ただあの日は、僕が学級日誌にシャーペンを走らせる音だけが、僕と君しか居ない放課後の教室に流れていた。たしか君は僕の横の席に座ってスマホをいじりながら、僕が日誌を書き終わるのを待っていた。
しかし、僕と君の間に会話はなかった。
僕が話しかけても、君は何処か上の空で、ぼんやりとした返事しか返ってこなかったものだから、何か考え事をしているのだろうと思って、僕は口を閉じて、日誌をさっさと書いてしまおうとせっせと手を動かしていた。
君が僕の名前を呼んだのは、たしか日誌をもう少しで書き終わるって時だったと思う。
僕は顔を上げて、隣に座る君のほうを向いた。
途端に目にきつい光が飛び込んできて、うっ、と顔をしかめた。君は逆光を浴びて全身黒のシルエットみたいになっていたことを覚えている。
君は僕の顔を見て、しっかりとこう呟いた。
「好き」
驚いた。僕はポカンと間抜けに口を開けて君の顔を凝視していたことだと思う。といっても、君の顔は逆光のせいで真っ黒になっていて、表情なんか分からなかったのだけれど。
何秒だっただろうか、僕はフリーズしてしまっていた。
そんな僕を解凍させたのは君の一言だった。
「なんてね、冗談だよ」
その言葉を聞いて酷く安堵した。だって君を恋愛的に好きだとか、そんなの考えたことがなくて、凄く動揺したから。
僕はほっと息を吐いて笑った。
「びっくりしたー!だよね、冗談だよね」
相変わらず君の表情は分からなかったけれど、多分笑っているだろうと思っていた。
けれど、本当は泣き出しそうな顔をしていたらしい、今初めて知った。
「それ、本当?」
僕が隣で歩く君にそう尋ねた。君はむっと顔をしかめた。
「本当だよ、マジで傷ついた」
「…ごめんね」
僕が謝ると、君はふふっと微笑んだ。
「まぁ、良いけどね」
そう言って、君はするりと僕の指に指を絡めた。
恋人つなぎだ。
「今はこうだから、許す!」
君はにこにこと笑っている。僕も笑って繋がれた手をぎゅっと握りしめた。
夢というのはいつだって奇想天外で、急に始まり急に終わるものだ。場面転換も目まぐるしく、人が出てきたと思ったらいつのまにか消えていたりする。
それに自分の願望にひどく影響された、自分勝手で都合のいいもののことが多い。他の人の夢がどんなものなのかは知らないが、少なくとも僕にとっては夢ってそんなものだ。
「楽しいね」
彼女はにこやかに微笑みながらそう呟いた。
そんなことありえるのだろうか。
明日になれば人類は全て滅亡するというのに。呑気に踊って、それを楽しいと感じるなんて。
こんな夢をみた。
明日隕石が降るとかなんとかして、人類、いや、全てのものが滅亡すると言う日の前日に、彼女とただひたすら踊り続けると言う夢だ。夢なのだから、どうして地球やらなんやらが滅亡して人が死んでいくのかは曖昧だったが、取り敢えず、夢の中の僕は明日死ぬということだけははっきりと確信していた。
そんななか、彼女と踊り続けたのだ。映画とかで王子と姫がくるくると踊っているあれを踊り続けた。踊っていた場所は、海の目の前の白い砂浜、ショッピングモールのど真ん中、学校の階段の踊り場だったりと気づいた時には場所がよく分からないところに変わっていた。おかしなことだが、夢の中の僕はそれには疑問を抱かなかった。
ただ、僕が考えていたのは、どうして彼女は僕と踊ってくれているのだろうということだった。普通、明日死ぬとなると、家族や恋人、親しい友人と一緒にいることを選ぶのではないか。僕は彼女の家族でも恋人でも、特別親しい友人でもない。なのに彼女はどうして僕と踊り続けているんだろう。
僕はどうして、ただの友人の一人である彼女と、踊り続けているのだろう。
彼は海を見ながら
「綺麗だな」
と呟いた。いつもと同様の、人好きのする優しげな笑みを貼り付けて。
僕は缶コーヒーを一つ彼の方に投げやった。海から少し離れたコンビニで買ったそれは少しぬるくなってしまっていた。
彼は受け取ると、「ありがとう」とプルタブを引いた。かこんという無機質な音があたりに響く。
自分もコーヒーを啜りながら、ちらりと彼に目線を移す。
彼はやはり、黒くぼやけた瞳で海を見つめていた。
彼は海で出来ているのではないかと思うことがしばしばある。
大抵の事は優しげな笑みを浮かべて受け止めてくれるし、怒っているところを見たことがない。これまでにこんなに「海のように広い心」という表現がピタリとあう人に僕は出会ったことがない。
それだけじゃない、彼のあの底抜けに黒い瞳に見つめられると、あっと言う間に彼に飲み込まれてしまいそうになる。もう一生日の光を浴びることが出来ず、陸の上に立てない気さえする。
人間が海の事で知っている事と言ったら5%くらいしかないらしい。
いち友人として、結構な時間を彼の隣で過ごしてきたが、僕は彼について何も知らない。何を考え、海を見つめているのかも分からない。
海で出来た心の奥底には何があるのだろうか。
僕には触る事はもちろん、見ることさえ許されないのだろうか。
きっと、僕はすでに彼に飲み込まれたのだ。初めて彼と目を合わせたときからきっと、ずっと溺れているのだろう。足掻いたって陸の上には二度と戻れない。
それなら、いっそのこと引き摺り込んでくれよ。
彼の海底に潜む何かに僕は懇願する。
しかし、依然として、その何かは僕に姿を現さない。
「美しい」
読んでいた小説の途中でふと、目に飛び込んできたこの言葉。
思い返せば、「美しい」なんて言葉を僕はほとんど使ってこなかった。
例えば太陽の光を受け、キラキラと輝く海面を見たとする。
無数の星空が煌めく夜空を眺めたとする。
そんな瞬間に立ち会う度に、感嘆する僕の口から溢れたのは「美しい」ではなく「綺麗」だった。
綺麗は美しいと引き換え、これまでに何度も使ってきた。
しかし、「美しい」。何処か大袈裟で小っ恥ずかしく、「綺麗」よりもさらに上を行く言葉。
僕は筆箱から蛍光ペンを取り出して「美しい」に線をひいた。
途端に「美しい」はどの言葉よりも存在感、異彩を放つ。このページを開いて、一番に目に飛び込んでくるのはきっと「美しい」だ。ほかの字に目を移そうとしても、「美しい」が僕を捕らえて離さないだろう。
…まるで、彼女みたいだ。そう思った途端に僕の背後から高く澄んだ声がした。
「図書室の本に落書きしてるの?怒られちゃうよ」
振り向くと、分厚い本を抱えた彼女が可笑そうな笑みを浮かべて立っていた。
「ああ、…別にバレないだろ、こんな本僕以外に誰が開くんだよ」
僕が本を閉じ、蛍光ペンの先でコツコツと古めかしい表紙を叩いて見せた。
「私が君の次に読むかも知れないじゃない」
彼女は控えめに笑い声を立てながら、僕の向かい側の席に腰を下ろし、持っていた本を開いた。そうなると彼女はすぐに本の世界へと入り込み、当分帰ってこない。
僕は真正面から、本を読んでいる彼女を見つめた。
窓から入り込んだ風が彼女の髪をさらさらと揺らしている。白く華奢な手がページを捲っていく。
ただそれだけの事なのに、僕は目が離せなくなる。
…こういうのを「美しい」というのだろうか。
「この世界ってさ、コーヒーと似てるよね」
彼女はカップの中に入ったコーヒーをぐるぐるとスプーンでかき混ぜながらそう言った。
急に何を言い出すのやら。
「この世界ってさ、凄く苦いのよ。そのまま受け止めると火傷することだってあるしさ。砂糖やミルクみたいな甘くて嬉しいことで誤魔化していかないとどうにも飲み込めないでしょ。」
…いや、ブラックコーヒーを好んで飲む人も大勢いるだろ。
思わず口を出しそうになってしまってぐっと唇を噛み締めた。
言わんとしていることは分からない、でもない。
「けどね、美味しいのよ。そのままではとても頂けないけど、砂糖やミルクをいい塩梅で入れるととっても美味しいの。苦さも美味しさに変わるみたいな。
だからね、私この世界もコーヒーも好きなの」
そう言いながら彼女はまた角砂糖のポットへと手を伸ばした。僕はその手をピシャリと叩く。
「何個目だよ」
「5個目よ。甘ければ甘いほど私は嬉しいの」