「今日はまだ起きてらっしゃいませんね」って、きみを担当する看護師さんが言ったの。珍しいなぁって思ったけれど、どうやら最近はそういうことが多いみたい。
最近、きみは夜が遅いって。
ぼくが帰ってから、お夕食、消灯時間が過ぎても。早く寝なかったツケが今日表れたみたいで、朝ごはんもまだって。
この個室には随分とお世話になっているはずなのに、きみの私物は少ない。
ここに来たての頃は、きみは「どうせきっと忘れてしまうのですから」ってほとんどをぼくの家に置いてった。おかげでぼくは毎日、鮮明に思い出す。
白い清潔なシーツの上で寝息をたてるきみは穏やかで、どんなときも変わらない表情。たまに眉間にしわができるけれど、くいくいって指で伸ばしてやる。睡眠が深いきみは起きないから、やりたい放題……なんて。
……ずっと気になってた。ベッドテーブル。寝るときは片しておくのに。そのまま。上には手帳が。
いままではなかったそれに、疑問とこころがざわざわってする心地。
人の手帳って勝手に見るのだめ。
分かってる。だから、ぎゅって目を瞑って。
カタンッってパイプ椅子が鳴ったのにだって、きゅってこころの模様が真ん中に寄るの。
****
薄い意識がようやく浮上して、シナプスがぴくっと瞼を動かした気配がした。暗闇を感じる前にもう、白い天井と遠くからは神経をチクチクと刺激するにおい。
知らない。
分からない。
そういう感情。
事実、何も思い出せない。不思議と恐怖とか焦りはなくて、どうしてそれに安心するのかも分からないけれど。
上体を起こして。
ぼーっと。
ふと視線を落とせばベッドの上にテーブルがあり、その上に手帳が。
表紙には「あなたへ」と。
あなた、とは誰を指すのか。しかし、この一室には自分ひとり。表紙の文字は天地が正しくこちらを向いていた。
だからこのあなた、というのを手帳の目の前にいる自分と仮定してしまおう。
ぺらり、とめくる。
箇条書きのそれは、情報だった。
自分が何者でここがどこでなぜここにいる必要があるのか、割と詳細に。
同じ内容が、何ページも。日付は違うから、きっと毎日驚きながら綴ったのでしょうね。カレンダーのバツ印と日付を照らし合わせれば、このページが昨日のものだと分かった。
同じようにわたくしについて。
それから――――重要、と何度も強調された箇条。そこにはわたくしではない、別の人物の存在が記されて。それがもう、詳細に詳らかに。
最後の行には『手の甲に、出来事を会話を忘れないうちに手帳に書き記しなさいと書いておくこと』と。昨日のわたくから今日のわたくしへ、そう指示されていた。
不思議な気分。
点々と色を置かれてそれをマーブル状に混ぜられているような。
自分のものじゃない文字たち。
知らないのに憶えているような、デジャヴとも言えばいいのでしょうか。夢を見たときのようでそうでないような、不思議な感覚。
この一室もそう。
ベッドの横にあるチェストの上の花瓶だとか、知らないキャラクターのぬいぐるみだとか、ベッド横のパイプ椅子とか。
わたくしの知らない存在が確かに肩を並べて、手を握っていてくれる。それを訴えかけて証明してくれるものたち。
「お早う」
「……はい」
入室の許可を求める声に返事を。
スー……と引き戸が開いて、その姿を見て、本当にシナプスがつながるような。ハッと。こころがぐるぐると、どんどん流れ込んでくる。
寂しそうにスマイルを浮かべるあなたに、あなたの名前を呼んでみた。驚くほど口馴染みがいい。すると、あなたはベッド横で膝をぶつけて。パイプ椅子を蹴飛ばす勢いで、床に膝を立てた。
ふふ、と笑みがこぼれてしまう。
思い出したわけではないんです、と告げれば、やっぱり悲しそうに。けれど、わたくしが広げていた手帳と手の甲を見て、目を見開いた。
ころころと顔の模様が変わってゆく。
晴れだったり雨が降ったり。
「う、……ぐすっ、…きみってばそういうところ、ほんと、そういうところ……っ!」
「あらぁ」
「あら、じゃあないよぉ! 知らない人に抱きつかれちゃうよ!!」
「どうぞ。あなたはわたくしのだいじなひと、もう分かっていますから」
「ゔぁあっ」
腕を回したあなたの背は少し冷えていた。
けれど、今日はあたたかい一日になるのだろうと、天気予報などなくても分かってしまった。
分かってしまったのです。
#今日の心模様
ダイニングテーブルは小さめ。
ちょっと狭くてお料理が載らないときもあるけれど、きみの手はすぐに取れるしきみもぼくの存在を確認できるから、とっても気に入ってる。……ちょっと狭いけど。
サクッて食感。
バターの香りが広がって、鼻を抜ける頃にはサクサクはとろとろになって消えちゃう。コーヒーミルクなんていっしょに飲んだら、もうしあわせ満点。
きみってばほんと、何でもできるんだから。
ふふ、って空気といっしょに笑う声。
きっときみは気づいてない。
ぼくは気づいちゃった。
「あのね、そんなに見つめられるとね、ぼくに穴が開いちゃうよ」
「おや、目は開けておりませんよ?」
「きみはそれがデフォでしょ? だからね、見つめられてるも同じ」
「あらぁ」
座ったままのきみの手がぼくの顔に触れる。
ぺたぺたさわさわ。ぼくの顔の上で踊るきみの手がくすぐったくて、笑っちゃう。
眉根を寄せて口はきゅ、って結んで。
すっごい真剣。
されるがままに。
「あら大変」
「なあに」
「あなた、お顔にクッキーがついていますよ」
「ゔぁ⁉」
「ふふ、その下に穴を隠しているのですか?」
「ちがっ……、もう!」
カァッと顔が赤くなる。
そしたらね、きみってば手の甲で頬を撫でてくるの。それでまたくすくす笑う。こらえ切れなくなったのか、ぶわっと花が咲くようにお顔を緩めて。
「あはは、そんなに照れなくても。お顔が熱くなって、茹だって。ふふ、あなたのお顔は聞いてても触ってもころころ変わってすてきですよ」
「もう! もう、からかうのなし!」
「本当のことを言っているだけですよ?」
「ゔぁあ! きみってばたまにいじめっ子!」
「あらぁ」
さっさときみの手をどけて、ナフキンで口を拭う。そしたら欠片もついてなかったの!
死角!
不覚!
きみってば本当。今日はいじめっ子の気分なの⁉
ぼくだってきみを穴が開くまで見つめてやるんだから、って思うんだけれど。
そんなことお見通し。
きみは涼しい顔をしてきれいな所作で、まるで優雅にアフタヌーンティー。きみは人一倍、自分に分からないところをだいじにする。それがまるで当たり前のきみの事象みたいに。
だからね、仕方ないんだよ。
ぼくがきみを前にしてあたふた百面相しちゃうのも、きみを見つめててそれを無意識に分かっているきみに目を泳がせちゃうのも。
今度はきみの手をあたふたさせてやるんだから!
#見つめられると
きみが得意なのは熱々なクラムチャウダー。
隠し味はオイスターソースとめんつゆなんです。貝類の旨味を表現できるんですよ。ってエプロンの紐を見せながら振り返るの。
もちろん、ぼくにだって得意料理はある。
なんてったって、きみのために練習したしレパートリーも増やしたんだから。
大事な日にきみはクラムチャウダーをつくってくれる。とってもおいしい。
今日という日を、きみと過ごすためにぼく、いろいろと頑張ったんだからね、そういうご褒美があってもいいと思うの。
小さめなダイニングテーブル。
きみとぼくとの距離が縮まるから、って。鍋敷きを忘れて焦がしたり、お茶の入ったガラス製のピッチャーを落として凸凹だったり。
あのね、ぼくはね、この傷たちの由来をぜんぶ覚えてるんだよ。
「エッ、わたくしの失敗をぜんぶ?」
「だめ?」
「ヒトとして忘却機能が働いていないのは由々しき問題ですよ?」
「んふ、意図的に繰り返して覚えるのは、学生のうちに練習してきたでしょ?」
なんて。
だってぼくはね、忘れたくないんだよ。
だんだんと日が翳ってきた。
今日はきみとずっと一緒にいられるのがうれしい。当たり前じゃなくなっちゃったけど、それが戻ってきたみたいで。
きみとうれしいもたのしいも共有してね、そうたって生きてゆくんですねってきみは笑顔。
そうだね、って。
そう言った瞬間だったの。
バチンッ‼――――きみがね、ぼくの頬をはたいたのは。
笑顔だったきみがまばたきをした瞬間、顔が表情が変わった。ぼくを見て、捉えて、怯えた。それから恐怖が怒りに変わってね。
人ってそういう生き物。
怖いと鼓舞して大きくなるの。
「誰ですあなた」
「……うん」
「どこです、ここは」
「あのね、ぼくの家だよ」
「わたくしはどうしてここに」
きみが座っていた椅子がガタンッて音を立ててひっくり返ってね、そのまま。キッとぼくを睨むきみは荷物も持たない――もしかしたら忘れてるのかも。
どっちにしろ、いまのきみにぼくのことなんか眼中にもなくて。タツノオトシゴもその卵も、ぜんぶ初期化されちゃったみたい。
ご馳走を残して。
「食べないの」
「食べられるわけがないでしょう!」
家から出て行っちゃった。
キッチンにはきみがつくったクラムチャウダー。テーブルにはぼくがつくった最後の一品。きみが好きなデザートだったのに。
ぼくはね、もうちょっとだけ一緒にいたかった。
だって、昨日は一日一緒だったから。予行練習だと思ったの。きみは本番に強かったでしょ。
なのに。
なのにこんなの。
ひどいと思わない? ぼくの気持ちはなかったことにされちゃう。せめて、きみが思い出してくれたらちょっとは救われるのに。
「……ひぐっ、ぅえ……ぐす、うぅ」
ぼたぼた、テーブルに新しい跡。
追いかけて病室に連れてかなきゃいけないのに、どうしても動けないの。
せっかくの今日という日。
あのね、ちょっとくらいきみを恨んだっていいでしょ? こんなひどいことするきみなんて、好きじゃないのに。何回、何回、ぼくはきみに傷つけられたと思う?
何回、きみを好きじゃないって思ったと思う?
何回、やっぱり惚れちゃうって。
何回、何回、何回も、好きじゃないきみを好きになって追いかけて、きみに嫌われる。
きみってばひどい。
きみはぼくのことを本気で嫌うときがあるのに。
ぼくは本気で嫌いになり損ねる。ぼくを心底嫌うきみなんて好きじゃないのに、次にはね、好きになってるの。きみしかいないんだ、って。
「……追いかけなきゃ」
ギイィ、椅子はいやな音。
重い足取りはだんだんと急ぐの。はやく追いつかなきゃ。どんなに嫌がられても腕を掴まないと。
でもね、でも、まだ、きみのこと好きじゃないのに。なのに――――ほんと、きみってばひどいよ。
#好きじゃないのに
どんよりとした雲井。
お天気キャスターが言っていた「ところにより雨」というのは、どれほど当たるのだろうか。ところ、はどこになるのだろう。
一応に、折り畳みではなくおニューの傘を。
広げたら新鮮な色にこころが弾むだろう、とねがって。
すると普段通りのルートと営業のために出た先では、一度も雨に降られることもなく。戻ってきたエントランスは艶をのせて、会社前のアスファルトは色を濃くしていた。
となりで同僚が、
「雨に当たらずにすんでよかった」
そう言って。
そうですね、とは返したけれど。せっかくの傘を広げる機会を逃したよう。
珍しいことに、わたくしのほうが早くに帰宅が叶った。いつもはあなたに任せきりな夜の支度をしてしまおう、そう意気込んでいればいつの間にか雨音がBGMになっていた。
お夕飯も湯船のお湯だって準備ができて。
ザザザ、壁を隔てて遠くで聞こえる速さ。
タタタ、剥き出しのベランダを打つ透明な筋と、ぴちゃん、跳ねる水玉の音。
なんだか落ち着かない気分になってくる。
窓の外の灯りは水色の膜の中でぼんやりと強く光を放っていた。あそこのどれかにまだいるのかしら。と時計を見上げればもう九時前。
遅い日もあるでしょう。
……せっかくあたたかいスープをつくったけれど、すっかり冷めて。ラップをしてから冷蔵庫に。張ったお湯だって、あなたが一息ついた姿を見る前に入ることに。
狭くないはずの湯船。
ちゃぷん、と溜まった透明色が波立った。
「紅茶って眠気覚ましになるのでしたっけ」
いつもより濃い目に淹れた濃い赤褐色。
ミルクも砂糖も入れずに優雅な香りを漂わせるそれは、果たしてわたくしが望むだけの働きをしてくれるのか。
ミルクとか入れたら効果は薄れるのでしょうか。
ふーっと意味もなく息を吹きかけて。
カチッ、カチッ、と時計が秒針を進める音だけが響く一室。いつもなら聞こえてくるものはひとつもない。
明日に響いてもよくない。
そろそろベッドに入らなければ。このまま眠ってしまったほうがいいのかも知れない。明日になればあなたはきっと居るだろう。
それはそれで寂しい気もするけれど。
そろりとベッドに横になった途端、裏切り者がじわじわと身体を浸食してゆく。
うつらうつら。
瞼が閉じてしまう――――ガッチャン。
控えめな靴音。
わたくしも息を殺して。
「おかえりなさい」
「ゔあ⁉ びっくりした。ごめんね、起こしたでしょ」
「いいえ。起こして下さってよかった」
パチンッと点いた照明。
それから驚き。
「びしょ濡れじゃないですか!」
「あーうん。あのね、タオル持ってきてくれる?」
「お湯もあたためますから!」
いつものふんわりとした髪がぺたりと肌に貼り付いて、スーツもあなたを離さない。そんなふうに見えるほど重たく見える。ざあっと水分を含んで色を変えたスーツ。
雨に濡れて。
ほかほかと湯気をまといながら浴室から出てきたあなたに、あたため直したお夕飯を。
おかずやお米は水分を含んでべちゃってしまったけれど、あなたはおいしいと言ってくれる。スープも本当ならできたてのほうがおいしい。
それを残念に思いながら。
「はぁ」
「落ち着きましたか?」
「うん。ありがと」
「よかった。随分雨に降られたんですねぇ」
「あのね、ぼくの上だけずぅーっと雨がついてきたの。そんなに降らないでしょ、って思って折り畳みの傘持ってったんだけどぜんぜんだめ。ぼくのこと守ってくれないんだもの」
「あらぁ……ところにより雨がすべてあなたのところに行ってしまったんですね」
「きみは大丈夫だった? 重たい雨だったけど」
ふと窓の外の音を見る。
「わたくしは、ずっと曇りでしたから。雨なんて一滴も」
「そっか。うん、ならよかった」
「少しでもわたくしのほうに降って下さればよかったんですけれど」
「んふ、ぼくはそう思わないよ」
あんなに沈んで青色だった顔が緩む。
なんていじらしいひと。あなたのおかげで、わたくしはこうして帰りを待って、あなたをあたためられたのですね。
悲しいようなうれしいような。
まさに、ところにより雨。
#ところにより雨
きっかりその時間に間に合うように、きみは慣れた手つきで準備を始める。ぼくがきみの様子を見に来たときには、すっかり整ったときだった。
それを確かめる仕草。
でもぼくはそういう気分じゃなかったの。
「どうしたの、そんなにめかし込んで」
「どうですか?」
きみはきっとぼくのそういうところに敏感。それでいて、少しだけ意地が悪い性格をしているから。
そんなことを訊くんでしょ。
だからね、ぼくはやさしいから応えてあげるの。
「いつもどおり、だよ」
「それじゃあ困ります」
「ん-、それ以上は難しいよって意味。ぼく、手直しすることなんていつもないでしょ?」
「だといいんですけれど」
「何ならおとなりさんに訊いてみる? きみがだいじにする、第三者」
「いじわるなひと。いいです。あなたを信用することにします。光栄でしょう?」
「んふ、きみがそう思うなら」
むくれた顔。
そんなきみのお顔の横に見つけた。近寄って、声をひとつだけかけて、それから手を伸ばす。ビクッてするきみに、ぼくはいじわるだから笑顔になっちゃうの。
「これ、ぼくが選んだやつ」
「耳元がさみしいと思ったんです。……耳朶に正確ですよね?」
「うん。ぼくの思い描いたとおりにね。あ、ねえ、ぼくはどう? きみの腕を置けそう?」
「うーん」
遊ぶようにきみのお手々がぺたぺた。
ぼく以外にはしないでね、ってみんなのために言ってるけれど、きみは人、生物、動物、問わず笑顔で目を惹く雰囲気を出すから。
……ほんとに分かってるの?
「あ。この手触り」
「そうだよ、きみが選んでくれたやつ。いい流れでしょ」
「ええ。我ながら。自惚れますね」
ぼく、きみのそういうところ、とってもいいと思うの。見ていて気持ちがいい。
月末に――時間が予定通りなら、きみはいつもここに来る。ぼくが贈った匂いも身につけず、清潔に気を遣って。
最初はあんなに怖がっていたのに。
いまでは随分入れ込んで、虜。
しゃがんで膝をついてスタンバイ。
きっちりかっちり。きみも向こうも慣れてシンパシーみたいなものを持っている気がする。
きみがじっと待っていれば、そう間も開けずにその子は来る。
飛び込まずにそっと腕に収まるのだから、とびきり賢い子。ぼくも見ていて安心。
その人々を虜にする毛にきみの手は埋まる。
わしゃわしゃ撫でたり、きみが最初は驚愕していたエサをあげたり。それはそれは満喫。もちろん、ぼくも思う存分ね。
「きゃー! いい子ですねぇ、かわいい仔。どうして、あなたはすばらしいんでしょうか! あらぁ、おねだりですか? カーネは世渡り上手ですねぇ」
「……」
カリカリときみの掌を触る。
ぼくはガートの顎下を撫でて。……結構ね、ジェラシーなんだけれど。
店員さんに誘われながらきみは楽しそう。あのね、結構、本気で、本当にジェラシー。
帰りしな、きみはぼくの腕に頼って歩く。ひとりで歩けるくせに、そのための物をわざと忘れてくれるんだから。
何でもお見通し。
きみには叶わないし、……ぼくは人ヒト以上の働きはできないんだろうなぁ、って。
まぁ、きみもヒト以上のことはできないし、そういう意味ではぼくたちはあの子たちがだいすきなんだから、仕方がないね。
そのこころは、あっちこっちに散らばって、散らばるほど豊かだもの。
#大好きな君に