──表現し得ない。
彼女は僕にとってどんな存在だろうか。
恋人?
……恋愛小説のような甘やかな雰囲気は無い。
友人?
……この感情が単なる友愛で済むと思えない。
夫婦?
……それは僕たちの関係の一部分に過ぎない。
それならば。言葉で表すことができないのならば。
この関係は、何の意味を持つのだろうか──。
***
「難しい顔をして、何を考えているんです?」
深い紫の瞳が、つ、と僕の持つ本をなぞって問いかける。繊細な美しさを宿す紫に意志の強さが見え始めたのはいつだったろうか。
成功が約束された未来を捨てて、僕と共に世界に歯向かうことを決めた時?
自らの手で目の前に広がる闇を掻き分けた時?
それとも、抑圧されていただけで、生来の彼女の持つものなのかもしれないが。
ぼうっと見ていたら、目の前で手が振られた。僕が返事をしようとしないから心配されたらしい。
「君は」
「はい?」
「君は、この関係をどう定義する?」
美しいミルクティー色の髪がさらりと肩を滑った。
「どうも致しません」
「それは、何故」
「名前が必要ですか?」
「……」
定義があれば、名前がつけば、そう簡単に彼女は僕から離れていかないから。きっと僕は理由が欲しいんだろう。彼女が僕の隣にいてくれる理由が。
「口に出せば済んでしまうことを心の内で考えすぎるのは、あなたの悪い癖ですよ」
「……煩い」
そんなの、自覚している。人と関わるのも話すのも得意ではないんだ。
「普段はあんなに堂々としていらっしゃいますのに」
「自分を騙しているだけだ……君に偽りの姿で接したくはない」
「素晴らしい殺し文句ですわね」
「?」
何か変なことを言ったか、と視線を投げても静かに微笑むだけだ。その笑みは、本来僕ではない誰かに向けられるべきものだったのに。
「……どうして君は僕の隣にいるんだ」
「唐突ですねぇ」
「僕は、君に相応しい人間では──」
最後まで言うことは叶わなかった。彼女の双眸が突き刺すような鋭さを持つ。
「自分を貶めるのも良い加減になさってください」
「……っ」
「相応しい、相応しくないなどと誰が決めるのです? 私が選んだ道を否定するのはやめてくださいませ。あなたの隣が私の生きる場所です」
誰よりも強い瞳が誰よりも悲しげに揺れていて、すうっと血の気が引いた。握り込んだ両の手が痛くて冷たい。跡になってしまうかもしれない。
「す、まない」
みっともなく震えた声だった。それでも僕の後悔が伝わったのかなんなのか、彼女は表情を緩める。
「理由が欲しいのですか」
「……ああ。わからないのは、怖いんだ」
「定義がなければ駄目ですか」
「偶に、酷く不安になる」
彼女は視線を彷徨わせて、小さな声で言った。
「恋人ではありませんね」
「ああ」
「友人というには深過ぎます」
「同時に重過ぎるだろうな」
「夫婦では表し切れないでしょうか」
「なら、他の言葉で表せるか?」
沈黙。
「なかま、はどうでしょう」
「……なかま」
「夫婦で、仲間で、同志で、パートナーです」
「ああ……それは良い」
「では、そういう事で」
「うん」
彼女は読書に戻ってしまった。竜胆色の瞳が文字を追って、すぐにきらめきを湛える。
僕の妻。僕の仲間。僕の同志。僕のパートナー。
僕の──。
もう、わからなくて怖くなることも、ひどい不安に襲われることもないだろう。
窓の外で、鳥が一度だけ鋭く鳴いた。
(仲間)
迷走しました……
世界のあり方に疑問を持ちすべての敵になった男と、将来が約束された才女であったにも関わらず、輝かしい未来を捨てて男と共に世界を変えることを選んだ元貴族令嬢……という設定が有ったり無かったりします。
男性の方は色々あって疲れていたみたいです。少し休んだら、妻であり、同志であり、パートナーであり、仲間である彼女と一緒に、すぐにまた世界のために動き始めます。
──ふたりの行き先は。
「からだが命を失っても、手を繋ぐことはできるんですね」
「実体がないのに、不思議なものだ」
「それでもあなたの手はあたたかいです」
「君の手も」
「結局、ふたりで地獄へ行く約束はなくなってしまいました」
「それでもこうして君と会えたのだから関係ない」
「あなた、自分は地獄に行くだろうとあんなに自信を持って言ってらしたのに」
「君こそ、僕は幸せになってほしいと言ったはずだが?」
「しあわせでしたよ。あなたの望みを叶えることだけが、私のしあわせでした」
「あんなに泣いていたのに?」
「覗いていたんですね」
「見せられただけだ」
「僕の望みを継ぐことが、本当に君の幸せだったのか」
「しあわせでしたとも。あなたのいない世界では、あれが私のいちばんのしあわせでした」
「僕がいる今は?」
「私の幸せは、どうもあなたの形になってしまったようで」
「熱烈なプロポーズだな」
「先の世でも隣にいてくださいますの?」
「言ったはずだ、どうにも君を手放せそうにないと」
「あたたかいですね」
「ああ」
「もう寒くありませんね」
「君のいない時間は随分と退屈だった」
「私もです」
「次の世も君を見つけると誓おう」
「私にも誓わせてくださいませ」
「約束だ」
「ええ、約束です」
──そして、ふたりはふたたび手を繋ぐ。
*昨日の続きです
*ifルート加筆しました
「僕が死んだときは泣いてくれるか」
「ええ」
「こんな仕事柄、いつ死ぬかわからない」
「知っています、それは私も同じです」
「だから、今のうちに言いたいことを言っておく」
「いつも唐突ですねぇ」
「思い立ったが吉日だ」
「ふふ」
「……僕の数少ない財産は全て君に譲る。好きに使ってくれて構わない。僕にとって、それがいちばんの使いみちだ」
「はい」
「僕の代わりに、僕の願いなんて叶えなくていい。好きに生きてくれ。世界は良い方向に変わり始めた。君がすべて背負わずとも、近い未来に変革の時はやってくる」
「あなたの願いと私の願いが同じだとしても、ですか?」
「……君は本当に変わり者だ」
「あなたにもお返しします」
「僕の墓に指輪は入れないで、君が持っていてくれ。きっと君を守るはずだ」
「あなた、私の指輪だけでは飽き足らず自分のものにも細工したんですね?」
「黙秘する」
「指輪がどんなふうに守ってくれるのか、楽しみにしておきます」
「毎年墓参りになんて来なくて良い。どうせ僕は地獄に落ちるのだから」
「なら、きっと私も地獄行きです」
「僕の遺したものはいつ捨ててくれても構わない。君が必要ないと思う時が、僕にも必要のなくなる時だ」
「そんな日が来るんでしょうか」
「さて、未来は誰にも分らない」
「それもそうです」
「僕を忘れてくれたって良い。僕と過ごした記憶が君の邪魔になるのなら、悲しませるのなら、その記憶に存在する意味はないのだから」
「……はい」
「僕以外に愛するひとができるのなら、そちらをえらべ」
「それは、……」
「と、言おうと思ったが」
「え……?」
「どうにも君を手放せそうにない。死んだ後ですらも、だ」
「離さないでくださいませ」
「君も?」
「離せませんわ」
「宜しい。ならば地獄の入り口で待っていよう。二人なら責め苦の痛みだって半分に感じるだろうな」
「ええ、勿論」
「あとは、……」
「――?」
「そうだな、あと一つで最後だ」
「案外少ないですね」
「君は僕を欲深い人間だと思っていないか」
「ええ、欲深くて、自分の望むすべてを救おうとするひとです」
「過大評価が過ぎる」
「いいえ」
「……君が好きなように評価すればいい」
「そうします」
「最後の僕の望みだ。これが叶うんなら、今言ったすべてを破ってくれてもいい」
「……」
「幸せになって欲しい」
「私は、」
「それがすべてだ。君が幸せならそれでいい。他に何もいらない」
「……訂正します。あなたは、どこまでも欲のないひとです」
「そうか? ひと一人の幸せを望むんだ。十分欲深い酷い人間だよ、僕は」
「ほんとうにあなたは酷いひとです」
「あなたのいない世界で、どうやってしあわせになればいいですか」
「私のしあわせは、とっくにあなたの形になっていたのに」
「あなたの望みは私が叶えます」
「それが私の唯一の――、」
「……地獄の入り口で、私を叱ってくださいね」
私にしあわせを教えてくれてありがとうございます。それから――ごめんなさい。
ifルート
「まさか、君が僕より先に死ぬなんてことがあろうとは」
「君にも望みを訊いておくべきだったんだ。まったく、僕は本当に自分のことしか考えられない人間だ。どうしようもない」
「……このノートは?」
「ああ……まったく。君は誰よりも他人のことを考えるひとだ!」
「どうせ君は天国に行くんだろう」
「なら天国の門の前で待っていてくれ。すべての罪を償った後、どんな姿になっても会いに行くと誓おう」
僕にしあわせを遺してくれてありがとう。一人にして済まない。必ず迎えに行くから、それまで──。
*いつものシリーズとは関係ないお話です
――どこにいても探してやるから。
帰ってきたら、自室の隅に同居人が落ちていた。
「……は?」
力の抜けた手から書類の入った鞄が滑り落ちる。それに構わずスリッパを脱ぎ捨てて、冷たい床に転がる体を揺さぶる。まさか、何かあったんじゃ。
「おい、どうした? 大丈夫か……」
「、んぅ」
呼びかけに返事があって胸を撫でおろすと、さらりとした灰色の髪が動いてこちらを向いた。起き上がるのか、と思ったのに目が閉じられている。
「……寝てる?」
床で? しかも俺の部屋で?
わけがわからず頬をつつく。嫌がるように顔が逸らされてしまった。
「おーい、起きろー」
「……ん」
果たしてこれは返事なのか、それとも寝言なのか。少なくとも全く起きる気配がない。
「起きねえなら部屋まで運ぶぞー?」
返事なし、と。自室の扉の近くで放り出されていた鞄をクローゼットに立てかけて、散らばったスリッパをはき直す。細身の体の下に腕を入れて、ぐっと持ち上げた。
「こんなとこで寝ると風邪ひくぞぉ」
あと、床で死んだように体を投げ出しているのは本当に心臓に悪いのでやめてほしい。
……今度、部屋に絨毯でも敷いとくかな。
(部屋の片隅で)
――ぐるぐるまわる。
朝から嫌な予感はあった。
なんとなく、起き上がるのが億劫だとか。湿度を調整する魔法具を設置しているのに、乾燥で喉が痛いとか。いつも飲んでいるコーヒーを淹れる気にならなかったとか。鏡で見た自分の灰色の髪が跳ねているのを直さずに家を出たとか。
昼までは耐えられた。
どうしても外せない会議に出席して、じわじわと思考に靄をかかっていくような頭痛を振り払いながら資料に目を通して。昼食を適当なゼリーで済ませて、どれだけ厚着をしても震える体に気づかないふりをして。
夕方が、限界だった。
座っているだけでインク壺に顔面から突っ込みそうになった。何度か重要な書類を破きかけた。立ち上がると膝から崩れ落ちそうになった。仕事にならなかった。
どうにか医務室に行こうと廊下に出て、手すりにしがみつきながら階段を下りて、目当ての場所の表示が見えたところで――世界がさかさまになった。
***
あたたかな焦茶色が見える。次いで柔らかい橙。くらくらと揺れる視界で、見慣れた二色が動いている。
「……お。起きた?」
(逆さま)
加筆します