。
瞬間、僕は見つけた。思い出したのかも知れないけれど、確かに一発目の雷だった。
すっと靄に消えそうな白い肌。身体に貼りつきながらもさらさらとなびく真っ黒な髪。文字通り風に身を委ねた四肢が衣服から覗いて。
ぴっちりと閉じた瞼の奥は分からないけれど、揃った睫毛に通った鼻筋。ぽっと明るい頬。唇はきれいに薄付き、その隙間の奥は未知数。
ほんの一瞬の間にこれだけ彼女を捉えてしまった。これを春雷と言わずして何と言うのか。すべてが淡く、すべてが輝かしく、すべてが尊く、すべてがすべてが。一方的に彼女に感情を奪われてしまったよう。
それはきっと僕の落下速度を加速させた。
同時に、僕は見つけた。
もう思い出せない理由などどうでもいい。僕がどこからか落ちた理由、僕が途中で気を失い記憶も混雑した理由、ふと横を見た理由。
偶然などない、と言うじゃないか。
大の字はやめた。
顔面に風を受けて。
目は閉じない。彼女を追うため。
そうして僕は――――――
#落下
ふわりとカーテンが波打った。
めくれたその裾を左に退ければその街が一望できる。高台に位置するマンションの上階。彼はそこから運ばれてくる風に鼻を埋めてすぅーっと肺に満たしてみた。
なんてことない環境のにおい。
神がきっと外界のにおいを知らないのと同じく、彼も思い出せるほど――――思い出すための脳の引き出しにもにおいは入っていないのかも知れない。
演算で動いているような小さなひと陰たちが忙しなく右往左往しているのを見下ろしながら、彼は目をきょろきょろと物珍しく動かす。
車の往来。
信号機がすべて赤になる瞬間。
家から出てきたひとの服装。
ベランダで時間を満喫するひとの動き。
「あ」
横目に見ていたモニターが見知った玄関を映し出す。
彼は窓をきっちりと閉めて、廊下をぱたぱたと小走り。ダイニングに顔を出せば、彼の兄がポリエステルから日用生活品を次々とダイニングテーブルに並べていた。
「あのね、おかえり」
「えぇ、戻りました。何もありませんでしたね」
「あのね、ぼくはね。けど、きみってば同じの二個買ってる」
「え」
手を止めた兄が見れば、だめになったお玉のかわりがふたつ。別の店で同じ用途のものを買ってしまったらしい。
苦虫を奥歯で噛んだ彼は「ま、まあ、予備ですよ」と声を絞り出した。
「ほんと、すっごいうかつでまぬけ」
「ぐぅ……」
そうして項垂れる兄だが、慣れているのか表面上はすぐに立ち直ってみせた。
「あのね、お店をハシゴするから忘れるんだよ」
「安いものは安いところで買ったほうがいいんです」
「あのね、お野菜、赤い看板のとこじゃなくて紫のところのほうが今日は安いんだよ」
「え」
「ここの歯ブラシ磨きにくい。きみにも合わない」
「……」
「あとね、このカバン持ち手引きちぎれなくてよかったね」
「うぅ……何なんですか…もう」
「付け焼き刃ね、あのね、よくない」
「……っ」
今度はぐうの音も出ない。口をへの字に曲げて悔しがる兄に近寄ると、弟はすん、と鼻を動かした。わずかに寄せられた眉。それに気づいた兄が何です、と訊く。
「たばこのにおいする」
「あまり嗅いではいけませんよ」
「あとね、甘い、ん……けほっ、こんっこんっ」
「香水ですね。苦手なくせに嗅いで」
「とんこつ背脂」
「ラーメン店がいくつかありましたね」
「あのね、排気口からラーメンのにおいするってほんと?」
「まあ、そうですね。じゃなかったらどこからにおいがするのか、となります」
「あのね、出入り口の開閉でねにおい外に出る」
「……」
すべて出し終わった購入品。兄がもう、もくもくと俯いてポリエステルのバッグを畳んでゆく。
そこでふと、彼が顔を上げた。
「羨ましがるならお前も外に出ればいいんです」
「…ふぅん」
「……何です、その顔」
「あのね、別にぼくが行かなくてもきみが行けばぜんぶ解決する」
「どういう」
「これ」
弟が指差したのは兄のシャツのエンブレム。とん、と指で弾けば硬い音がした。
小型カメラ、と弟の唇が動く。
「は」
「気づかなかったの」
「装飾とばかり」
「この前着たときこんなのなかったでしょ。うかつでまぬけ」
「私にプライバシーもお前にデリカシーもないなんて……」
「きみが言うとね、わらえるね」
そう大して表情を変えずに言う弟は、バス停前のきみの行きつけでモーニング食べたいね、と今度はくすりと笑う。
兄が一瞬ぽかんとして、すぐに小型カメラのエンブレムを触った。
「お前っ、いつから私の身の回りにカメラを…!」
「ね、ぼくけっこう、この街のこと知ってる」
「ず、随分前からですか⁉」
「んふ。だから、きみが外でにおいをつけて来ればぜんぶね、分かっちゃうんだよ」
だからぼくはお家でおとなしくしてるね。
弟はもう一度スマイルを見せ、自分の好きな駄菓子だけを手に取って部屋に戻ってゆく。
さっそくひとつ開けた駄菓子を口に含み、モニターの電源を落としてカーテンも閉め切って。
#街
「あれ、騎士様、この森にこんな場所ありましたっけ。えー…、なかった気がするなぁ」
「……」
十三段ごとに九十九折になって上へ上へ続いている階段。頂点はないのか、雲の靄の向こうに向かっているみたいだ。
どこに続いているんでしょうか、と訊ねてみても騎士様は振り向きもしない。
この森を歩いていたとき以外の記憶が遠い昔のようになっている。巨大で深い木々の連なりは人を寄せつけず、立ち寄った町では神々や化け物の領分だと聞いた。
鬱蒼とした暗い人の憂鬱や恐怖を誘う場所もあれば、燦燦と木々を照らし澄んだ水に生かされているような場所もある不思議なところだ。
騎士様は相変わらず僕とは打ち解けない冷静さで階段を三段飛ばしに淡々と前を行く。僕はアーティファクトの杖をぶつけてしまわないように気をつけて、小走りにあとを追った。
騎士様が九十九折のちょうど曲がり角で立ち止まった。絵になる。
すでに森の木々よりも高さがあるそこからは、遠くの山々や集落、その先の町までが判然と見渡せる。澄んだ空気が余計にそうさせているんだろう。
目を見張った。
遠くの山の手前、六本足の何か。ひどくのろまな足取りをするそれは、ふたつの山をまたぐ姿をしている。つるりと体毛は見えず、時折開く口にはびっしりと歯が敷き詰められていた。
至大のアーチを描く股下。その巨体は恐ろしいことに足許の森林を一つも傷つけずにいる。
「神、ですか…?」
「融合だ」
「御言葉ですね、考えてみます。あ、討伐対象ですか?」
「見ろ」
顎で示された先には子どもたち。
裾の広がったそれは上へゆくほど尖り、その天辺には頭があった。長い髪を垂らした、白い母性。子どもたちはそれに手を伸ばしていた。
僕はそれを食い入るように見る。
羨ましいような、恐ろしいような。イデアを具現化しているよう。
受け入れられているのかな。
騎士様は僕の問いかけがまるでひとり言だったみたいに踵を返した。また三段飛ばしで今度は降りて行ったから、ぼくも続いてゆく。
ビキッ、と足許が音を立てた。
え、なんて声を出す間もなく宙に落とされた感覚に腹の奥が竦む。僕にはあり得ない反射神経で、何とか後ろへ戻った。
僕が降りようと足をかけていた階段が砕けて下へ下へ落ちてゆく。
数段分の階段がなくなって、騎士様と分断されてしまった。僕では飛び越えられそうにはない。
「き、騎士様!」
振り向いた彼がじっと僕を見てきた。鋭い視線。
何だか脇腹がじくじくと痛い。頭痛とは違う痛みも生まれてきて、思考に靄が。
「どうする」
「え」
「お前はどうする。どこに行く」
「どこに行く…とは」
「見ろ」
何を、と騎士様から視線を逸らした。すると、僕の位置から左右に階段が。それぞれ騎士様が降りてゆく先とは全く異なるほうへ続き、交わることがないように見える。
とくん、とこころが何かを期待した。
新しい信仰があの先にありそうだ、僕が求めているものがそこにあるべきだと何かが訴えている。
何となく漠然と。
騎士様と別れなくては、と。
また騎士様が。
「どうする」
左側の階段から視線を戻した。
「僕の神は」
「……」
僕のこころは決まった。
数段の助走をつけて空中に身を投げ出す。下は底抜けのように地面を秘匿していた。
****
ビクッと身体が浮いた感覚。筋肉の痙攣。
木の根元に崩れるようにもたれかかって、薄らと開ける視界はピントがまるで合っていない。
なんだか頬が熱いな、と感じた途端。
「い゛…ッ、たぃ……」
「…起きたか」
「騎士さ」
「食べろ」
「もがっ……ッ、ッ⁉」
「飲み込め」
「ま゛ッッッ…!」
「そういうものだ」
僕を見下ろす騎士様はなぜかシャツも着ずに防具を着けていた。
じんじんと腹が熱を持ち、ぬるりと濡れている。頭だって割れているような痛みが常にある。口の中は武器を口に突っ込まれたような味。
口の中で咀嚼して嚥下するまで、騎士様はただ見下ろしてくる。いつも無表情だけれど、いまはより一層。
だんだんと思い出してきた。
「と、討伐対象は」
「……」
顔だけで振り向いた先に、オリハルコンの巨体が木々を巻き込んで倒れていた。
「傷口は緩めに縫ってある。動くな」
「は、…はい。ありがとうございます……」
ボコボコとした糸の感触。
木漏れ日が射し込み光る小川。両手の中から水の束を落としながら騎士様が戻ってきた。
冷たく湿ったそれが顔にべちゃり。熱が奪われてひんやりと馴染んでゆく。
視界を遮っていた手拭いを顔から剥がした隙間から見えた騎士様の尊顔。完全に視界が開けるまでのわずかな間、いずれかの表情がいつもの表情に戻ったのを、僕は見た。
#岐路