その男は知っていた。
己が水槽の中の脳とシミュレーテッドリアリティに伴ってできた存在だと。また、同時に己の死期も知っていた。神の手――実際はどんな手でもいいが、脳が明晰夢にも近い状態になったとき、きちんと用意された手順に則って終わらせるのだと。
多少のイレギュラーも実はなんら想定内というのも知っている。そのイレギュラーで死期が早まったとしても第二第三の男が何事もなかったかのようにして、進んでゆくのも。
男はそれを思い出すたびに、毎回、ならば死期は必ず一定に絶対的なのだと首を傾げたくなる。
そして、男は白く硬い糸のようなグラフィックの中、全身を濡らしてじっと上を向いていた。
ずぶ濡れだ。
「……」
それから神の手が飽きたことも悟った。
そろそろゴミ箱に廃棄される頃合いだろうか。
ふと振り返った。
随分むかしにバグで生まれた己――姿かたちが寸分違わずおなじのそれは、確かに男自身。それがピクリともせずに濡れている。
「(イレギュラーで全くの不本意な終わり方だ。首を傾げている場合でもない)」
縛り付けられたように白い地面と固定されていた足を動かした。なんら抵抗もなく、それを担ぎ上げる。
奇跡的に思い描く場所は近かった。
線だけで区切られた長い長い梯子を汗もかかずに昇り上げてゆく。ひとつ不満があるとすれば、担ぎ上げた己でない己が邪魔だったこと。
煙突のいちばん底に白い炎。
あれに触れるためにはここまで昇らなくてはいけなかったし、何となく己の身ひとつでは釈然としなかった。
長く聳え立つ焼却炉の入り口。そこに己ではない己を横たわせ。支えを失くした頭がかくん、と炎に近づいた。
ぱちりと閉じた瞼は見ようによっては表情を変える。
「そんな顔をするな」
その身体をずらしたとき、均衡が崩れる気配がした。見れば炎にも穴ぼこが開き始めている。
すると男はさっさと己ではない己の胸倉を掴み、自身も一歩踏み出した。下までの高さにひやりと腹が疼いたのがやや疎ましい。
もう一度「そんな顔をするな」と誰に言うでもなく口遊む。
浮かんで落ちてゆく中で己ではない己がとなりに見えている。それを認めた男は何か声を発したくなったが、浮かんでくる言葉もなく。
「ああ」とだけ気を抜いた。
#世界の終わりに君と
「ひみつ?」
157個ある。
そうのたまった彼は悪びれもせずに図鑑のページをめくった。ペラペラな書物よりも分厚い紙面に印刷されたカラーのそれらは、彼が焦がれて止まない真空管の黒色を写している。
「は」
短く声を漏らした兄は目を泳がせた。弟の自室をぐるりと見回しても違和感はなく、昨日掃除機をかけたあとの配置と何ら変わりはない。
そもそも、これに秘密を内側で保っていられるはずがない、そう思い込んで高を括っていたのが悪かったのだろうか。それとも、その先天性のセンスを甘く見ていた落ち度か。
そんな兄の病的までの感情がこもった鋭い視線をものともせず、弟はぺらりぺらりとページをめくってゆく。その表情には何の色もない。ただただ常のスマイルを浮かべたまま。
薄い唇が開き、すぅ…と小さく息を吸った。
「ひみつがあっちゃだめ?」
「そういうわけでは…」
否、そういうわけだ。兄として、この生物の保護者として被保護者の行動や思考原理を把握しておきたい。しかし彼も人の子。決して咎めるつもりはないが、何だがひどく焦りが浮かび上がってくる。
どくんどくん、と耳の裏が熱い。
すると彼はくるりと振り返り覗き込むように見上げてくる。チェアに座ったままの足はぷらぷらと揺らされ、瞳の中には星屑のようにきらきらとした光が浮かぶ。
意図はない。
意図はないのだ、この生物には。
「だってぼくのひみつは、いくつあってもいいでしょ?」
「お前に秘密なんて…」
「んーん。いまは157個ある。明日は158個……んー、同じ数でいいや。あのね、お正月のきみのお皿にあった剥いた蟹の足、ぼくがたべた」
「どうりでやけに食べた気がしなかった」
「うかつでまぬけ」
「お前が食い意地張りすぎなだけです」
「ふふ」
くふくふと笑う弟ににため息をつきながら、兄は苦虫を奥歯で噛み潰したような顔をする。その顔色とは対照的に、弟の瞳には爛々と輝きが増してゆく。
「きみはひみつが多い」
「お前と何も違いませんよ」
「ちがう。ひみつってね、蜜に似てるね。なにをね、にやにやしてるのってこと」
「っ、」
「ひみつにしてた? ぼく以外には言わないよ。ね、まだひみつでしょ? それともぼくに知られちゃったらひみつじゃなくなる?」
「おっ、お前には関係ありません」
「ふぅん」
最後のページをめくり、ぱたんと閉じられた。図鑑はぐい、とテーブルの端に追いやられる。
「論文が読みたいからお金ちょうだい」
「…なぜです」
「定期購入なんだよ」
「なるほど。申し込んでおきますから、朝にサイトを見せなさい」
「うん」
素直に頷いてみせた弟に、ようやく手に持っていた梅のジュースをテーブルに置いた。グラスは結露して氷は随分と溶けている。
「あ」と声を上げた弟がぶすっと顔を歪めた。
味が薄くなった、ぬるい、先に置いたらよかったの、うかつでまぬけ。
「お前がおかしなことを言うから」
「聞いたのはきみ」
「ぐ…っ」
さっさと寝るんですよ、と言い捨てて兄は弟の私室を出た。プシューと背後で閉まるドア。液晶には赤色の背景に白色でLockの文字。
ずるずるとその場にしゃがみ込んだ兄は頭を掻いた。誰にも言えないのではない、言う必要がないだけだ、と自分に言い聞かせるように。
#誰にも言えない秘密
その翅を透かしたあなたはすっかり自然と化してゆく。甘い甘い液をストローで口に運んで。
せっかくたっぷりと入れたのに。
「もう、いらないのですか」
「うん。おなかいっぱい」
「……もう少し、食べられませんか」
「んーん。いらない」
私室から出なくなったあなた。
カーテンを開ければ透き通る白さが儚い。あなたの髪も肌も何もかもが白く、すべてに吸収されて奪われてしまってゆくようにさえ思えてならない。
窓辺の縁に手を掛けてぼんやりと外を見つめて。
こうなってしまってからは、あなたの世界は籠のようになってしまった。
飽きもせず、飽きることもなく、羨望のように。
時折ぼそっと呟くあなた。
「もっかい…行きたいなぁ」
それが永遠に出来なくなった口ぶりで、そう言う横顔には影が落ちて、カーテンに隠されたり。
わたくしに気づけばいつも通り――――に見せかけているスマイル。気怠そうに声を弾ませながら、あそこに行きたいあれがしたい、と。
楽しそうに。
寂しそうに。
切実に。
けれどわたくしはどうしても胸騒ぎが、ここからあなたを出してはいけないと。
ぼろぼろと涙を流すあなたにわたくしはとても後ろめたい。
「……そろそろ暑くなってきましたから、紫蘇ジュース、どうですか?」
「うん」
「メロンフロート好きだったでしょう?」
「うん。ありがと」
そうやって少しずつ、少しずつ。
なんだか、国語の教科書が、道徳が、時間の無駄だったとわたくしを罵るように。
#モンシロチョウ
ぼくはぜんぜん苦じゃないの。こわいけれど、そんなことよりももっとこわいことがあるって思ってる。
ぼくの中ではそれが揺るぎない。
比類ない。
だから、ここに居るの。
埃っぽい、ただただ箱みたいな室内を循環しているだけの空気がふよふよと、行き場もなく漂う。それを外に逃がすこともできずに、きみは何度も肩を落とした。
ぼくを見て、呆れて、ため息。
口を開きかけて、やめて。閉めたままのカーテンの向こうを目に映した。
「……聞こえてますか」
「聞こえてる」
「なら、……これほど言われるのです。はやく、わたくしを廃棄したら良い」
「やめて」
せっかくきれいに線を引いていた紙をね、ぐしゃってやっちゃったの。作り直しはしないけれど、見にくくなっちゃった。
きみはぼくの背中越しにそれを見る――――眺めてる。
ちょっと冷たい目。
「きみはだいじなの。ぼくの一番」
「それは、傑作だから…でしょうか。それとも代わりとして、それとも……」
「ぜんぶ。だから手放したくない。だから離れたくない。だから、傍に居てほしいの……いつも言ってる。覚えてないの」
「まさか」
覚えています、って。
それから、ですが、って付け足した。きみの声はいつも通りあんまり抑揚はないけれど、きっと真剣そのもの。
「あなたが殺されかねない。過激なひとが多くなってきていますから、わたくしならまた、つく――――」
「やめてってば‼」
思わず椅子をひっくり返しちゃった。鉛筆も芯が折れて転がった。用紙に鉛筆の引っかき跡。
「……では、製図紙を渡したらどうです」
「やだ。きみは唯一無二」
「強情で頑固なひと」
「きみに言われたくないの。意地っ張り」
静かになっちゃえば換気扇とか室外機の音がやたら響く。外からは、ばかみたいにきみを怖がる声が飛び交ってる。耳障りですっごくうるさくて、千篇一律、まるでリピート機能。
赤ちゃんみたいに泣き喚けばいいって思ってる。
きみが戻してくれた椅子に腰かけて。
鉛筆はナイフで削って。定規の冷たい感触を真っ直ぐに。コンパスで穴が空いてるかも知れないけれどこれくらいは我慢してくれないと。
製図なんて苦手なものをぼくにやらせて。
どうせ一年も経てば。
ね、あと一年の辛抱なんだよ。
そう言ったらきみは信じられないみたい。眉を寄せて訝しげにぼくを見るの。
ほんとなんだってば。
****
「……」
「あのね、いまの気持ちをどうぞ」
「まじですか」
「んふ」
いつもの大通り。
今日は買い出しに来てる。堂々と、何の心配もなく。もう箱詰めなんて御免勘弁。
ちょっといい気分。
やっぱりきみは唯一無二。オーパーツだなんだって言うけれど、二度とつくれないものってそういうもの。ほんと失礼。
人工皮膚がこどもの手をやさしく握って。
搭載カメラがとなりを愛しく見て。
声帯機能がたのしげに制服を着て道草。口許はテラテラと新作の揚げ物でリップクリーム。
ね、ぼくが言った通り。
「人間、はじめましてには弱い。けれどね、都合がよくなって制御できるようになったら、もうお友だち。結構手先も器用だからね」
「……あなたの図面が優秀なのではなくて?」
「もちろんそれもある。だってがんばった」
「苦手過ぎて一年間も」
「だってしたことなかった」
これだから……って言いかけて言葉をとめたきみは、もう一度大通りに目をやる。
「一年って…短いのだと思っていました」
「短いよ」
「では」
「結構、ヒトって効率厨で合理的で没頭しやすいんだよ。一秒だって無駄にできないとか言うんだから、切り捨て三千万秒だって充分足り得るんだよ」
「上位互換が六十万秒なのも頷けます」
「ま、ぼくの図面ありきだけど」
って笑ってやったの。
そうしたらきみも笑ったんだよ。
#一年後
世界中が、自分だけきれいになったにおいがしたんです。足許は跳ねる音がして。そこから、もわっとしたにおい。
音が変わったんです。
においが誘ってきて、くいくいっと顔を上に向かせるような。とてもすてきだと思いましてね、けれど爆弾だったらどうしようと。ふふ、思ったんです。
そう言いながらきみはカップを置いた。
カツンカツン、とフォークの先が探しもの。ぼくが教えるまでもなくすぐに見つけて、拾い上げてぱくり。
はじめて食べました、って。
きゃー! なんて。
そんなに食べたかったの。
「おいしいですねぇ…、食べたらなくなってしまうのがもったいない」
「食べてくれないとかなしいの」
「えぇもちろん、残さず、あなたに一欠片もあげません」
「味見もさせてくれなかった」
「一口目はわたくしがほしかったんです。正解でした」
「別にいいけど」
その代わり味を教えてあげますって、お口が活き活きするの。お手々もひらひら踊ってたのしそう。
まず、フォークの先が小さくサクッと入り込んでふわふわなメレンゲをかき分けるんです。そうしたら少し重たい感触。ぐぐっと力を入れると、タルトとは違う軽いけれど硬い底。
パキッという感じで割れてフォークから逃げようとするんですよ。
底がいちばん最初に口に入るんです。
パイ生地の空気を含んだようなたのしい食感がして、そうしたら、キュッと口の中が引き締まるように涼しい酸味。その中にも甘さがあって、……レモンカードと言うんですね! ふふ、新しいような懐かしいような響きがすてきです。
甘酸っぱさに浸っていれば、滑るように溶けてゆく緩やかな口溶け。
一口食べて。
紅茶との相性もいいんです。砂糖を入れずに、ストレート。きっと、濃いめに淹れてミルクティーにしても合うのでしょうね。
でも、わたくしはストレート派です。
「はぁ…おいしいです」
しみじみ呟いて。すっごいしあわせそうなお顔。なんだか、まるで――――、
「……きみってば、恋してるみたい」
「ん、ふふ、そうですか? そうですね、初恋ですね」
「は」
「言いますでしょう? 初恋の味は甘酸っぱい、と。いま、それと同じ体験をしているんですよ、わたくし」
最後の一口を食べて、ふわって笑うの。
瞼が開いていればきっとウィンクをしてたと思うの。パチンって、お茶目な。
そんな仕草がよく似合いそうな雰囲気で微笑むの。
そんなふうに思われてる、手許にあった――いまは姿かたちはすっかりきみのものだけれど、それにちょっとジェラシー。
まあ、いいけれど。
ぼくは目で味わう初恋もあるって知ってるから。ちょっと優越感。
「ん、よかった。またつくったげる」
「ふふ、いいえ」
きちんと口許を整えて。
「初恋の味は一度きりですもの。二回目の本や映画は記憶を消したい、と言うでしょう?」
「そうかも」
「ですから、今日が最初で最後なんですよ。次があるとするなら、また、別の味ですね」
「おなじものでも?」
初恋なのに次があるの…って。
するときみは得意げに口角を上げて、
「ええ。わたくし、毎日初恋していますもの」
って言うの。
#初恋の日