あにの川流れ

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 きみが得意なのは熱々なクラムチャウダー。
 隠し味はオイスターソースとめんつゆなんです。貝類の旨味を表現できるんですよ。ってエプロンの紐を見せながら振り返るの。
 もちろん、ぼくにだって得意料理はある。
 なんてったって、きみのために練習したしレパートリーも増やしたんだから。

 大事な日にきみはクラムチャウダーをつくってくれる。とってもおいしい。
 今日という日を、きみと過ごすためにぼく、いろいろと頑張ったんだからね、そういうご褒美があってもいいと思うの。

 小さめなダイニングテーブル。
 きみとぼくとの距離が縮まるから、って。鍋敷きを忘れて焦がしたり、お茶の入ったガラス製のピッチャーを落として凸凹だったり。
 あのね、ぼくはね、この傷たちの由来をぜんぶ覚えてるんだよ。

 「エッ、わたくしの失敗をぜんぶ?」
 「だめ?」
 「ヒトとして忘却機能が働いていないのは由々しき問題ですよ?」
 「んふ、意図的に繰り返して覚えるのは、学生のうちに練習してきたでしょ?」

 なんて。
 だってぼくはね、忘れたくないんだよ。

 だんだんと日が翳ってきた。
 今日はきみとずっと一緒にいられるのがうれしい。当たり前じゃなくなっちゃったけど、それが戻ってきたみたいで。
 きみとうれしいもたのしいも共有してね、そうたって生きてゆくんですねってきみは笑顔。

 そうだね、って。
 そう言った瞬間だったの。

 バチンッ‼――――きみがね、ぼくの頬をはたいたのは。
 笑顔だったきみがまばたきをした瞬間、顔が表情が変わった。ぼくを見て、捉えて、怯えた。それから恐怖が怒りに変わってね。
 人ってそういう生き物。
 怖いと鼓舞して大きくなるの。

 「誰ですあなた」
 「……うん」
 「どこです、ここは」
 「あのね、ぼくの家だよ」
 「わたくしはどうしてここに」

 きみが座っていた椅子がガタンッて音を立ててひっくり返ってね、そのまま。キッとぼくを睨むきみは荷物も持たない――もしかしたら忘れてるのかも。
 どっちにしろ、いまのきみにぼくのことなんか眼中にもなくて。タツノオトシゴもその卵も、ぜんぶ初期化されちゃったみたい。

 ご馳走を残して。

 「食べないの」
 「食べられるわけがないでしょう!」

 家から出て行っちゃった。
 キッチンにはきみがつくったクラムチャウダー。テーブルにはぼくがつくった最後の一品。きみが好きなデザートだったのに。

 ぼくはね、もうちょっとだけ一緒にいたかった。
 だって、昨日は一日一緒だったから。予行練習だと思ったの。きみは本番に強かったでしょ。
 なのに。
 なのにこんなの。
 ひどいと思わない? ぼくの気持ちはなかったことにされちゃう。せめて、きみが思い出してくれたらちょっとは救われるのに。

 「……ひぐっ、ぅえ……ぐす、うぅ」

 ぼたぼた、テーブルに新しい跡。
 追いかけて病室に連れてかなきゃいけないのに、どうしても動けないの。

 せっかくの今日という日。
 あのね、ちょっとくらいきみを恨んだっていいでしょ? こんなひどいことするきみなんて、好きじゃないのに。何回、何回、ぼくはきみに傷つけられたと思う?
 何回、きみを好きじゃないって思ったと思う?
 何回、やっぱり惚れちゃうって。
 何回、何回、何回も、好きじゃないきみを好きになって追いかけて、きみに嫌われる。

 きみってばひどい。
 きみはぼくのことを本気で嫌うときがあるのに。
 ぼくは本気で嫌いになり損ねる。ぼくを心底嫌うきみなんて好きじゃないのに、次にはね、好きになってるの。きみしかいないんだ、って。

 「……追いかけなきゃ」

 ギイィ、椅子はいやな音。
 重い足取りはだんだんと急ぐの。はやく追いつかなきゃ。どんなに嫌がられても腕を掴まないと。

 でもね、でも、まだ、きみのこと好きじゃないのに。なのに――――ほんと、きみってばひどいよ。





#好きじゃないのに



3/25/2023, 10:06:37 PM