萌葱

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彼は海を見ながら
「綺麗だな」
と呟いた。いつもと同様の、人好きのする優しげな笑みを貼り付けて。

僕は缶コーヒーを一つ彼の方に投げやった。海から少し離れたコンビニで買ったそれは少しぬるくなってしまっていた。
彼は受け取ると、「ありがとう」とプルタブを引いた。かこんという無機質な音があたりに響く。
自分もコーヒーを啜りながら、ちらりと彼に目線を移す。
彼はやはり、黒くぼやけた瞳で海を見つめていた。


彼は海で出来ているのではないかと思うことがしばしばある。

大抵の事は優しげな笑みを浮かべて受け止めてくれるし、怒っているところを見たことがない。これまでにこんなに「海のように広い心」という表現がピタリとあう人に僕は出会ったことがない。

それだけじゃない、彼のあの底抜けに黒い瞳に見つめられると、あっと言う間に彼に飲み込まれてしまいそうになる。もう一生日の光を浴びることが出来ず、陸の上に立てない気さえする。


人間が海の事で知っている事と言ったら5%くらいしかないらしい。

いち友人として、結構な時間を彼の隣で過ごしてきたが、僕は彼について何も知らない。何を考え、海を見つめているのかも分からない。

海で出来た心の奥底には何があるのだろうか。
僕には触る事はもちろん、見ることさえ許されないのだろうか。

きっと、僕はすでに彼に飲み込まれたのだ。初めて彼と目を合わせたときからきっと、ずっと溺れているのだろう。足掻いたって陸の上には二度と戻れない。

それなら、いっそのこと引き摺り込んでくれよ。
彼の海底に潜む何かに僕は懇願する。
しかし、依然として、その何かは僕に姿を現さない。

1/21/2023, 8:01:39 AM