どんよりとした雲井。
お天気キャスターが言っていた「ところにより雨」というのは、どれほど当たるのだろうか。ところ、はどこになるのだろう。
一応に、折り畳みではなくおニューの傘を。
広げたら新鮮な色にこころが弾むだろう、とねがって。
すると普段通りのルートと営業のために出た先では、一度も雨に降られることもなく。戻ってきたエントランスは艶をのせて、会社前のアスファルトは色を濃くしていた。
となりで同僚が、
「雨に当たらずにすんでよかった」
そう言って。
そうですね、とは返したけれど。せっかくの傘を広げる機会を逃したよう。
珍しいことに、わたくしのほうが早くに帰宅が叶った。いつもはあなたに任せきりな夜の支度をしてしまおう、そう意気込んでいればいつの間にか雨音がBGMになっていた。
お夕飯も湯船のお湯だって準備ができて。
ザザザ、壁を隔てて遠くで聞こえる速さ。
タタタ、剥き出しのベランダを打つ透明な筋と、ぴちゃん、跳ねる水玉の音。
なんだか落ち着かない気分になってくる。
窓の外の灯りは水色の膜の中でぼんやりと強く光を放っていた。あそこのどれかにまだいるのかしら。と時計を見上げればもう九時前。
遅い日もあるでしょう。
……せっかくあたたかいスープをつくったけれど、すっかり冷めて。ラップをしてから冷蔵庫に。張ったお湯だって、あなたが一息ついた姿を見る前に入ることに。
狭くないはずの湯船。
ちゃぷん、と溜まった透明色が波立った。
「紅茶って眠気覚ましになるのでしたっけ」
いつもより濃い目に淹れた濃い赤褐色。
ミルクも砂糖も入れずに優雅な香りを漂わせるそれは、果たしてわたくしが望むだけの働きをしてくれるのか。
ミルクとか入れたら効果は薄れるのでしょうか。
ふーっと意味もなく息を吹きかけて。
カチッ、カチッ、と時計が秒針を進める音だけが響く一室。いつもなら聞こえてくるものはひとつもない。
明日に響いてもよくない。
そろそろベッドに入らなければ。このまま眠ってしまったほうがいいのかも知れない。明日になればあなたはきっと居るだろう。
それはそれで寂しい気もするけれど。
そろりとベッドに横になった途端、裏切り者がじわじわと身体を浸食してゆく。
うつらうつら。
瞼が閉じてしまう――――ガッチャン。
控えめな靴音。
わたくしも息を殺して。
「おかえりなさい」
「ゔあ⁉ びっくりした。ごめんね、起こしたでしょ」
「いいえ。起こして下さってよかった」
パチンッと点いた照明。
それから驚き。
「びしょ濡れじゃないですか!」
「あーうん。あのね、タオル持ってきてくれる?」
「お湯もあたためますから!」
いつものふんわりとした髪がぺたりと肌に貼り付いて、スーツもあなたを離さない。そんなふうに見えるほど重たく見える。ざあっと水分を含んで色を変えたスーツ。
雨に濡れて。
ほかほかと湯気をまといながら浴室から出てきたあなたに、あたため直したお夕飯を。
おかずやお米は水分を含んでべちゃってしまったけれど、あなたはおいしいと言ってくれる。スープも本当ならできたてのほうがおいしい。
それを残念に思いながら。
「はぁ」
「落ち着きましたか?」
「うん。ありがと」
「よかった。随分雨に降られたんですねぇ」
「あのね、ぼくの上だけずぅーっと雨がついてきたの。そんなに降らないでしょ、って思って折り畳みの傘持ってったんだけどぜんぜんだめ。ぼくのこと守ってくれないんだもの」
「あらぁ……ところにより雨がすべてあなたのところに行ってしまったんですね」
「きみは大丈夫だった? 重たい雨だったけど」
ふと窓の外の音を見る。
「わたくしは、ずっと曇りでしたから。雨なんて一滴も」
「そっか。うん、ならよかった」
「少しでもわたくしのほうに降って下さればよかったんですけれど」
「んふ、ぼくはそう思わないよ」
あんなに沈んで青色だった顔が緩む。
なんていじらしいひと。あなたのおかげで、わたくしはこうして帰りを待って、あなたをあたためられたのですね。
悲しいようなうれしいような。
まさに、ところにより雨。
#ところにより雨
3/25/2023, 4:58:47 AM