あにの川流れ

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 驚いただなんて生易しいものではなかった。けたたましい叫び声と同時に状況を表す短い単語。錯乱に陥った脳が指令を出しあぐねているのも構わず、身体は防災用のヘルメットを頭にふとん叩きを手に持っていた。
 混乱した脳はそれでも『脱衣所』の文字を浮かび上がらせて見せた。

 引き戸が反動で戻ってくる前に下着姿のあなたと『それ』を確認。
 あなたの顔は真っ青で、『それ』から目を離せずにいた。恐怖か行方をくらませたくないのか。

 「そこ! そこぉッ‼」

 指も指さずに声だけで指示を出す。うんと拙くあまり意味もなさないそれに従うまでもなく、わたくしはふとん叩きを振りかぶった。

 ダァンッ‼

 『それ』は力なく壁を伝い落ちてゆく。
 床で完全に事切れているのを確認して、わたくしはその場でへたりこんでしまった。

 「……っ、はぁっ」
 「うぇ…っ、じぬがとおもっだぁあッ!」
 「わ、わたくし、だって……」

 ふたりで抱き合って慰め合って。
 心臓も冷や汗も尋常じゃないくらいにひどく、いまでも足は震えている。

 動くことはないと分かっていても、もうその姿さえ見たくなかった。おぞましく恐ろしい。あんなものが家に存在していると思うと、涙がちょちょぎれてしまう。

 「知らなかった…きみってば、平気なほうなの?」
 「まさか。あなたのためにすべて奮ったんです」
 「ゔぁあ……ありがと。ほんと、どうなるかと思った。ほんと、ほんとにありがと」
 「この家の安寧が保たれてほっとしています」

 まだタオルドライの途中だったのでしょう。水滴がぽたぽたとわたくしの腕や服を濡らした。このままではあなたが風邪を引いてしまうだとか、家中が濡れてしまうだとか気にする余裕はまだない。
 あなたがさっさと行ってしまわないように腕に閉じ込めて、耳元でおねがいを。

 「わたくし、もう、勇気も気力も絞りきりました。カラカラです」
 「おっしゃあとは任せて。チリトリ持ってくる!」

 ぽんぽんとわたくしの背を叩いたあなたが、勇ましく立ち上がって廊下に飛び出してゆく。その音を聴きながら思った。
 
 (互いのために動けるこの関係性、ぜったいに手放したくなどない)

 そう、強く強く、思ったのです。




#あなたがいたから




6/21/2023, 3:11:05 AM