冬麗らか。
参道の屋台が少しずつ数を減らしてゆき、玉砂利も喧噪から遠のいた。時折しゃらしゃらと誰ぞの裾を汚している音がするだけ。
小寒らしくない日和に、吾が小さき主は、こっくりこっくりと舟を漕いでおられる。縁側でちょんと正座を崩さぬまま、綺羅の装束が天日干しされて。
銀糸の御髪が光をまとってゆく。
頬はりんごのごとく。
それでも偶に吹くやわらかくも鋭い風に、びくんっと肩を揺らして。
「床を整えましょうか」
「……んゃ、寝てまふぇん」
「では、午睡をされてはいかがでしょうか」
「眠くないれす!」
「ですが」
「お目々を閉じてるだけです……、眠ってませんもん」
薄く開いた目。
ぽやぽやと薄い意識。
どう見ても微睡んでいるようにしか見えないのだが。小さき主が「眠っていない」と言うのだから、……そうなのだろう。
少し後ろで座し、頭を打ち付けぬよう見守るのが吾が務め。
名も知らぬ小鳥らが、ツンツンと美しい鳴声を響かせている。細い枝を渡るたびに、さらさらと雪が粉のように落ちていった。
ぼとりとした塊りは積もっていた白雪に穴を空け、その上にまた落ちて。
ぢゅ、ぢゅ、と雪が融けてゆく。
今夜はまた冷え込む。明日には足許に氷が張ることだろう。
数枚の障子がカタンカタン、と音を立てた。さわさわと緩い風。障子の薄い和紙に透けて、畳みが光を帯びている。
「ふふ」
小さな笑い声。
見れば、小さき主がゆうらゆうら揺れながら愉しそうに日に当たって。
「どうされましたか」
「……ふふ、障子が、咲ってるんです」
「障子が、わらう、ですか」
「コトコトって。んふ、雪がおかしいんですね」
確かに、銀世界の音に障子が小突き合う音が雑じっている。
コト……コト……と。
これを咲うと言った小さき主の感受性にひどく感心させられ、その豊かさに感服する。
しばらく聴き入っていると冬晴るる世界の静寂さがより際立つ。
緑葉もなく草木も雪に埋もれ、音は少ない。
それでも豊かな音色が耳奥まで届き、するりと体内で揺蕩い消える。たまゆらの響き。融ける白雪が音を閉じ込めずにいるからだろう。
雪解けの音。
春が音をたてて自身の巡りを待って。
まるで、春が勘違いを起こしている様子。
小さき主にそう伝えようとしたところ。
ガクン、と頭を落としたかと思えば、ぐらりと小さな背が傾いた。慌てて受け止めて。
すうすう、と寝入っておられる。布団を出そうにも、吾が動けば起こしてしまいそうだ。それはあまりにも忍びない。膝に小ぶりな頭をのせ、綿の詰まった狭衣を覆うように掛けて。
麗らかを全身にまとった姿。目一杯に、すべてから愛でられているよう。
「……ははっ」
思わず口許が緩んでしまった。
#冬晴れ
ちょっとブルー、……だいぶ憂鬱。
昨日までは平気だった。けれど、積み重ねって侮れない。ちょっとずつ嫌が溜まっていって、ぜんぶが嫌! ってなる。
今朝はきみがつくってくれたごはん。
トースターでの焼き加減も分からなかったきみが、ちょっとずつ腕を上げていった、とってもすてきないっぴん。細かい野菜とウィンナー、ふわふわとろとろな卵のオムライス。ケチャップで日付を描く変な癖。
いつもどおり、やさしいきみ。
『ただいま人身事故のため、運転を見合わせております』
なんて。
せっかくきみが「きれいなものでも見に行きましょう」って連れ出してくれたのに。まわりからも不満な声。
ぐらり、ぐらり。ぼく、いまとっても元気ないから、ぼーってしちゃう。
ざわざわとした心地わるい喧噪の中で、なんだか知っているような声。思わず反応しちゃうような。けれど、ぼんやり。ずっとくぐもって聞こえるの。
ぐいッ!――――腕を引かれて。
引き戻されて。
振り向いたらきみのお顔。どうしたの、何か、嫌なことでもあったの? って訊きたくなるくらい。お顔の色もよくない。ぼくよりきみのほうが、具合よくないのかも。
だって、きみってば黙ってる。
「……」
「どうしたの?」
「……おいしいお店でも、探しに行きましょう」
どうしたんだろ。
きれいなものは、いいのかな。
歩くのが速い。ずっと腕を引っ張られて。そんなにおなか、空いてるのかな。あ、でも、いまお昼時だから混んでるかも。
静かな店内。きれい目な内装。きらびやかな従業員の制服。
でも――――
「んぅ……」
ぼく、たぶん、いま、とっても顰めっ面。もう一度運ばれてきた目の前のお料理を見て。
オムライス。
今朝もたべたのに、何だか目を惹いたから。
きみを見れば、きみも。「ん、あまりおいしくないですね」って口許を覆った。やっぱり、ぼくの味覚がおかしくなったわけじゃなかった。
このお店のオススメらしいハンバーグ定食。きみの評価は、ソースが濃くて肉も硬い。
微妙なお店。
ぼくのもそう。もそもそ。薄味だし、固焼き……どころかパサパサ。何とも言えない食感。中のご飯だって、水分が多くて。
……これなら、
「……きみがつくったほうが、おいしい」
――――カシャッ!
顔を上げたら、きみがスマホを構えてぼくに向けてた。
「え」
呆気にとられていれば、また、パシャッ! ってシャッター音。
え、うそ。
え、なんで?
「え……い、いま、撮ったの……?」
「ふふ、撮りました」
「う、うそ! なんでっ」
「こら、食事中ですよ。テーブルに乗り出さないで。あとで送って差し上げますから」
「ちがう! 消して!」
慌ててきみの席に移動して、スマホに手を伸ばす。けれど、いまのきみ、意地悪。さっさと鞄に入れて、しまっちゃうんだもん。
いまのぼく、とってもよくないお顔。
スマイルもないし、疲れてるし、……服はきみが選んだからきれいだけれど。あんまり残したくない。
なのに。
ふわ、って笑うきみ。
口許を隠して。
「わたくしの料理がおいしいと言ってくれたお顔が、あまりにも素直で。つい、残しておきたくなってしまって。ふふ、嬉しいですねぇ」
「……ぼくはうれしくない」
「そう言わないで」
「……じゃあね、夜もきみのごはんがいい。つくって。ぼくをうれしい、ってさせて」
「いいですよ。腕によりをかけましょう!」
「……んふ、たのしみにしとく」
ちょっとだけ、こころが、ほわぁってするの。きみのお顔を見てたら余計に。
不思議なことにね。
#幸せとは
「随分、山を登るんですね」
ブロロロロ……、時折危うい音を鳴らしながら黄色のレトロカーがそれなりの勾配を登ってゆく。車検はまだ先だが、そろそろメンテナンス時期かも知れない。
のっぺりとした闇が車を包んで、どこまでもしがみついてきて。
運転席で片手でハンドルを操作するあなたは、それでも鼻歌を口ずさんで楽しそうに。ヘッドライトが照らす道路の形を追ってゆく。前を走る車の排気ガスが白く広がって。
「あのね、海を見下ろして見るの。ぼく、ちゃんと調べてきたんだから。きっとすっごくきれい。期待してて」
「ええ。ちょうど晴れるようですし。星もきれいですよ」
「んふ、計画通り」
にひ、と笑って。
開けた場所に出れば大きな駐車場。赤い誘導灯がスッ、スッ、と手際よく車をさばいてゆくのはすばらしい仕事ぶり。
駐車場を埋めるほどの台数が、もくもくと白い煙をはいて朝を待っていた。
飽いている隙間を埋めて。
キーを抜いたあなたはくるりと整頓された車列を見回した。
「結構、みんな、考えてること同じ」
「そんなものですよ」
「ふぅん。ぼく、トイレ行くけどどうする?」
「あ、わたくしも行きます」
息が真っ白な朝凍み。やはり考えていることは同じで、ようやく到着したばかりの人たちで列が為されている。
隣接した売店は少し暑いくらいに暖房が効いていた。暖をとるために入り込んだけれども、ただただ冷やかすだけでは居心地がよくない。
あたたかい海老のスープを。
タンブラーに入ったそれを傾けて、小さな飲み口から流れてきた熱々。「あちっ」とあなたは首を竦める。相変わらずの猫舌。おかしくて笑ってしまう。ぶすっとした顔で訴えてくるから。
だんだんと星が逃げてゆく。
海岸の展望台の縁には人が殺到していた。いち早くスマホを掲げて、その瞬間を逃さぬと。
塩辛くてカイロ代わりになったスープのタンブラー。このあとどうやって飲もうかと考えていると、となりであなたが唇を引き結んでいる。見れば、コートの下は心もとない衣服。
「あなたそんな薄着で!」
「ずびっ……だって、出してたダウン、取り違えたから……カイロあるから、へいき」
「そんなわけないでしょう!」
タンブラーを持たせて、わたくしのマフラーを鼻下が隠れるように巻いてやって。頬が冷えて、少し顔色も青い。
手のひらからわたくしの体温を渡す。
風邪を引かなければいいけれど。
「……ありがと」
「売店でアウターが売っていればよかったんですけれど……」
「うん。……風邪引かないように気をつける」
へら、と笑うあなた。
気をつけると言ったって……。
周囲がざわざわと浮足立ってきた。
気づけばすっかりと白んできている。どおりで顔色が分かるわけだ。気が気ではないけれど、あなたがせっかく連れてきてくれたから。
肩を寄せて。
「ねえ、出てきた」
「見えていますよ」
雲の縁が光を帯びてきた。
赤色のような、黄色が滲むような、橙色の光線。あたりの色を白く取り上げて。ゆっくりとその存在、威厳を比類なきまでに。
毎日見ているはずなのに目が離せなくて。
息をのんで、あなたのことが急にさらに特別愛おしくなって。いままでが白黒だけの世界だったかのように、美しいだなんて。まるでわたくしがメリーになったよう。
「……きれい」
「よかった。ぼくもきれい、って思うよ」
とん、と肩が触れ合う。
目を細めたあなたの、とびきりの笑顔。肌に生命が透けて。
ああ、あなたはわたくしのとなりで生きている――――そう、実感して、確認して、わたくしはひどく満たされてゆく。
#日の出
ハイウェイを照らす照明灯のオレンジ色が、ぼくたちの上に被ったり離れたりをくり返す。排気ガスは空気を真っ白に濁して。
カーステレオからは雪に警戒するよう注意がかかる。
途切れずに、ぽん、ぽん、ぽん、ときみと会話を続けてゆく。ふと見れば、合流レーンからすごい勢いで加速してくる車を見つけた。
眉に薄くシワをつくって深呼吸するきみに、
「ねえ、合流してくるあの車、ぼくたちの前に来るつもりだよ。無茶な運転するねぇ」
「ん、本当。車線変えましょうか」
ちら、とぼく(の向こうの車)を見たきみ。ウィンカーがカチカチ。重力が傾いて。
きみのすてきな横顔。少しだけくちびるが引いてあるのを見つけた。きみってば少しイライラしてる。
「…アメ、あーんってしてあげよっか」
「いえ、結構です」
「んふ、ごめんね。はい、お手々だして」
ころん、とアメ玉を落とす。きみが好きなりんごフレーバー。カラコロと転がす音がしている。
「あのね、今年の抱負をどうぞ」
「えっ、唐突ですね」
「気分変えるのも大事だよね。せっかく大きな神社行ってきたから、神さまに聞いてもらったことぼくにも聞かせてほしいなぁ。決意表明だよ」
「あなたに?」
「ぼくに」
「……そう、ですね、……平凡ですよ? 健康を心がけて平和に努めます、と」
「いつも気をつけてること、続けるの大事だよね。案外大変だし」
「ええ。だから聞いてもらったんです。あなたはどうなんですか? もちろん、聞かせてくれますよね?」
「んふ、いいよ」
大事なお守りとお神札が入った紙袋がかさり。
「あのね、きみの癖を六つみつけること」
「わたくしの癖?」
「うん。なんでもいいの。嫌だ、って思ってるときの否定は早口で「いえ」って言うとか。眠くなると気持ちが良くなくなってきて、鼻で何度も深呼吸するとか、助詞がなくなるとか」
「…………よく見てらっしゃる」
「手の甲で口許を隠す、もそう。案外一年で見つかるの。きみのことをもっと知ろう、っていうぼくの意気込み」
「なるほど。……ですが、なぜ、六つなのですか?」
「五つだと簡単そう。六つってなると難しく思えるでしょ?」
「……それだけですか?」
「あのね、それだけ」
(こんどこそ)ぼくを、ちらちら。
口を緩めながら短な息を吐いた。それから、くしゃ、ってきみのお顔が笑うの。相変わらず下手くそな笑顔。これも照れ隠しの一種だから下手くそ。
「おかしな人」
「隠してもいいからね。ぼく、みつけるの得意!」
「ふふ、今年は抱負を達成できますかねぇ」
「いいよ、ちゃんと達成するからね」
くすくすと笑うきみ。
……あ、いたずらっぽいときは、歯を見せて笑うんだ。んふ、まずは新年ひとつめ。
きっとぼくの勝ちだからね。
#今年の抱負
僕が憶えているのは大学の学友共とこの一年間の出来事を語らっていた事だ。
しかし次には灰色の角ばった、食い込む痛みのあるグレイの無数の小石。目と鼻の先――もう鼻には食い込んで、全面に。
それから青年。彼は、
「おや、珍しい。お早く、遅れぬよう、手引きしてやりましょう」
前時代の古めかしい上等な着物に、ハイカラな外套。手許にはボウボウと燃ゆるカンテラを持って。
さァさァ、と急かす彼に押し込められたその場所はまるでお役所のような赤煉瓦のビルヂング。新しく見えるそこに取って付けた孔雀色のドアを引いてゆく。ギギギ、となんとも金色に軋んだその先は、螺旋状に上へ上へ伸びた階段。その青年は早く早く昇れと急かすので仕方なく。
カンカンカン――――僕の革靴の底が耳の鼓膜を刺戟するのが随分と怪しい事に耳障りが良い。
「これは……」
その部屋――建築物に入って階段を昇ったのだからそう言って然るべきなのだが、なんと、大層御立派な神木かと見紛うほどの桜が鎮座しているではないか。僕は目を擦って何度も見直した。
床一面にはこれまた不思議なことにあの煩い床板はなく、びっしりと用紙が敷き詰められて。文字の羅列が読み難く意味を為さない。そんなものがまるで忙しいと謂うほど。至る所には誰かの革靴やら女のパンプスが無造作に転がっている。鞄やら段ボウルやら、皺くちゃの一揃えさえ。
不思議なものだと思いながらもどうしてか足を止める気には成らずそのまま階段をカンカンカン、と僕は昇って行った。
次の部屋には熱気は広がっていた。ジージーやらミンミンやら蝉が鼓膜を煩わさせ、上着を脱いでネクタイを緩める。噴き出す汗を拭い。叫びたくなるほどの満員電車の中で、押し屋に苛つかされる。
ただ、もう慣れてしまった。人合いを見つけて場所を確保するのも容易い事だ。
なんとか振り切って上階へ。
ザアザアと黄金の銀杏の動く声に耳を傾けさせる風景。人影が二つ。一方は打たれている男。その手前に髪を振り乱した女が右手を振り被っていた。
さては、最低な別れの場面だな。
あのいけ好かない男の左頬には見事な気持ちのいい紅葉が咲いている事だろう。何故だか僕の気持ちがずんと落ち込んだ。彼女とそれっきりなのも、確かこんな秋の季節だ。
熱い目頭を押さえて階段を昇る。
肌を刺す痛み。
喧騒から外れた誰もが思い浮かべるような郷愁の風景。
手には使い古され過ぎて縮れた箒。茶殻を畳の目に沿って転がした。さっさと閉まる商店街で買い出しをしては「これじゃない」と理不尽を言われて。
その日は大寒波なるものが吹き荒んだ。
大慌てでスコップで除雪をして手が真っ赤に霜焼けになった。
それで――――、
もう一階ある。
静かな夜。常世のように馴染む暗闇。
部屋の真ん中にはせんべい布団が敷かれ上には人が寝転んで――否、寝かされていた。というのも、その人は土色の肌でまるで屍のようだったのだ。顔には打ち覆いがかけられている。その真白な布にデカデカに墨でしたためられた――己――の文字。ひどく達筆で心が通じるような筆跡。
むくり――、その死人が起き上がって。僕はもう腰が抜けるほど驚いた。
「…………繰り返せ、戻れ、進め」
若々しい見目には似つかわしくない嗄れた声で呪文のように何度も何度も口にする。
指差したのは開け放たれた窓の向こう。飛び降りろとでも言うのか。その裾から覗く骨がギシリギシリと軋んでいる。
「何を言ってるのかさっぱりだ。君は一体、そもそも――――」
「お前は此処から飛び降りろ。さっさと。ひととせは四つですべてだ。五つ目には早い。……鈍間め、もうあと一分とない。早く、早く、線引きはすぐそこだ」
スカスカで空洞だらけの骨の指が僕の腕を掴み、凄まじい力で窓際へ追いやってくる。落ちてしまうから窓枠に手を付けば足を持ち上げられた。
僕は必死に踏ん張ってみるのだが、その死人の権幕は激しい。
「あ」
ついに僕は落ちた。ずるり、手が滑って。ビュウビュウと耳元で風を切る音が恐怖心を煽って余計に死を覚悟した。
だが、――――安堵もあった。
「うわあ!」
浮遊感に身体が地面から離れた――気がした。
「おいおい、まさか、年越しの瞬間を寝過ごすつもりとは言わないだろう?」
「ほら、もう明けるぞ」
「間に合ったな。幸運とでも言おうか」
見下ろしてくる学友共。
座卓に残っているのは母親が用意してくれた年越し蕎麦と、すっからからんの一升瓶だった。
なるほど、頬が仄かに熱を放っているわけだ。
#一年間を振り返る