僕が憶えているのは大学の学友共とこの一年間の出来事を語らっていた事だ。
しかし次には灰色の角ばった、食い込む痛みのあるグレイの無数の小石。目と鼻の先――もう鼻には食い込んで、全面に。
それから青年。彼は、
「おや、珍しい。お早く、遅れぬよう、手引きしてやりましょう」
前時代の古めかしい上等な着物に、ハイカラな外套。手許にはボウボウと燃ゆるカンテラを持って。
さァさァ、と急かす彼に押し込められたその場所はまるでお役所のような赤煉瓦のビルヂング。新しく見えるそこに取って付けた孔雀色のドアを引いてゆく。ギギギ、となんとも金色に軋んだその先は、螺旋状に上へ上へ伸びた階段。その青年は早く早く昇れと急かすので仕方なく。
カンカンカン――――僕の革靴の底が耳の鼓膜を刺戟するのが随分と怪しい事に耳障りが良い。
「これは……」
その部屋――建築物に入って階段を昇ったのだからそう言って然るべきなのだが、なんと、大層御立派な神木かと見紛うほどの桜が鎮座しているではないか。僕は目を擦って何度も見直した。
床一面にはこれまた不思議なことにあの煩い床板はなく、びっしりと用紙が敷き詰められて。文字の羅列が読み難く意味を為さない。そんなものがまるで忙しいと謂うほど。至る所には誰かの革靴やら女のパンプスが無造作に転がっている。鞄やら段ボウルやら、皺くちゃの一揃えさえ。
不思議なものだと思いながらもどうしてか足を止める気には成らずそのまま階段をカンカンカン、と僕は昇って行った。
次の部屋には熱気は広がっていた。ジージーやらミンミンやら蝉が鼓膜を煩わさせ、上着を脱いでネクタイを緩める。噴き出す汗を拭い。叫びたくなるほどの満員電車の中で、押し屋に苛つかされる。
ただ、もう慣れてしまった。人合いを見つけて場所を確保するのも容易い事だ。
なんとか振り切って上階へ。
ザアザアと黄金の銀杏の動く声に耳を傾けさせる風景。人影が二つ。一方は打たれている男。その手前に髪を振り乱した女が右手を振り被っていた。
さては、最低な別れの場面だな。
あのいけ好かない男の左頬には見事な気持ちのいい紅葉が咲いている事だろう。何故だか僕の気持ちがずんと落ち込んだ。彼女とそれっきりなのも、確かこんな秋の季節だ。
熱い目頭を押さえて階段を昇る。
肌を刺す痛み。
喧騒から外れた誰もが思い浮かべるような郷愁の風景。
手には使い古され過ぎて縮れた箒。茶殻を畳の目に沿って転がした。さっさと閉まる商店街で買い出しをしては「これじゃない」と理不尽を言われて。
その日は大寒波なるものが吹き荒んだ。
大慌てでスコップで除雪をして手が真っ赤に霜焼けになった。
それで――――、
もう一階ある。
静かな夜。常世のように馴染む暗闇。
部屋の真ん中にはせんべい布団が敷かれ上には人が寝転んで――否、寝かされていた。というのも、その人は土色の肌でまるで屍のようだったのだ。顔には打ち覆いがかけられている。その真白な布にデカデカに墨でしたためられた――己――の文字。ひどく達筆で心が通じるような筆跡。
むくり――、その死人が起き上がって。僕はもう腰が抜けるほど驚いた。
「…………繰り返せ、戻れ、進め」
若々しい見目には似つかわしくない嗄れた声で呪文のように何度も何度も口にする。
指差したのは開け放たれた窓の向こう。飛び降りろとでも言うのか。その裾から覗く骨がギシリギシリと軋んでいる。
「何を言ってるのかさっぱりだ。君は一体、そもそも――――」
「お前は此処から飛び降りろ。さっさと。ひととせは四つですべてだ。五つ目には早い。……鈍間め、もうあと一分とない。早く、早く、線引きはすぐそこだ」
スカスカで空洞だらけの骨の指が僕の腕を掴み、凄まじい力で窓際へ追いやってくる。落ちてしまうから窓枠に手を付けば足を持ち上げられた。
僕は必死に踏ん張ってみるのだが、その死人の権幕は激しい。
「あ」
ついに僕は落ちた。ずるり、手が滑って。ビュウビュウと耳元で風を切る音が恐怖心を煽って余計に死を覚悟した。
だが、――――安堵もあった。
「うわあ!」
浮遊感に身体が地面から離れた――気がした。
「おいおい、まさか、年越しの瞬間を寝過ごすつもりとは言わないだろう?」
「ほら、もう明けるぞ」
「間に合ったな。幸運とでも言おうか」
見下ろしてくる学友共。
座卓に残っているのは母親が用意してくれた年越し蕎麦と、すっからからんの一升瓶だった。
なるほど、頬が仄かに熱を放っているわけだ。
#一年間を振り返る
12/31/2022, 1:25:52 AM