ふわりとカーテンが波打った。
めくれたその裾を左に退ければその街が一望できる。高台に位置するマンションの上階。彼はそこから運ばれてくる風に鼻を埋めてすぅーっと肺に満たしてみた。
なんてことない環境のにおい。
神がきっと外界のにおいを知らないのと同じく、彼も思い出せるほど――――思い出すための脳の引き出しにもにおいは入っていないのかも知れない。
演算で動いているような小さなひと陰たちが忙しなく右往左往しているのを見下ろしながら、彼は目をきょろきょろと物珍しく動かす。
車の往来。
信号機がすべて赤になる瞬間。
家から出てきたひとの服装。
ベランダで時間を満喫するひとの動き。
「あ」
横目に見ていたモニターが見知った玄関を映し出す。
彼は窓をきっちりと閉めて、廊下をぱたぱたと小走り。ダイニングに顔を出せば、彼の兄がポリエステルから日用生活品を次々とダイニングテーブルに並べていた。
「あのね、おかえり」
「えぇ、戻りました。何もありませんでしたね」
「あのね、ぼくはね。けど、きみってば同じの二個買ってる」
「え」
手を止めた兄が見れば、だめになったお玉のかわりがふたつ。別の店で同じ用途のものを買ってしまったらしい。
苦虫を奥歯で噛んだ彼は「ま、まあ、予備ですよ」と声を絞り出した。
「ほんと、すっごいうかつでまぬけ」
「ぐぅ……」
そうして項垂れる兄だが、慣れているのか表面上はすぐに立ち直ってみせた。
「あのね、お店をハシゴするから忘れるんだよ」
「安いものは安いところで買ったほうがいいんです」
「あのね、お野菜、赤い看板のとこじゃなくて紫のところのほうが今日は安いんだよ」
「え」
「ここの歯ブラシ磨きにくい。きみにも合わない」
「……」
「あとね、このカバン持ち手引きちぎれなくてよかったね」
「うぅ……何なんですか…もう」
「付け焼き刃ね、あのね、よくない」
「……っ」
今度はぐうの音も出ない。口をへの字に曲げて悔しがる兄に近寄ると、弟はすん、と鼻を動かした。わずかに寄せられた眉。それに気づいた兄が何です、と訊く。
「たばこのにおいする」
「あまり嗅いではいけませんよ」
「あとね、甘い、ん……けほっ、こんっこんっ」
「香水ですね。苦手なくせに嗅いで」
「とんこつ背脂」
「ラーメン店がいくつかありましたね」
「あのね、排気口からラーメンのにおいするってほんと?」
「まあ、そうですね。じゃなかったらどこからにおいがするのか、となります」
「あのね、出入り口の開閉でねにおい外に出る」
「……」
すべて出し終わった購入品。兄がもう、もくもくと俯いてポリエステルのバッグを畳んでゆく。
そこでふと、彼が顔を上げた。
「羨ましがるならお前も外に出ればいいんです」
「…ふぅん」
「……何です、その顔」
「あのね、別にぼくが行かなくてもきみが行けばぜんぶ解決する」
「どういう」
「これ」
弟が指差したのは兄のシャツのエンブレム。とん、と指で弾けば硬い音がした。
小型カメラ、と弟の唇が動く。
「は」
「気づかなかったの」
「装飾とばかり」
「この前着たときこんなのなかったでしょ。うかつでまぬけ」
「私にプライバシーもお前にデリカシーもないなんて……」
「きみが言うとね、わらえるね」
そう大して表情を変えずに言う弟は、バス停前のきみの行きつけでモーニング食べたいね、と今度はくすりと笑う。
兄が一瞬ぽかんとして、すぐに小型カメラのエンブレムを触った。
「お前っ、いつから私の身の回りにカメラを…!」
「ね、ぼくけっこう、この街のこと知ってる」
「ず、随分前からですか⁉」
「んふ。だから、きみが外でにおいをつけて来ればぜんぶね、分かっちゃうんだよ」
だからぼくはお家でおとなしくしてるね。
弟はもう一度スマイルを見せ、自分の好きな駄菓子だけを手に取って部屋に戻ってゆく。
さっそくひとつ開けた駄菓子を口に含み、モニターの電源を落としてカーテンも閉め切って。
#街
「あれ、騎士様、この森にこんな場所ありましたっけ。えー…、なかった気がするなぁ」
「……」
十三段ごとに九十九折になって上へ上へ続いている階段。頂点はないのか、雲の靄の向こうに向かっているみたいだ。
どこに続いているんでしょうか、と訊ねてみても騎士様は振り向きもしない。
この森を歩いていたとき以外の記憶が遠い昔のようになっている。巨大で深い木々の連なりは人を寄せつけず、立ち寄った町では神々や化け物の領分だと聞いた。
鬱蒼とした暗い人の憂鬱や恐怖を誘う場所もあれば、燦燦と木々を照らし澄んだ水に生かされているような場所もある不思議なところだ。
騎士様は相変わらず僕とは打ち解けない冷静さで階段を三段飛ばしに淡々と前を行く。僕はアーティファクトの杖をぶつけてしまわないように気をつけて、小走りにあとを追った。
騎士様が九十九折のちょうど曲がり角で立ち止まった。絵になる。
すでに森の木々よりも高さがあるそこからは、遠くの山々や集落、その先の町までが判然と見渡せる。澄んだ空気が余計にそうさせているんだろう。
目を見張った。
遠くの山の手前、六本足の何か。ひどくのろまな足取りをするそれは、ふたつの山をまたぐ姿をしている。つるりと体毛は見えず、時折開く口にはびっしりと歯が敷き詰められていた。
至大のアーチを描く股下。その巨体は恐ろしいことに足許の森林を一つも傷つけずにいる。
「神、ですか…?」
「融合だ」
「御言葉ですね、考えてみます。あ、討伐対象ですか?」
「見ろ」
顎で示された先には子どもたち。
裾の広がったそれは上へゆくほど尖り、その天辺には頭があった。長い髪を垂らした、白い母性。子どもたちはそれに手を伸ばしていた。
僕はそれを食い入るように見る。
羨ましいような、恐ろしいような。イデアを具現化しているよう。
受け入れられているのかな。
騎士様は僕の問いかけがまるでひとり言だったみたいに踵を返した。また三段飛ばしで今度は降りて行ったから、ぼくも続いてゆく。
ビキッ、と足許が音を立てた。
え、なんて声を出す間もなく宙に落とされた感覚に腹の奥が竦む。僕にはあり得ない反射神経で、何とか後ろへ戻った。
僕が降りようと足をかけていた階段が砕けて下へ下へ落ちてゆく。
数段分の階段がなくなって、騎士様と分断されてしまった。僕では飛び越えられそうにはない。
「き、騎士様!」
振り向いた彼がじっと僕を見てきた。鋭い視線。
何だか脇腹がじくじくと痛い。頭痛とは違う痛みも生まれてきて、思考に靄が。
「どうする」
「え」
「お前はどうする。どこに行く」
「どこに行く…とは」
「見ろ」
何を、と騎士様から視線を逸らした。すると、僕の位置から左右に階段が。それぞれ騎士様が降りてゆく先とは全く異なるほうへ続き、交わることがないように見える。
とくん、とこころが何かを期待した。
新しい信仰があの先にありそうだ、僕が求めているものがそこにあるべきだと何かが訴えている。
何となく漠然と。
騎士様と別れなくては、と。
また騎士様が。
「どうする」
左側の階段から視線を戻した。
「僕の神は」
「……」
僕のこころは決まった。
数段の助走をつけて空中に身を投げ出す。下は底抜けのように地面を秘匿していた。
****
ビクッと身体が浮いた感覚。筋肉の痙攣。
木の根元に崩れるようにもたれかかって、薄らと開ける視界はピントがまるで合っていない。
なんだか頬が熱いな、と感じた途端。
「い゛…ッ、たぃ……」
「…起きたか」
「騎士さ」
「食べろ」
「もがっ……ッ、ッ⁉」
「飲み込め」
「ま゛ッッッ…!」
「そういうものだ」
僕を見下ろす騎士様はなぜかシャツも着ずに防具を着けていた。
じんじんと腹が熱を持ち、ぬるりと濡れている。頭だって割れているような痛みが常にある。口の中は武器を口に突っ込まれたような味。
口の中で咀嚼して嚥下するまで、騎士様はただ見下ろしてくる。いつも無表情だけれど、いまはより一層。
だんだんと思い出してきた。
「と、討伐対象は」
「……」
顔だけで振り向いた先に、オリハルコンの巨体が木々を巻き込んで倒れていた。
「傷口は緩めに縫ってある。動くな」
「は、…はい。ありがとうございます……」
ボコボコとした糸の感触。
木漏れ日が射し込み光る小川。両手の中から水の束を落としながら騎士様が戻ってきた。
冷たく湿ったそれが顔にべちゃり。熱が奪われてひんやりと馴染んでゆく。
視界を遮っていた手拭いを顔から剥がした隙間から見えた騎士様の尊顔。完全に視界が開けるまでのわずかな間、いずれかの表情がいつもの表情に戻ったのを、僕は見た。
#岐路
その男は知っていた。
己が水槽の中の脳とシミュレーテッドリアリティに伴ってできた存在だと。また、同時に己の死期も知っていた。神の手――実際はどんな手でもいいが、脳が明晰夢にも近い状態になったとき、きちんと用意された手順に則って終わらせるのだと。
多少のイレギュラーも実はなんら想定内というのも知っている。そのイレギュラーで死期が早まったとしても第二第三の男が何事もなかったかのようにして、進んでゆくのも。
男はそれを思い出すたびに、毎回、ならば死期は必ず一定に絶対的なのだと首を傾げたくなる。
そして、男は白く硬い糸のようなグラフィックの中、全身を濡らしてじっと上を向いていた。
ずぶ濡れだ。
「……」
それから神の手が飽きたことも悟った。
そろそろゴミ箱に廃棄される頃合いだろうか。
ふと振り返った。
随分むかしにバグで生まれた己――姿かたちが寸分違わずおなじのそれは、確かに男自身。それがピクリともせずに濡れている。
「(イレギュラーで全くの不本意な終わり方だ。首を傾げている場合でもない)」
縛り付けられたように白い地面と固定されていた足を動かした。なんら抵抗もなく、それを担ぎ上げる。
奇跡的に思い描く場所は近かった。
線だけで区切られた長い長い梯子を汗もかかずに昇り上げてゆく。ひとつ不満があるとすれば、担ぎ上げた己でない己が邪魔だったこと。
煙突のいちばん底に白い炎。
あれに触れるためにはここまで昇らなくてはいけなかったし、何となく己の身ひとつでは釈然としなかった。
長く聳え立つ焼却炉の入り口。そこに己ではない己を横たわせ。支えを失くした頭がかくん、と炎に近づいた。
ぱちりと閉じた瞼は見ようによっては表情を変える。
「そんな顔をするな」
その身体をずらしたとき、均衡が崩れる気配がした。見れば炎にも穴ぼこが開き始めている。
すると男はさっさと己ではない己の胸倉を掴み、自身も一歩踏み出した。下までの高さにひやりと腹が疼いたのがやや疎ましい。
もう一度「そんな顔をするな」と誰に言うでもなく口遊む。
浮かんで落ちてゆく中で己ではない己がとなりに見えている。それを認めた男は何か声を発したくなったが、浮かんでくる言葉もなく。
「ああ」とだけ気を抜いた。
#世界の終わりに君と
「ひみつ?」
157個ある。
そうのたまった彼は悪びれもせずに図鑑のページをめくった。ペラペラな書物よりも分厚い紙面に印刷されたカラーのそれらは、彼が焦がれて止まない真空管の黒色を写している。
「は」
短く声を漏らした兄は目を泳がせた。弟の自室をぐるりと見回しても違和感はなく、昨日掃除機をかけたあとの配置と何ら変わりはない。
そもそも、これに秘密を内側で保っていられるはずがない、そう思い込んで高を括っていたのが悪かったのだろうか。それとも、その先天性のセンスを甘く見ていた落ち度か。
そんな兄の病的までの感情がこもった鋭い視線をものともせず、弟はぺらりぺらりとページをめくってゆく。その表情には何の色もない。ただただ常のスマイルを浮かべたまま。
薄い唇が開き、すぅ…と小さく息を吸った。
「ひみつがあっちゃだめ?」
「そういうわけでは…」
否、そういうわけだ。兄として、この生物の保護者として被保護者の行動や思考原理を把握しておきたい。しかし彼も人の子。決して咎めるつもりはないが、何だがひどく焦りが浮かび上がってくる。
どくんどくん、と耳の裏が熱い。
すると彼はくるりと振り返り覗き込むように見上げてくる。チェアに座ったままの足はぷらぷらと揺らされ、瞳の中には星屑のようにきらきらとした光が浮かぶ。
意図はない。
意図はないのだ、この生物には。
「だってぼくのひみつは、いくつあってもいいでしょ?」
「お前に秘密なんて…」
「んーん。いまは157個ある。明日は158個……んー、同じ数でいいや。あのね、お正月のきみのお皿にあった剥いた蟹の足、ぼくがたべた」
「どうりでやけに食べた気がしなかった」
「うかつでまぬけ」
「お前が食い意地張りすぎなだけです」
「ふふ」
くふくふと笑う弟ににため息をつきながら、兄は苦虫を奥歯で噛み潰したような顔をする。その顔色とは対照的に、弟の瞳には爛々と輝きが増してゆく。
「きみはひみつが多い」
「お前と何も違いませんよ」
「ちがう。ひみつってね、蜜に似てるね。なにをね、にやにやしてるのってこと」
「っ、」
「ひみつにしてた? ぼく以外には言わないよ。ね、まだひみつでしょ? それともぼくに知られちゃったらひみつじゃなくなる?」
「おっ、お前には関係ありません」
「ふぅん」
最後のページをめくり、ぱたんと閉じられた。図鑑はぐい、とテーブルの端に追いやられる。
「論文が読みたいからお金ちょうだい」
「…なぜです」
「定期購入なんだよ」
「なるほど。申し込んでおきますから、朝にサイトを見せなさい」
「うん」
素直に頷いてみせた弟に、ようやく手に持っていた梅のジュースをテーブルに置いた。グラスは結露して氷は随分と溶けている。
「あ」と声を上げた弟がぶすっと顔を歪めた。
味が薄くなった、ぬるい、先に置いたらよかったの、うかつでまぬけ。
「お前がおかしなことを言うから」
「聞いたのはきみ」
「ぐ…っ」
さっさと寝るんですよ、と言い捨てて兄は弟の私室を出た。プシューと背後で閉まるドア。液晶には赤色の背景に白色でLockの文字。
ずるずるとその場にしゃがみ込んだ兄は頭を掻いた。誰にも言えないのではない、言う必要がないだけだ、と自分に言い聞かせるように。
#誰にも言えない秘密
その翅を透かしたあなたはすっかり自然と化してゆく。甘い甘い液をストローで口に運んで。
せっかくたっぷりと入れたのに。
「もう、いらないのですか」
「うん。おなかいっぱい」
「……もう少し、食べられませんか」
「んーん。いらない」
私室から出なくなったあなた。
カーテンを開ければ透き通る白さが儚い。あなたの髪も肌も何もかもが白く、すべてに吸収されて奪われてしまってゆくようにさえ思えてならない。
窓辺の縁に手を掛けてぼんやりと外を見つめて。
こうなってしまってからは、あなたの世界は籠のようになってしまった。
飽きもせず、飽きることもなく、羨望のように。
時折ぼそっと呟くあなた。
「もっかい…行きたいなぁ」
それが永遠に出来なくなった口ぶりで、そう言う横顔には影が落ちて、カーテンに隠されたり。
わたくしに気づけばいつも通り――――に見せかけているスマイル。気怠そうに声を弾ませながら、あそこに行きたいあれがしたい、と。
楽しそうに。
寂しそうに。
切実に。
けれどわたくしはどうしても胸騒ぎが、ここからあなたを出してはいけないと。
ぼろぼろと涙を流すあなたにわたくしはとても後ろめたい。
「……そろそろ暑くなってきましたから、紫蘇ジュース、どうですか?」
「うん」
「メロンフロート好きだったでしょう?」
「うん。ありがと」
そうやって少しずつ、少しずつ。
なんだか、国語の教科書が、道徳が、時間の無駄だったとわたくしを罵るように。
#モンシロチョウ