誰かの生きる意味になれるならどんなにいいことか。
「今日の心模様は晴れ後大雨ってとこだったでしょう」
彼はまるで天気予報士のように淡々とそう言ってのけた。口調とは裏腹に、彼は口角を片方だけ上げた皮肉気な笑みを浮かべている。私はムッとして彼を睨んでみせた。
「当たりなんだ」
彼はうわずったような独特な笑い声を立てて、またビールを口へと運んだ。
私は彼を無視して唐揚げに箸を伸ばした。
そのまま黙って齧り付く。
そんな私を見て彼はまだ続ける。
「また上司に嫌味でも言われたんだろ、顔に出てる」
それでも尚、私が無視してビールを煽っていると、彼はずりずりとこちらに這ってずいっと私に顔を近づけた。目を細めてにっこりと笑っている。
「…けどまだ今日は終わってないよ。俺がこれから晴れにしたげる」
彼はそう言うと両手を伸ばして私をぎゅっと抱きしめた。お酒を呑んで体温が上がっているのか彼はとても温かくて抱きしめられているのはとても心地良かった。そのまま彼はよしよしと私の頭を優しく撫でた。
本当は、仕事が終わって彼が家に来た時にはもう心に雨なんか降っていなくて、彼の顔を見ただけでほっと心が軽くなって言われた嫌味なんてどうでもよくなっていた。
けれどこうやって慰めて欲しくてわざと落ち込んだ顔をつくってたの。
私はあなたに会えるだけでいつだって心は晴れる。
なんて恥ずかしくて言える訳がないけれど。
君は僕の手首を掴み、引いて歩いた。痛くないようにと幾分手加減はしてくれているのだろう。しかしそれでもしっかりと、離さまいというような意思が籠っているような君の手を、僕は振り解けずにいた。
いや、解こうと思えば、直ぐに解くことが出来た。僕の手首を掴んでいる手を捻りあげるなり思いっきり手を後ろに引くなり、どうとでもできたはずだ。けれど僕は君の手を振り解けずにいた。いや、解かずにいた。だから君が歩けば、僕も着いて行かねばならなかった。
君のシャツが生ぬるい潮風で膨らんだりへこんだりするのをぼんやりと見つめたまま、君に手を引かれるがままに歩いていった。歩く度にスニーカーの中に砂が入っていくようで、ほんの少し重くなった足を持ち上げてただひたすらに着いていく。
次第に海が近づいて来て、遂にもう目の前というところまで連れて来られた。そこで止まるかなと思っていると、君はばしゃんと音を立てて、陸に打ちつける海水に足を突っ込んだ。たしか君もスニーカーを履いていたはずだ。それなのに何の躊躇いもなく、履いたまま足を突っ込んだ。僕も手を引かれるがままにスニーカーを履いたまま海へと足を着けた。
さらに君はずんずんと海の中へ入っていく。僕はただそれに着いていく。
胸の少し下辺りまで海水が持ち上がってきたというところでようやく君は止まって僕を振り向いた。
君は泣きそうな顔をしていた。薄く唇を開いて少し震えた声を上げた。
「何で何も言わずに着いて来てくれたの、」
僕は少しだけ口角を上げて見せた。多分凄く下手くそで歪な笑顔になっていたことだろう。
やっぱり君に着いていくのなんて間違いだったのかも知れない。
けれど、たとえ間違いだったとしても、
こんなの間違いだって気付いていたとしても、僕は君の必死で縋るような手を拒絶するなんてこときっと出来なかった。
心から雫となって溢れ落ちた思いは、足元に溜まっていたもののいつのまにか蒸発していった。
いずれは零れ落ちるものもないほど、すっからかん
になっているのでしょう。
「僕たちって何なんでしょうね?」
彼が缶ビールを爪先で弾いて言った。
僕は雲がかった満月から彼に視線を移す。
彼は僕の方を見ずに缶ビールを口元に傾けた。
ごくりとビールが飲み込まれていく音が聴こえる。
「何、とは?」
僕が尋ねると、彼はやはり視線を宙に彷徨わせたまま、
「僕たちの関係ですよ」
とぽそりと返した。
僕ははて、と思わず首を傾げた。
関係。僕と彼の関係?
「友達でも恋人でもない。ただ、満月の日だけ一緒にこの公園のベンチに座ってお酒を煽る僕たちの関係って何なのでしょうね」
彼はそう言うと、ガサゴソとコンビニのレジ袋を漁る。二本目の缶ビールを取り出し、かこんと音を立ててプルタブを引いた。
彼と出会ったのはいつだったか今になっては思い出せない。ただ、満月のいつの日か、僕はえらくその美しさに感動して、外で月を見ながら酒を呑もうと思い立った。
近所の公園に缶に入った酒を何本か持ち寄った。
それからベンチに座って、月を見ながら酒を呑みはじめて、程なくしてから彼が同じく何本かの酒が入ったレジ袋を提げて現れた。
彼は僕を見て、ぷっと吹き出した。
酒をレジ袋から取り出して
「同じです」
と笑って言った。僕もつられて吹き出した。
その日から僕と彼の付き合いは始まった。
満月の日だけ、肩を並べて酒を呑む。
確かに名で言い表せない奇妙な関係だ。
だけど僕はそれでも良いと思った。
僕も彼と同じようにビールをごくりとやってから言った。
「強いていうなら特別な関係、ですかね」
彼は少し驚いたように僕に視線を向けた。
「別に、名前で言い表せる関係ばかりしかこの世の中にあるわけじゃない、変に名前なんかつけなくても大雑把に特別な関係とでもしておきませんか?」
彼はふっと笑い声を漏らした。
「…そうですね、そうしましょうか」
それから彼は、
「でもえらくロマンチックな関係ですね」
と揶揄うように続けた。
僕は少し照れ臭くなってしまって誤魔化すようにビールを煽った。