「は」
違和感はひとを急激に現実へと戻す。
膝元で毛布がくしゃりと皺をつくった。飛び起きた反動でベッドが軋む。遮光カーテンが陽光を集めてぼんやりと光っていた。
おかしい。
いつもと雰囲気がまるで違う。
感覚でシーツの上をまさぐれば充電コードにつないだままのスマホが手に当たる。センサーで点いた画面を見れば、もうすでに朝とは言い難い数字。
「っ‼」
着替えるのもパジャマを洗濯機に放るのも忘れてリビングに駆け込んだ。
キッチンもダイニングもリビングもつながっているその空間の、ベランダに近い場所。駄々を捏ねられるままに購入した、私の生活には見合わないソファの上で、それは膝を抱えながらワイドショーの下世話なトピックスをじっと見ていた。
笑うでもなく、顔を顰めるでもなく、ただただ単に動く絵画を見るように。
私に顔も向けず、「おはよ」と。
思わず腹が立ってそれを見下ろして眉を寄せる。
「お前っ、起こしてくれてもいいじゃあないですか‼」
「あのね、おはよ」
「ようやくの休日なんですから、やることが」
「あのね」
ぐるん、と向けられたグレイの目が無邪気に諫めてくる。これはいつも、傲慢で的確で毒弁。何もかもに囚われず。
「朝なんだよ」
「……お早う、ございます。朝ごはんはどうしましたか」
「あのね、デイトレックスたべた」
「あれは非常用だと言ったでしょう」
「あのね、非常だった」
これからすれば私が起きておらず朝食がない状態は、正しく非常でしょう。
それはいい。
どうせ期限がくれば新しいものに買い替え、さっさと腹に入れるなりなんなりして処分しなければいけなかった。
問題なのは、私が寝坊する前に起こしてくれなかったこと、それに伴って家や自身の世話に割ける時間が少なくなったこと。
ただでさえ、平日は気力もなく後回し後回しにしていることが多いというのに。この休日できれいさっぱり清算できなければ、来る翌週に支障が出る。
家のことが滞るのは私にとってもこれにとっても大打撃。清潔さも余裕もない家では困る。
これが家事を変わってくれるわけもなく。
ならせめて、私を起こしてほしかった。
「いつも言っていますが、ただでさえお前や家の世話をする時間が足りないんです。ん、お前、今朝のパジャマはどこにやったんです」
「あのね、洗濯機」
「なるほど、有難うございます」
洗濯機を回して、その間に二部屋分の掃除、水回りや共有空間にも掃除機を走らせて。本当なら窓や壁の掃除もしたいが、優先順位が低い。
ベランダを軽くきれいにしてから洗濯物を干す。
それからすぐに来た昼の準備をしてこれに食べさせ、空いたソファに人工成分の霧を吹いておく。
食べ始めてさえいなかったこれの向かいに腰を下ろして、私は一回目、これは二回目の食事を。
一週間の生活費を管理して、これを連れて買い出しに出かけ帰ってくる頃には一日最後の食事の時間になっている。
夜支度をすればあっという間に次の日が迫った。
やっておくべきこと、やっておきたいことの半分さえままならない。
「あと少し、今日が長ければ」
「あのね、べつにぜんぶやる必要ない」
「何言ってるんですか、ひとらしく文化的な生活ができませんよ」
「あのね、ぜんぶきみがやる必要ないの」
「お前がやってくれるわけでもないのに、よく言う」
「食器はね、使い捨てでいい」
「環境に良くありません」
「家のお世話はね、ハウスキーパーにやってもらったらいいの」
「私ができるのにお金がもったいないです」
「できないから労力を買うんだよ」
「ぐぅ…」
「あのね、あるんだからお金で解決すればいいの」
私には正論の暴挙。私の価値観に合わせるつもりはさらさらないと言わんばかりに、最善で殴りつけてくる。
……分かってはいるけれども。
「あのね、ぼく、明日も起こさないよ。お寝坊すればいいの」
「だから冷凍のグラタンを欲しがったんですか」
「ん。おやすみ」
「……おやすみなさい」
パタンと閉じられたドア。
はぁ、と肩を落として私の一日は終わってしまった。
#日常
好きな色は何ですか?
と、何の気なしに訊いてみた。あなたが好むものはいくつかあったけれど、特定のそれを感じたことはなかったから興味本位。それから、今後の贈り物の参考にしようと思っての言葉だった。
しかし、あなたはギョッとしてから目を泳がせる。それほど言い難いものかしらと促してみても、「うぅー」だとか「あー」と濁そうとするばかり。
ただ単に色の好みを訊きたかったわたくしは、内心首を傾げながらしかし逃がさなかった。言葉を待っていると暗に示す。
するとやがて、あなたは諦めたように口を開いた。その声色はひどく弱弱しく、奥歯を噛むような表情を。
「…あのね、絶対に引かないでね」
「引くほどひどい色なんてありませんでしょう?」
「……例えば、茶色って言うんじゃなくて、人工的な廃棄物で汚れた海の色が好きって言われたらなんかいやでしょ?」
「た、たしかに驚きはしますけれど。でも、その色が好きなのでしょう? それなら、それでいいじゃあないですか」
「……ちがうの。結果的に示された色じゃなくて、色を示す経緯に問題があるって言いたいの」
「はあ」
分かるような分からないような、…やはりわたくしには想像し難い。そう伝えればあなたはくしゃりと顔を歪めて、もう一度「引かないでよ」と。
連れられたのは脱衣所。
場所柄、清潔な同系色でまとめたそこ。大き目の白い風呂桶が蛇口から流れる透明な水を受け止めてゆく。
半分以上溜まった円状の水。
念を押すようにわたくしを見やったあなたが、「ここ、手を入れて」と。訳も分からず手首までを透明色に沈めた。波立ってゆらゆらと揺れる水をじっと見下ろす。
特に変化も変哲もない。
いったい何をさせたいのか。
疑問をそのまま口にすれば、やはりあなたの目は泳ぐ。言葉を探して口を開け閉めしてから、ようやく観念したよう。
ぽつりと小さな声で告げてきた。
「…あのね、水とかお湯とか、透明な液体に沈んで揺らぐきみの肌色がね……好きなの」
「は」
首の上がじわじわと熱くなってゆく。
今度はわたくしが目を泳がせる番だった。
「だから引かないでって言った!」
「ち、ちが……えっと……」
「めっちゃ率直に言うと! お風呂に入ってるきみの色が反射するお湯の中に沈んで、湯気で隠れながらチラチラ見えるきみの肌の色が好きなのッ‼」
「へ、変態ですか⁉」
「そうだよッッ‼」
くわっ、と食い気味の返事をされてわたくしが面食らう始末。まさか、まさかそんな色を示されるとは思っていなくて。
肌色が好きってことですか、と訊けば。
肌色なんて無限にある。きみの肌の色が好きなの、唯一無二! と半ばキレ気味に返されてしまう。
「わ、わたくし…、プレゼントの、参考に、したくて……」
「そ、そういうことは早く言って! ぼく、ガラスが好き。色のついてない透明なやつが好き!」
「な、なんか、嫌です…」
「ゔぁあっ」
べそかいたあなたが鳴いた。
#好きな色
驚いただなんて生易しいものではなかった。けたたましい叫び声と同時に状況を表す短い単語。錯乱に陥った脳が指令を出しあぐねているのも構わず、身体は防災用のヘルメットを頭にふとん叩きを手に持っていた。
混乱した脳はそれでも『脱衣所』の文字を浮かび上がらせて見せた。
引き戸が反動で戻ってくる前に下着姿のあなたと『それ』を確認。
あなたの顔は真っ青で、『それ』から目を離せずにいた。恐怖か行方をくらませたくないのか。
「そこ! そこぉッ‼」
指も指さずに声だけで指示を出す。うんと拙くあまり意味もなさないそれに従うまでもなく、わたくしはふとん叩きを振りかぶった。
ダァンッ‼
『それ』は力なく壁を伝い落ちてゆく。
床で完全に事切れているのを確認して、わたくしはその場でへたりこんでしまった。
「……っ、はぁっ」
「うぇ…っ、じぬがとおもっだぁあッ!」
「わ、わたくし、だって……」
ふたりで抱き合って慰め合って。
心臓も冷や汗も尋常じゃないくらいにひどく、いまでも足は震えている。
動くことはないと分かっていても、もうその姿さえ見たくなかった。おぞましく恐ろしい。あんなものが家に存在していると思うと、涙がちょちょぎれてしまう。
「知らなかった…きみってば、平気なほうなの?」
「まさか。あなたのためにすべて奮ったんです」
「ゔぁあ……ありがと。ほんと、どうなるかと思った。ほんと、ほんとにありがと」
「この家の安寧が保たれてほっとしています」
まだタオルドライの途中だったのでしょう。水滴がぽたぽたとわたくしの腕や服を濡らした。このままではあなたが風邪を引いてしまうだとか、家中が濡れてしまうだとか気にする余裕はまだない。
あなたがさっさと行ってしまわないように腕に閉じ込めて、耳元でおねがいを。
「わたくし、もう、勇気も気力も絞りきりました。カラカラです」
「おっしゃあとは任せて。チリトリ持ってくる!」
ぽんぽんとわたくしの背を叩いたあなたが、勇ましく立ち上がって廊下に飛び出してゆく。その音を聴きながら思った。
(互いのために動けるこの関係性、ぜったいに手放したくなどない)
そう、強く強く、思ったのです。
#あなたがいたから
「わ、雨」
それから、
「傘忘れちゃった」
なんてテンプレ。
……それをかましたのはぼくだけれど。
出先で雨に遭遇した。ぼくが屋根の隙間から覗くように言えば、きみも釣られて上を見る。きみのアップデートが済んだときでよかった。まあ、済んでなかったらきみはお留守番だっただけだけれど。
きみは肩にかけていたカバンから折りたたみ傘を取り出す。バサバサって予備動作。
雨に濡れたきみを見たことがないから、いつも持ち歩いているんだろうなぁ。そもそもきみは忘れ物をしないし。
「出かける前に言ったじゃあないですか。雨降りますよって」
「言われた。それでね、ちゃんと傘持った」
「どうしたんです、その傘は」
「たぶん玄関。靴履くときに手、放した気がする」
「ストラップに手を通す癖をつけさせたほうがいいでしょうか」
「やだぁ、なんか耄碌してるみたい!」
するときみは肩を軽く落として、まるで肺から空気を抜くようにした。それからバンッて傘を広げると、ぼくに差し出したの。
「わたくしは走って帰りますから、ゆっくり帰って来てください」
「へ」
ぼくに傘を押しつけたきみが走り出したの。雨粒がアスファルトを叩きつける白い滝の中に消えていっちゃう。
慌てて追いかけるけれど、え、待って、きみってば結構足速い…っ! うそ、ぼくといっしょにラボに篭ってるくせに。
「待って待ってぇ!」
振り向いたきみが呆れた顔で駆け寄ってくる。逃げないように腕を掴んで傘の中に引き入れた。
「ゆっくり来てと言ったでしょう」
「だって、きみ濡れちゃう」
「もう濡れてます。それに、防水加工は完璧なのでしょう?」
「そりゃもちろんだけれど…。濡れないに越したことはないよ。けどね、ぼくだって雨に強い」
「風邪をひくくせに」
「む。気持ちの問題!」
雨の中に出て行かないように捕まえたまま少しだけ早足。傘はあるけれど折りたたみ傘だから、ぼくもきみも肩が濡れちゃう。
けれど、ひとりだけ世話を焼かれちゃうのも何だかいや。それに、
「カギはぼくしか持ってないでしょ?」
「……」
「きみだけ先に帰ってもぼくが来るまでお家に入れない。それに、きみが支度してるあいだにぼく、風邪ひいちゃうかも」
むーーっ、てお顔。
いいお顔。そういう表情ってすっごくだいじ。
「だから一緒に帰ったほうが、きみはずっと雨に濡れてなくていいし、ぼくのこころも救われちゃう。ね、こっちのがいいでしょ?」
「……そう、ですね」
きみは諦めたような声色で言った。だからとびきりのスマイルをして肩を寄せたの。きみの頬も緩まっていいかんじ。
でも、きみがすぐにこう続けた。
「それはそれとして、やはりストラップの癖はつけましょう」
「んぇ、なんで⁉」
「そもそも、あなたが忘れなければいいのですから」
「ゔぁあ」
いい雰囲気で意識を逸らせたと思ったのに、こういうところはしっかりしてるんだから!
#相合傘
落ちていた。
どこから、なんて分からない。どこまで、なんてこっちが知りたい。どうして、なんてさっぱり。釈然としない悶々とした何かが心に居座っている。
きっと飛び降りたのだろう。じゃなければ落とされた。……いまとなってはどちらでもいいのだけれど――――いいこともないかも知れないが。
どこからか宙に飛んで、すぐに気絶してしまったのだと思う。それで起きたらまだ落下の最中で意味もなく記憶が混乱している。
つまり、僕の現状はこうだった。
きっと随分と高いところから落ちたのだろう。あたりは白い靄で霞み、落下場所までどれだけ猶予が残されているのかも分からない。
悪あがきに頭から落下していたのを大の字で風を受け止めてみた。比較対象はないからスピードの変化は分からない。
せめて、どうして落ちているのかさえ分かればいいが。
ため息は肌をすべって僕の軌跡を逆走してゆく。
何気なしだった。
ふと横を見た瞬間に、落下してゆくのを見た。僕ではない――――彼女が、頭から真っ逆さまに僕を追い越していったのだ。
瞬間、僕は見つけた。思い出したのかも知れないけれど、確かに一発目の雷だった。
すっと靄に消えそうな白い肌。身体に貼りつきながらもさらさらとなびく真っ黒な髪。文字通り風に身を委ねた四肢が衣服から覗いて。
ぴっちりと閉じた瞼の奥は分からないけれど、揃った睫毛に通った鼻筋。ぽっと明るい頬。唇はきれいに薄付き、その隙間の奥は未知数。
ほんの一瞬の間にこれだけ彼女を捉えてしまった。これを春雷と言わずして何と言うのか。すべてが淡く、すべてが輝かしく、すべてが尊く、すべてがすべてが。一方的に彼女に感情を奪われてしまったよう。
それはきっと僕の落下速度を加速させた。
同時に、僕は見つけた。
もう思い出せない理由などどうでもいい。僕がどこからか落ちた理由、僕が途中で気を失い記憶も混雑した理由、ふと横を見た理由。
偶然などない、と言うじゃないか。
大の字はやめた。
顔面に風を受けて。
目は閉じない。彼女を追うため。
そうして僕は――――――
#落下