ぼくはぜんぜん苦じゃないの。こわいけれど、そんなことよりももっとこわいことがあるって思ってる。
ぼくの中ではそれが揺るぎない。
比類ない。
だから、ここに居るの。
埃っぽい、ただただ箱みたいな室内を循環しているだけの空気がふよふよと、行き場もなく漂う。それを外に逃がすこともできずに、きみは何度も肩を落とした。
ぼくを見て、呆れて、ため息。
口を開きかけて、やめて。閉めたままのカーテンの向こうを目に映した。
「……聞こえてますか」
「聞こえてる」
「なら、……これほど言われるのです。はやく、わたくしを廃棄したら良い」
「やめて」
せっかくきれいに線を引いていた紙をね、ぐしゃってやっちゃったの。作り直しはしないけれど、見にくくなっちゃった。
きみはぼくの背中越しにそれを見る――――眺めてる。
ちょっと冷たい目。
「きみはだいじなの。ぼくの一番」
「それは、傑作だから…でしょうか。それとも代わりとして、それとも……」
「ぜんぶ。だから手放したくない。だから離れたくない。だから、傍に居てほしいの……いつも言ってる。覚えてないの」
「まさか」
覚えています、って。
それから、ですが、って付け足した。きみの声はいつも通りあんまり抑揚はないけれど、きっと真剣そのもの。
「あなたが殺されかねない。過激なひとが多くなってきていますから、わたくしならまた、つく――――」
「やめてってば‼」
思わず椅子をひっくり返しちゃった。鉛筆も芯が折れて転がった。用紙に鉛筆の引っかき跡。
「……では、製図紙を渡したらどうです」
「やだ。きみは唯一無二」
「強情で頑固なひと」
「きみに言われたくないの。意地っ張り」
静かになっちゃえば換気扇とか室外機の音がやたら響く。外からは、ばかみたいにきみを怖がる声が飛び交ってる。耳障りですっごくうるさくて、千篇一律、まるでリピート機能。
赤ちゃんみたいに泣き喚けばいいって思ってる。
きみが戻してくれた椅子に腰かけて。
鉛筆はナイフで削って。定規の冷たい感触を真っ直ぐに。コンパスで穴が空いてるかも知れないけれどこれくらいは我慢してくれないと。
製図なんて苦手なものをぼくにやらせて。
どうせ一年も経てば。
ね、あと一年の辛抱なんだよ。
そう言ったらきみは信じられないみたい。眉を寄せて訝しげにぼくを見るの。
ほんとなんだってば。
****
「……」
「あのね、いまの気持ちをどうぞ」
「まじですか」
「んふ」
いつもの大通り。
今日は買い出しに来てる。堂々と、何の心配もなく。もう箱詰めなんて御免勘弁。
ちょっといい気分。
やっぱりきみは唯一無二。オーパーツだなんだって言うけれど、二度とつくれないものってそういうもの。ほんと失礼。
人工皮膚がこどもの手をやさしく握って。
搭載カメラがとなりを愛しく見て。
声帯機能がたのしげに制服を着て道草。口許はテラテラと新作の揚げ物でリップクリーム。
ね、ぼくが言った通り。
「人間、はじめましてには弱い。けれどね、都合がよくなって制御できるようになったら、もうお友だち。結構手先も器用だからね」
「……あなたの図面が優秀なのではなくて?」
「もちろんそれもある。だってがんばった」
「苦手過ぎて一年間も」
「だってしたことなかった」
これだから……って言いかけて言葉をとめたきみは、もう一度大通りに目をやる。
「一年って…短いのだと思っていました」
「短いよ」
「では」
「結構、ヒトって効率厨で合理的で没頭しやすいんだよ。一秒だって無駄にできないとか言うんだから、切り捨て三千万秒だって充分足り得るんだよ」
「上位互換が六十万秒なのも頷けます」
「ま、ぼくの図面ありきだけど」
って笑ってやったの。
そうしたらきみも笑ったんだよ。
#一年後
世界中が、自分だけきれいになったにおいがしたんです。足許は跳ねる音がして。そこから、もわっとしたにおい。
音が変わったんです。
においが誘ってきて、くいくいっと顔を上に向かせるような。とてもすてきだと思いましてね、けれど爆弾だったらどうしようと。ふふ、思ったんです。
そう言いながらきみはカップを置いた。
カツンカツン、とフォークの先が探しもの。ぼくが教えるまでもなくすぐに見つけて、拾い上げてぱくり。
はじめて食べました、って。
きゃー! なんて。
そんなに食べたかったの。
「おいしいですねぇ…、食べたらなくなってしまうのがもったいない」
「食べてくれないとかなしいの」
「えぇもちろん、残さず、あなたに一欠片もあげません」
「味見もさせてくれなかった」
「一口目はわたくしがほしかったんです。正解でした」
「別にいいけど」
その代わり味を教えてあげますって、お口が活き活きするの。お手々もひらひら踊ってたのしそう。
まず、フォークの先が小さくサクッと入り込んでふわふわなメレンゲをかき分けるんです。そうしたら少し重たい感触。ぐぐっと力を入れると、タルトとは違う軽いけれど硬い底。
パキッという感じで割れてフォークから逃げようとするんですよ。
底がいちばん最初に口に入るんです。
パイ生地の空気を含んだようなたのしい食感がして、そうしたら、キュッと口の中が引き締まるように涼しい酸味。その中にも甘さがあって、……レモンカードと言うんですね! ふふ、新しいような懐かしいような響きがすてきです。
甘酸っぱさに浸っていれば、滑るように溶けてゆく緩やかな口溶け。
一口食べて。
紅茶との相性もいいんです。砂糖を入れずに、ストレート。きっと、濃いめに淹れてミルクティーにしても合うのでしょうね。
でも、わたくしはストレート派です。
「はぁ…おいしいです」
しみじみ呟いて。すっごいしあわせそうなお顔。なんだか、まるで――――、
「……きみってば、恋してるみたい」
「ん、ふふ、そうですか? そうですね、初恋ですね」
「は」
「言いますでしょう? 初恋の味は甘酸っぱい、と。いま、それと同じ体験をしているんですよ、わたくし」
最後の一口を食べて、ふわって笑うの。
瞼が開いていればきっとウィンクをしてたと思うの。パチンって、お茶目な。
そんな仕草がよく似合いそうな雰囲気で微笑むの。
そんなふうに思われてる、手許にあった――いまは姿かたちはすっかりきみのものだけれど、それにちょっとジェラシー。
まあ、いいけれど。
ぼくは目で味わう初恋もあるって知ってるから。ちょっと優越感。
「ん、よかった。またつくったげる」
「ふふ、いいえ」
きちんと口許を整えて。
「初恋の味は一度きりですもの。二回目の本や映画は記憶を消したい、と言うでしょう?」
「そうかも」
「ですから、今日が最初で最後なんですよ。次があるとするなら、また、別の味ですね」
「おなじものでも?」
初恋なのに次があるの…って。
するときみは得意げに口角を上げて、
「ええ。わたくし、毎日初恋していますもの」
って言うの。
#初恋の日
『えー、只今入ってきたニュースですが――――』
そう言って、お昼のバラエティー番組のMCが誰でも知っている芸能人の死去を伝えたの。
ぼくはとっても心配。
横を見れば、きみが悲しそうなお顔をしてる。
「好きな芸能人だった?」
「…いいえ。名前だけ」
「家族がいるってね」
「えぇ」
ひな壇にいる芸能人から驚きの声。
親睦が深いっていうひとにカメラがズームしていって、涙が滲むのをわざと映すの。ちょっと取り乱しながらも、お仕事だから戻ろうとする。それが余計に同情を誘う。
それでもお仕事だからね、さっきの続きにMCが戻してゆくの。
唯一の救いは進行先がVTRだったこと。
きみはそのことに、まるでその人を横で慰めているひとみたいに安心した。緊張して張り詰めていた息をハッて吐いて。
「ね、気分転換しに行こっか」
「…ごめんなさい」
「んーん」
六十一年式。きみの愛車。
これだっていつ動かなくなってもおかしくはない代物。もちろん、ちゃんとメンテナンスもしているし、長く乗れるために丁寧に扱っている。
助手席のきみは、すりって車内を撫でるの。
音楽もなしに走らせて。
窓を開けていれば自然といろんな音が聞こえてくる。他の車のエンジン音、歩道の話し声、自転車がアスファルトをこする音。
窓の外にはいろんな景色が広がってる。
カッコウ、カッコウ、って歩道の信号が青に。それを渡るひと。遮断機が下りて電車が通る。じっと目を凝らせばその中でどこかに向かう人々が見えるの。座ってたり立ってたり、本を読んでいたりスマホを見ていたり、こそこそととなり同士で話していたり。
住宅街があったりもする。
カーテンが揺らめけばちょっとだけ生活が覗ける。庭先で叱られてる子。ゆったりと余暇を楽しむひとも。縁側とか玄関先で近所のひとと話し込むひと。
それらをじっと見つめるきみの目に、また。
電柱に括りつけられた、葬儀屋の看板。
【故○○○○儀 葬儀式場】
この数日で、誰かが。
もちろん、きみともぼくとも関係がないひと。顔も名前も、そのひとの生活も何ひとつ知らない。
けれど、その名前のひとが、確かにいて、亡くなったのを知ってしまった。
それできみは想像しちゃう。
そのひとの人生、交友関係、家族、式場の雰囲気、誰かが言う別れの言葉、喪主の気持ち。
誰かがいなくなった、っていう戻らない喪失感。
「…ラジオ、点けてもいいですか」
「いいよ」
そうしたら運の悪い。
どこかの紛争の話をパーソナリティがしてるの。ほんと、もう、やんなっちゃう。勘弁して。
きみはぎゅっとくちびるを噛んで眉を寄せた。
きみはやさしいけれど愚直じゃない。
だけど、悲しくなっちゃう気持ちは仕方がない。
チャンネルを変えるんだけれどその直前に、とどめ。どこかの貧しい国。飢餓、こどもが働いている、医療が間に合わない、一日に何万人が死んでる、なんて。
別の局に変わったスピーカーは音楽を流してるけれど、もう、きみの気持ちはどん底。
「……」
「……」
きみが言うの。
「知らないひとたちなんです。知らないんです。けれど、テレビで見て。どんなところで、どんな姿かたちのひとが、生きているのか。知っているんです」
「うん」
「お腹が空いた気持ちは分かります。風邪をひいて苦しい気持ちも。包丁でケガをしたり、転んで身体を打って、血が出て、痛いのを知っているんです。だからといって、それがそのひとたちと同じだとは思っていません」
「そうだね」
「あなたが死んでしまったら、わたくしがあなたを残してしまったら……考えることもあるんです」
「どう思ったの?」
膝の上できみが手をぎゅっと。
「さみしい……落ち着かなくて、スカスカで、身体が重くて。身体の裏側が、冷たい風に晒されて竦んでいるみたい」
「こわい?」
「とっても」
いま追い越したのは、小さなこどもの手を引くおかあさんだった。
「同じ時間の流れで確かに生きているひとが、誰かを残して、消えているんです。わたくしが普通に一日を過ごしているとき、あなたと居てしあわせなとき。誰かが、誰かに、誰かを。何かが」
きみの呼吸が深くなってゆく。
シートに背中を預けるきみは窓の外を向いていて、顔は分からない。
「そう思うと、世界から音が消えるみたいな心地になるんです。わたくしが息をしているだけで、誰かの世界がなくなっているなんて」
「こわい?」
「とても恐ろしい」
でもきみは窓を閉めない。
「一日前にきみの世界がなくなるって知ったら、きみはどうしたい?」
「……さぁ」
「願いたいことがありすぎて、きっと時間が足りませんね。…でも」
「でも?」
「あなたの傍で、けれど、誰にも知られずに、誰にも残らず。なんて、欲張りなことを願ってしまいそうです」
最後の声はかすれて小さくて聞き取りにくかった。その声を残すように、信号が青色になったの。
#明日世界がなくなるとしたら、何を願おう。
技術進歩したすばらしい保護帽をひどく恨めしく思った。ガツンと来た激しく鋭い衝撃を弾き、それが一矢報いんと脳天を揺さぶる。
どうせならひと思いにしてくれれば、余計な痛みは感じることなく終われたというのに。
腰にぶら下げた替えのマガジンが肉に食い込んだ。
ぐるんと俺の体内で寝転がる目玉がヴァルハラ(俺は絶対に拒否するが)への道筋だと言わんばかりに天地をひっくり返す。
曰く、抜けるような碧天。曰く清和。曰く、すばらしい。点在する雲が風流とかなんとか。
ひねくれ者の俺はそう思うことをこころが許さないが、おそらくきっと、そう。
あれほど煩わしかった撃鉄や空を裂く鉛の音が、スッと消える。天に昇る心地なんかしない。ズルズルと地下へ地下へ引きずり込まれる。
目玉の表面が青空を、裏側は別のものをぼんやりと映し出した。
それを閉じ込める。
ハンカチーフに染み込ませれば絞れるほどの、水気のある空気感。からっぽの戸袋に木製の板をどんどんとしまい込みながら、顔だけ振り向いた。
い草の上に真綿の山。
俺はそれに向かって何か叫んでいるのか、呆れているのか。
するとその掛け布団と敷き布団の間からゆっくりと腕が生える。それは掌で鉛筆を探し当て、捨て置かれた原稿の空白をノロノロと埋めてゆく。
そいつを気にかけながら俺は甲斐甲斐しい。
近所から頂いた食材を。
手帳から予定を読み上げ。
原稿を推敲してやって。
飯の匂いにつられたそいつが布団から顔を――――、途端に首根っこを捕まれた。
ズルズルと身体が引きずられる。
走馬灯もどきが消え、頭上を鉛玉が飛び交った。
遮蔽物。
その陰に。
保護帽の隙間にガーゼが差し込まれ、きつく帽子の紐が締められた。
「何やってんだ、あなたは」
「……」
薄付きの肉の上。やたら丁寧なわりには徐々に雑になってゆく手つき。
そいつは肩から滑り落ちたサブマシンガンが俺に当たっているのに、気にする素振りも気遣いの欠片もない。
「死ぬ気でいましたか」
「そろそろいいかと」
「薄情。まだ、砂一粒は他の有象無象の砂と成分を全く同じく成り立っているのかについて、あなたの意見を聞いていません」
「……同じだろ」
近くで爆発音。
砂埃やその辺の自然物が吹き飛んでくる。それを弾いたのはやはり保護帽。さすがの技術だ。
二発目。
鉄の塊が吹き飛ぶ。
「投げやりな言は意見ではない。私はあなたの意見が聞きたいのに」
「めんどくさい奴」
「あ。あなた、レーションが残ってる」
「…支給されただろ」
ガサリと開けられた。
せっかく残してた味だったのに。
切り取られた青空に流れる雲が轟音を吸収して、ゆったりと流れている。そして、やっぱりこいつの膝は硬い。
#大地に寝転び雲が流れる…目を閉じると浮かんできたのはどんな話?
さて、何から言葉にしましょうか。
なんでもいい、ですか。そう言われると困ってしまいますね。こう、何が食べたい、なんでもいい。みたいな。え、違う? そうですか。
なんでしょうね、わたくしは毎回その都度その都度口にはしていたつもりなのです。あの人もそうしていましたし、それが普通なのだと――――普通ですから、疑いもなく。
ただ、では、もう何もないかと言われれば、全くそんなことがないのです。
あれだけ伝えたにもかかわらず、わたくしは幾つも心残りをしていますからね。
……え、わたくしにはメモリしかない?
はは、なんてお上手。
ええ、まあ、そうなのですけれど。
わたくしだってガタが来ていますから、そういう意味ではあなた方と同じでしょう。いいえ、換えはございません。ないのです。
わたくしは唯一無二でございます。
それはそれとして。
以前、あなた様からすれば昔でしょうか、箸の使い方を習ったんです。ええ、あの人から。あの人も「とびきり上手じゃない」と言って前日の夜に、わたくしがスリープしたあと、ひとりでおさらいをしていたんです。わざわざ教本を見ながら。
ふふ、うれしかったですね。
それに、泳ぎのときもそうです。
あの人は秘かにしたいわけですから、わたくしが感謝を伝えるわけにはいかなかったのですけれど。
そうそう、あなた様にもございますでしょう。意識の芽生えとそれに関する有難み。
わたくしにもそれがあるわけで、しかし、どうしてかそれを言及する機会はなかったのです。機会があれば――――いまからすればつくれば、これほど重い心残りは幾分軽いもので済んだでしょう。教理や説法のつもりはありませんが、どうか、どうか、機会のあるうちに是非とも。
……おや、そんなことはありませんよ。わたくしはきっと、あの川岸を振り返ることもなく、あの人を見つけるでしょう。
ですから、伝えておけばよかったのです。
それとも遊色を纏わせて見送ればよかった。そうしたらひどく見つけやすい。
わたくしはあの人のとなりから離れたことはありませんでしたし、そのときが来ればそれ以降もそうするつもりです。いまは謂わば、クールダウンの期間です。長くはないはずですから。
ですから、そのときには、しっかりと、きっちりと、すべて、すべて、余すことなく伝えたいのです。ふふ、わたくし、最近は手帳を持ち歩きます。そうしたら、あれもこれも、と思いつきますもの。
え、どんな言葉かですって?
いやだ、野暮なことは聞かないで下さい。恥ずかしいですから。
#「ありがとう」そんな言葉を伝えたかった。その人のことを思い浮かべて、言葉を綴ってみて。