萌葱

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3/7/2023, 1:06:56 PM

月に手を伸ばす。
月の光を受けた爪がキラキラと光った。

「月が綺麗ですねぇ」
隣に座っていた彼は、ため息混じりの穏やかな声でそう言った。私は曖昧に笑って頷く。
彼は知っているのだろうか。月が綺麗ですねという言葉は、夏目漱石がI love youを日本語訳する時に使われた言葉だということを。最も、夏目漱石がそう訳したのはガセだとも言われているのだが。

彼は続けて言う。
「死んでも良いって感じですねぇ」

どうやら知っていたらしかった。
彼は私と同じように片手を月へと伸ばした。
彼の手が揺れ、コツンと彼の爪と私の爪がぶつかり合う。それから彼は私の指をするりと絡めとった。
彼は私の顔を見つめて頬を緩める。
「ねぇ?」
幸せそうに微笑む彼を見ていると、私もなんだか暖かな堪らない気持ちになった。
「自信たっぷりだね」
私が笑いながらそう言うと、彼もクスリと笑い声を漏らした。
「うん。だってそうでしょ?」
彼はそう言うとぎゅっと私の手を握る手に力を込めた。

「そうだね。…本当に死にたくはないけどね」
私も繋がれた手をぎゅっと握り返す。
「月が綺麗だねぇ」
私がそう呟くと、彼は満足そうに笑った。

3/1/2023, 10:03:59 PM

側にさえ、居られれば良いと思っていたのに。

気がついたら、君は僕の隣で寝ていた。
ゲームをしていてうっかり寝落ちたのだろう。腕はだらりと垂れ下がっており、ゲーム機はソファから落っこちそうになっていた。ゲーム機を拾い上げ、そっと机に置く。
君はいっこうに起きる気配がなく、すやすやと心地よさそうに寝ている。
僕は君の頭に手を伸ばした。そっと撫でてみる。
さらりとした君の髪は僕の指のあいだをするりと通ってゆく。

ちょっと前だったら、それだけで十分幸せだった。
でももう、髪を撫でるだけじゃ足りないよ。
僕は酷く欲張りになってしまった。

3/1/2023, 6:10:52 AM

遠くの街に行こう。
君は僕の手をぎゅっと握って言った。

それから何時間汽車に乗って、何時間歩いていることか。
僕たちは汽車に乗る時も、歩く時もずっと手を繋いだままでいた。僕は周りの目があるのと少し気恥ずかしいのとで手を解こうと何度か握りしめる手を緩めたけれど、僕が緩めるたびに、代わりに君はぎゅっとキツく握りしめてくる。あまりにキツく握りしめてくるものだから、僕はなんだか怖くなった。

いったい僕はどこに連れて行かれるのか。

僕は立ち止まった。僕の手を引き、先を歩く君は立ち止まり、こちらを振り向いた。

そして僕が口を開くよりも先に、君は繋いでいた手をゆるりと緩めた。

君はまた、僕を置いて歩き出した。

この夢を見た日から、僕は君と、二度と話すことも会うことも出来なくなった。
後悔している。

2/12/2023, 6:56:00 AM

「この場所に星のカケラを埋めたの」
彼女は土にざくざくとスコップを刺しながら言った。
「星のカケラ?」
「そう、星のカケラ。…あっ!」
彼女はしゃがみ込んで穴に向かって手を伸ばした。
どうやら見つかったらしい。
彼女は土の中から小さなお菓子の缶を掬い出した。
満足そうに笑い、僕に向かって手招きする。
僕が寄っていくと彼女はバコッと大きな音を立てて缶の蓋を開けた。
覗き込むとそこに入っていたのは封の中に入った金平糖だけだった。
僕はなんだか力が抜ける思いがした。
「…星のカケラって、…金平糖じゃん。」
僕が彼女を振り向くと、彼女は残念そうな表情を浮かべていた。
「何らかの化学変異が起こって本当に星のカケラになってないかなって期待してたのに」
きっと小さな頃の彼女はそれを願って金平糖を埋めたのだろう。きっとこの事実を知ると大いにがっかりする事だ。けれど大きくなった彼女もまた、心から落胆している。
僕は思わず顔を綻ばした。なんていうか、僕の彼女は本当に可愛い。
そんな僕を尻目に彼女はポケットから玩具の指輪を二つ取り出した。金平糖の横にその二つを新たに入れ、蓋を閉じる。
「今度は何に変身させようとしてるの?」
彼女は僕を見てニッコリ笑って答えた。
「星のカケラのペアリング!」


星のカケラのペアリングってのがあんまり気に入らなかったけどそれ以外思いつかなかった…。

2/5/2023, 12:02:15 PM

コップに並々と博士は「黒い何か」を注いだ。
しゅわしゅわとその「黒い何か」は奇妙な音を立ててコップの中に収まった。
「何です、これ?」
私が尋ねると博士は少し首を傾げた。
「…えっと、なんて名前の飲み物だったかな、」
「…名前忘れたんですか。というかこれ、飲み物なんですか、」
博士はふふっと笑った。笑いながらコップを私に差し出してくる。
「美味しいよ。とても刺激的だけど」
私はおずおずと受け取り、コップの中を覗き込んだ。相変わらず奇妙な音を立てている謎の液体は細かに跳ね、私の顔へと付着した。
「うわっ、何です、これ!?」
私は驚いて思わずコップを取り落としそうになってしまった。本当に飲み物なのか信じられなかった。
「炭酸だからね」
「…たんさんって、」
何なのか思わず尋ねそうになってしまって私は慌ててぐっと唇を噛んだ。聞けば最後、博士の説明が永遠に続く。それは避けたい。しかもどうせ聞いたところで私には理解できないことだろう。

私は意を決してごくりと一口飲み込んだ。
甘い味と跳ねるような刺激が喉を伝っていく。
「…うわぁ」
これまた新しい経験だ。
美味しい、と思う。何だか癖になる感じ。
私はもう一口飲んで、まじまじとこの謎の液体を見つめた。相変わらず液体は跳ね続けている。
面白い。
「それさ、あっちの世界の飲み物なんだよ」
博士は私を見つめて満足そうに笑った。

……博士はまたあっちの世界に行ったのか。
「やっぱり面白いねぇ、あっちの世界は」
博士はまるで子供みたいにキラキラとした表情をしていた。あっちの世界の事を話す時はいつもそう。
「何もかもが新しい。僕は驚かせられてばかりだ。
もっと僕も頑張らないとって気になる」
「…けどあっちの世界の人間はこっちには来られないではないですか。それどころかこんな世界が存在している事さえ、知らないんだから。私はあっちへ行く機械をつくった博士の方が凄いと思う、」
博士はゆるゆると首を振った。
「たまたまだよ。あっちの文明なり何なりはもっと凄い」

…時々不安になる。博士があっちの世界に住み込んで、もう二度とこちらに帰ってこないのではないか、と。

きっとそうだ。

行かないでなんて、言える訳がない。
しかし、この世界に博士をとどまらせるような魅力のあるものがあるとは思えない。
私が博士をここにとどまらせる理由に、なんて何度考えたことか。そんなこと、ある訳がない。
…博士はもうすぐ私の手の届かないところに行く。

私がぼんやりと液体を見つめながらそんな事を考えていると、博士が「あっ」と声を上げた。
「思い出した、それの名前はコーラと言うんだった」

こーら。
私はもう一口、そのこーらとやらを口に流し込んだ。
こーらはなぜかさっきの刺激が嘘のように消え、ただ甘いだけの物へと変化していた。
…なぁんだ。こーらも大した事ないじゃない。

きっとあっちの世界も直ぐに刺激なんかなくなるよ。
だからお願い、こっちの世界に居てください。
なんて、
今日も私は溢れそうな思いをぐっと飲み込む。


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