『えー、只今入ってきたニュースですが――――』
そう言って、お昼のバラエティー番組のMCが誰でも知っている芸能人の死去を伝えたの。
ぼくはとっても心配。
横を見れば、きみが悲しそうなお顔をしてる。
「好きな芸能人だった?」
「…いいえ。名前だけ」
「家族がいるってね」
「えぇ」
ひな壇にいる芸能人から驚きの声。
親睦が深いっていうひとにカメラがズームしていって、涙が滲むのをわざと映すの。ちょっと取り乱しながらも、お仕事だから戻ろうとする。それが余計に同情を誘う。
それでもお仕事だからね、さっきの続きにMCが戻してゆくの。
唯一の救いは進行先がVTRだったこと。
きみはそのことに、まるでその人を横で慰めているひとみたいに安心した。緊張して張り詰めていた息をハッて吐いて。
「ね、気分転換しに行こっか」
「…ごめんなさい」
「んーん」
六十一年式。きみの愛車。
これだっていつ動かなくなってもおかしくはない代物。もちろん、ちゃんとメンテナンスもしているし、長く乗れるために丁寧に扱っている。
助手席のきみは、すりって車内を撫でるの。
音楽もなしに走らせて。
窓を開けていれば自然といろんな音が聞こえてくる。他の車のエンジン音、歩道の話し声、自転車がアスファルトをこする音。
窓の外にはいろんな景色が広がってる。
カッコウ、カッコウ、って歩道の信号が青に。それを渡るひと。遮断機が下りて電車が通る。じっと目を凝らせばその中でどこかに向かう人々が見えるの。座ってたり立ってたり、本を読んでいたりスマホを見ていたり、こそこそととなり同士で話していたり。
住宅街があったりもする。
カーテンが揺らめけばちょっとだけ生活が覗ける。庭先で叱られてる子。ゆったりと余暇を楽しむひとも。縁側とか玄関先で近所のひとと話し込むひと。
それらをじっと見つめるきみの目に、また。
電柱に括りつけられた、葬儀屋の看板。
【故○○○○儀 葬儀式場】
この数日で、誰かが。
もちろん、きみともぼくとも関係がないひと。顔も名前も、そのひとの生活も何ひとつ知らない。
けれど、その名前のひとが、確かにいて、亡くなったのを知ってしまった。
それできみは想像しちゃう。
そのひとの人生、交友関係、家族、式場の雰囲気、誰かが言う別れの言葉、喪主の気持ち。
誰かがいなくなった、っていう戻らない喪失感。
「…ラジオ、点けてもいいですか」
「いいよ」
そうしたら運の悪い。
どこかの紛争の話をパーソナリティがしてるの。ほんと、もう、やんなっちゃう。勘弁して。
きみはぎゅっとくちびるを噛んで眉を寄せた。
きみはやさしいけれど愚直じゃない。
だけど、悲しくなっちゃう気持ちは仕方がない。
チャンネルを変えるんだけれどその直前に、とどめ。どこかの貧しい国。飢餓、こどもが働いている、医療が間に合わない、一日に何万人が死んでる、なんて。
別の局に変わったスピーカーは音楽を流してるけれど、もう、きみの気持ちはどん底。
「……」
「……」
きみが言うの。
「知らないひとたちなんです。知らないんです。けれど、テレビで見て。どんなところで、どんな姿かたちのひとが、生きているのか。知っているんです」
「うん」
「お腹が空いた気持ちは分かります。風邪をひいて苦しい気持ちも。包丁でケガをしたり、転んで身体を打って、血が出て、痛いのを知っているんです。だからといって、それがそのひとたちと同じだとは思っていません」
「そうだね」
「あなたが死んでしまったら、わたくしがあなたを残してしまったら……考えることもあるんです」
「どう思ったの?」
膝の上できみが手をぎゅっと。
「さみしい……落ち着かなくて、スカスカで、身体が重くて。身体の裏側が、冷たい風に晒されて竦んでいるみたい」
「こわい?」
「とっても」
いま追い越したのは、小さなこどもの手を引くおかあさんだった。
「同じ時間の流れで確かに生きているひとが、誰かを残して、消えているんです。わたくしが普通に一日を過ごしているとき、あなたと居てしあわせなとき。誰かが、誰かに、誰かを。何かが」
きみの呼吸が深くなってゆく。
シートに背中を預けるきみは窓の外を向いていて、顔は分からない。
「そう思うと、世界から音が消えるみたいな心地になるんです。わたくしが息をしているだけで、誰かの世界がなくなっているなんて」
「こわい?」
「とても恐ろしい」
でもきみは窓を閉めない。
「一日前にきみの世界がなくなるって知ったら、きみはどうしたい?」
「……さぁ」
「願いたいことがありすぎて、きっと時間が足りませんね。…でも」
「でも?」
「あなたの傍で、けれど、誰にも知られずに、誰にも残らず。なんて、欲張りなことを願ってしまいそうです」
最後の声はかすれて小さくて聞き取りにくかった。その声を残すように、信号が青色になったの。
#明日世界がなくなるとしたら、何を願おう。
技術進歩したすばらしい保護帽をひどく恨めしく思った。ガツンと来た激しく鋭い衝撃を弾き、それが一矢報いんと脳天を揺さぶる。
どうせならひと思いにしてくれれば、余計な痛みは感じることなく終われたというのに。
腰にぶら下げた替えのマガジンが肉に食い込んだ。
ぐるんと俺の体内で寝転がる目玉がヴァルハラ(俺は絶対に拒否するが)への道筋だと言わんばかりに天地をひっくり返す。
曰く、抜けるような碧天。曰く清和。曰く、すばらしい。点在する雲が風流とかなんとか。
ひねくれ者の俺はそう思うことをこころが許さないが、おそらくきっと、そう。
あれほど煩わしかった撃鉄や空を裂く鉛の音が、スッと消える。天に昇る心地なんかしない。ズルズルと地下へ地下へ引きずり込まれる。
目玉の表面が青空を、裏側は別のものをぼんやりと映し出した。
それを閉じ込める。
ハンカチーフに染み込ませれば絞れるほどの、水気のある空気感。からっぽの戸袋に木製の板をどんどんとしまい込みながら、顔だけ振り向いた。
い草の上に真綿の山。
俺はそれに向かって何か叫んでいるのか、呆れているのか。
するとその掛け布団と敷き布団の間からゆっくりと腕が生える。それは掌で鉛筆を探し当て、捨て置かれた原稿の空白をノロノロと埋めてゆく。
そいつを気にかけながら俺は甲斐甲斐しい。
近所から頂いた食材を。
手帳から予定を読み上げ。
原稿を推敲してやって。
飯の匂いにつられたそいつが布団から顔を――――、途端に首根っこを捕まれた。
ズルズルと身体が引きずられる。
走馬灯もどきが消え、頭上を鉛玉が飛び交った。
遮蔽物。
その陰に。
保護帽の隙間にガーゼが差し込まれ、きつく帽子の紐が締められた。
「何やってんだ、あなたは」
「……」
薄付きの肉の上。やたら丁寧なわりには徐々に雑になってゆく手つき。
そいつは肩から滑り落ちたサブマシンガンが俺に当たっているのに、気にする素振りも気遣いの欠片もない。
「死ぬ気でいましたか」
「そろそろいいかと」
「薄情。まだ、砂一粒は他の有象無象の砂と成分を全く同じく成り立っているのかについて、あなたの意見を聞いていません」
「……同じだろ」
近くで爆発音。
砂埃やその辺の自然物が吹き飛んでくる。それを弾いたのはやはり保護帽。さすがの技術だ。
二発目。
鉄の塊が吹き飛ぶ。
「投げやりな言は意見ではない。私はあなたの意見が聞きたいのに」
「めんどくさい奴」
「あ。あなた、レーションが残ってる」
「…支給されただろ」
ガサリと開けられた。
せっかく残してた味だったのに。
切り取られた青空に流れる雲が轟音を吸収して、ゆったりと流れている。そして、やっぱりこいつの膝は硬い。
#大地に寝転び雲が流れる…目を閉じると浮かんできたのはどんな話?
さて、何から言葉にしましょうか。
なんでもいい、ですか。そう言われると困ってしまいますね。こう、何が食べたい、なんでもいい。みたいな。え、違う? そうですか。
なんでしょうね、わたくしは毎回その都度その都度口にはしていたつもりなのです。あの人もそうしていましたし、それが普通なのだと――――普通ですから、疑いもなく。
ただ、では、もう何もないかと言われれば、全くそんなことがないのです。
あれだけ伝えたにもかかわらず、わたくしは幾つも心残りをしていますからね。
……え、わたくしにはメモリしかない?
はは、なんてお上手。
ええ、まあ、そうなのですけれど。
わたくしだってガタが来ていますから、そういう意味ではあなた方と同じでしょう。いいえ、換えはございません。ないのです。
わたくしは唯一無二でございます。
それはそれとして。
以前、あなた様からすれば昔でしょうか、箸の使い方を習ったんです。ええ、あの人から。あの人も「とびきり上手じゃない」と言って前日の夜に、わたくしがスリープしたあと、ひとりでおさらいをしていたんです。わざわざ教本を見ながら。
ふふ、うれしかったですね。
それに、泳ぎのときもそうです。
あの人は秘かにしたいわけですから、わたくしが感謝を伝えるわけにはいかなかったのですけれど。
そうそう、あなた様にもございますでしょう。意識の芽生えとそれに関する有難み。
わたくしにもそれがあるわけで、しかし、どうしてかそれを言及する機会はなかったのです。機会があれば――――いまからすればつくれば、これほど重い心残りは幾分軽いもので済んだでしょう。教理や説法のつもりはありませんが、どうか、どうか、機会のあるうちに是非とも。
……おや、そんなことはありませんよ。わたくしはきっと、あの川岸を振り返ることもなく、あの人を見つけるでしょう。
ですから、伝えておけばよかったのです。
それとも遊色を纏わせて見送ればよかった。そうしたらひどく見つけやすい。
わたくしはあの人のとなりから離れたことはありませんでしたし、そのときが来ればそれ以降もそうするつもりです。いまは謂わば、クールダウンの期間です。長くはないはずですから。
ですから、そのときには、しっかりと、きっちりと、すべて、すべて、余すことなく伝えたいのです。ふふ、わたくし、最近は手帳を持ち歩きます。そうしたら、あれもこれも、と思いつきますもの。
え、どんな言葉かですって?
いやだ、野暮なことは聞かないで下さい。恥ずかしいですから。
#「ありがとう」そんな言葉を伝えたかった。その人のことを思い浮かべて、言葉を綴ってみて。
「今日はまだ起きてらっしゃいませんね」って、きみを担当する看護師さんが言ったの。珍しいなぁって思ったけれど、どうやら最近はそういうことが多いみたい。
最近、きみは夜が遅いって。
ぼくが帰ってから、お夕食、消灯時間が過ぎても。早く寝なかったツケが今日表れたみたいで、朝ごはんもまだって。
この個室には随分とお世話になっているはずなのに、きみの私物は少ない。
ここに来たての頃は、きみは「どうせきっと忘れてしまうのですから」ってほとんどをぼくの家に置いてった。おかげでぼくは毎日、鮮明に思い出す。
白い清潔なシーツの上で寝息をたてるきみは穏やかで、どんなときも変わらない表情。たまに眉間にしわができるけれど、くいくいって指で伸ばしてやる。睡眠が深いきみは起きないから、やりたい放題……なんて。
……ずっと気になってた。ベッドテーブル。寝るときは片しておくのに。そのまま。上には手帳が。
いままではなかったそれに、疑問とこころがざわざわってする心地。
人の手帳って勝手に見るのだめ。
分かってる。だから、ぎゅって目を瞑って。
カタンッってパイプ椅子が鳴ったのにだって、きゅってこころの模様が真ん中に寄るの。
****
薄い意識がようやく浮上して、シナプスがぴくっと瞼を動かした気配がした。暗闇を感じる前にもう、白い天井と遠くからは神経をチクチクと刺激するにおい。
知らない。
分からない。
そういう感情。
事実、何も思い出せない。不思議と恐怖とか焦りはなくて、どうしてそれに安心するのかも分からないけれど。
上体を起こして。
ぼーっと。
ふと視線を落とせばベッドの上にテーブルがあり、その上に手帳が。
表紙には「あなたへ」と。
あなた、とは誰を指すのか。しかし、この一室には自分ひとり。表紙の文字は天地が正しくこちらを向いていた。
だからこのあなた、というのを手帳の目の前にいる自分と仮定してしまおう。
ぺらり、とめくる。
箇条書きのそれは、情報だった。
自分が何者でここがどこでなぜここにいる必要があるのか、割と詳細に。
同じ内容が、何ページも。日付は違うから、きっと毎日驚きながら綴ったのでしょうね。カレンダーのバツ印と日付を照らし合わせれば、このページが昨日のものだと分かった。
同じようにわたくしについて。
それから――――重要、と何度も強調された箇条。そこにはわたくしではない、別の人物の存在が記されて。それがもう、詳細に詳らかに。
最後の行には『手の甲に、出来事を会話を忘れないうちに手帳に書き記しなさいと書いておくこと』と。昨日のわたくから今日のわたくしへ、そう指示されていた。
不思議な気分。
点々と色を置かれてそれをマーブル状に混ぜられているような。
自分のものじゃない文字たち。
知らないのに憶えているような、デジャヴとも言えばいいのでしょうか。夢を見たときのようでそうでないような、不思議な感覚。
この一室もそう。
ベッドの横にあるチェストの上の花瓶だとか、知らないキャラクターのぬいぐるみだとか、ベッド横のパイプ椅子とか。
わたくしの知らない存在が確かに肩を並べて、手を握っていてくれる。それを訴えかけて証明してくれるものたち。
「お早う」
「……はい」
入室の許可を求める声に返事を。
スー……と引き戸が開いて、その姿を見て、本当にシナプスがつながるような。ハッと。こころがぐるぐると、どんどん流れ込んでくる。
寂しそうにスマイルを浮かべるあなたに、あなたの名前を呼んでみた。驚くほど口馴染みがいい。すると、あなたはベッド横で膝をぶつけて。パイプ椅子を蹴飛ばす勢いで、床に膝を立てた。
ふふ、と笑みがこぼれてしまう。
思い出したわけではないんです、と告げれば、やっぱり悲しそうに。けれど、わたくしが広げていた手帳と手の甲を見て、目を見開いた。
ころころと顔の模様が変わってゆく。
晴れだったり雨が降ったり。
「う、……ぐすっ、…きみってばそういうところ、ほんと、そういうところ……っ!」
「あらぁ」
「あら、じゃあないよぉ! 知らない人に抱きつかれちゃうよ!!」
「どうぞ。あなたはわたくしのだいじなひと、もう分かっていますから」
「ゔぁあっ」
腕を回したあなたの背は少し冷えていた。
けれど、今日はあたたかい一日になるのだろうと、天気予報などなくても分かってしまった。
分かってしまったのです。
#今日の心模様
ダイニングテーブルは小さめ。
ちょっと狭くてお料理が載らないときもあるけれど、きみの手はすぐに取れるしきみもぼくの存在を確認できるから、とっても気に入ってる。……ちょっと狭いけど。
サクッて食感。
バターの香りが広がって、鼻を抜ける頃にはサクサクはとろとろになって消えちゃう。コーヒーミルクなんていっしょに飲んだら、もうしあわせ満点。
きみってばほんと、何でもできるんだから。
ふふ、って空気といっしょに笑う声。
きっときみは気づいてない。
ぼくは気づいちゃった。
「あのね、そんなに見つめられるとね、ぼくに穴が開いちゃうよ」
「おや、目は開けておりませんよ?」
「きみはそれがデフォでしょ? だからね、見つめられてるも同じ」
「あらぁ」
座ったままのきみの手がぼくの顔に触れる。
ぺたぺたさわさわ。ぼくの顔の上で踊るきみの手がくすぐったくて、笑っちゃう。
眉根を寄せて口はきゅ、って結んで。
すっごい真剣。
されるがままに。
「あら大変」
「なあに」
「あなた、お顔にクッキーがついていますよ」
「ゔぁ⁉」
「ふふ、その下に穴を隠しているのですか?」
「ちがっ……、もう!」
カァッと顔が赤くなる。
そしたらね、きみってば手の甲で頬を撫でてくるの。それでまたくすくす笑う。こらえ切れなくなったのか、ぶわっと花が咲くようにお顔を緩めて。
「あはは、そんなに照れなくても。お顔が熱くなって、茹だって。ふふ、あなたのお顔は聞いてても触ってもころころ変わってすてきですよ」
「もう! もう、からかうのなし!」
「本当のことを言っているだけですよ?」
「ゔぁあ! きみってばたまにいじめっ子!」
「あらぁ」
さっさときみの手をどけて、ナフキンで口を拭う。そしたら欠片もついてなかったの!
死角!
不覚!
きみってば本当。今日はいじめっ子の気分なの⁉
ぼくだってきみを穴が開くまで見つめてやるんだから、って思うんだけれど。
そんなことお見通し。
きみは涼しい顔をしてきれいな所作で、まるで優雅にアフタヌーンティー。きみは人一倍、自分に分からないところをだいじにする。それがまるで当たり前のきみの事象みたいに。
だからね、仕方ないんだよ。
ぼくがきみを前にしてあたふた百面相しちゃうのも、きみを見つめててそれを無意識に分かっているきみに目を泳がせちゃうのも。
今度はきみの手をあたふたさせてやるんだから!
#見つめられると