世界中が、自分だけきれいになったにおいがしたんです。足許は跳ねる音がして。そこから、もわっとしたにおい。
音が変わったんです。
においが誘ってきて、くいくいっと顔を上に向かせるような。とてもすてきだと思いましてね、けれど爆弾だったらどうしようと。ふふ、思ったんです。
そう言いながらきみはカップを置いた。
カツンカツン、とフォークの先が探しもの。ぼくが教えるまでもなくすぐに見つけて、拾い上げてぱくり。
はじめて食べました、って。
きゃー! なんて。
そんなに食べたかったの。
「おいしいですねぇ…、食べたらなくなってしまうのがもったいない」
「食べてくれないとかなしいの」
「えぇもちろん、残さず、あなたに一欠片もあげません」
「味見もさせてくれなかった」
「一口目はわたくしがほしかったんです。正解でした」
「別にいいけど」
その代わり味を教えてあげますって、お口が活き活きするの。お手々もひらひら踊ってたのしそう。
まず、フォークの先が小さくサクッと入り込んでふわふわなメレンゲをかき分けるんです。そうしたら少し重たい感触。ぐぐっと力を入れると、タルトとは違う軽いけれど硬い底。
パキッという感じで割れてフォークから逃げようとするんですよ。
底がいちばん最初に口に入るんです。
パイ生地の空気を含んだようなたのしい食感がして、そうしたら、キュッと口の中が引き締まるように涼しい酸味。その中にも甘さがあって、……レモンカードと言うんですね! ふふ、新しいような懐かしいような響きがすてきです。
甘酸っぱさに浸っていれば、滑るように溶けてゆく緩やかな口溶け。
一口食べて。
紅茶との相性もいいんです。砂糖を入れずに、ストレート。きっと、濃いめに淹れてミルクティーにしても合うのでしょうね。
でも、わたくしはストレート派です。
「はぁ…おいしいです」
しみじみ呟いて。すっごいしあわせそうなお顔。なんだか、まるで――――、
「……きみってば、恋してるみたい」
「ん、ふふ、そうですか? そうですね、初恋ですね」
「は」
「言いますでしょう? 初恋の味は甘酸っぱい、と。いま、それと同じ体験をしているんですよ、わたくし」
最後の一口を食べて、ふわって笑うの。
瞼が開いていればきっとウィンクをしてたと思うの。パチンって、お茶目な。
そんな仕草がよく似合いそうな雰囲気で微笑むの。
そんなふうに思われてる、手許にあった――いまは姿かたちはすっかりきみのものだけれど、それにちょっとジェラシー。
まあ、いいけれど。
ぼくは目で味わう初恋もあるって知ってるから。ちょっと優越感。
「ん、よかった。またつくったげる」
「ふふ、いいえ」
きちんと口許を整えて。
「初恋の味は一度きりですもの。二回目の本や映画は記憶を消したい、と言うでしょう?」
「そうかも」
「ですから、今日が最初で最後なんですよ。次があるとするなら、また、別の味ですね」
「おなじものでも?」
初恋なのに次があるの…って。
するときみは得意げに口角を上げて、
「ええ。わたくし、毎日初恋していますもの」
って言うの。
#初恋の日
5/8/2023, 8:30:09 AM