八、たった1つの希望
無性に心細くなる夜がある。無性に泣きたくなる夜がある。得も言われぬ不安に押し潰されそうで、ミアは震える指先をぎゅっと握り締めた。
「まだ起きてたのか」
扉が開くなり姿を現した仕事終わりのアルバートは、玄関先でひとり佇んでいた己のメイドの姿を目にすると開口一番にそう言った。視線が合ってミアは知らず知らずのうちにほうっと息を吐く。幾らか気持ちが和らいだ。
「お帰りなさいませ」
「今日は遅くなるから先に休めと言っただろ」
時刻は午前二時を回ろうとしていた。ミアは二時間後には起床して朝食の仕込みをしなければならない。
「申し訳ございません」
「謝って欲しいわけじゃ……どうした?」
ミアの異変を察知したアルバートは訝しんだ。上着を脱いでからミアに近付くと、アルバートは彼女の顔を覗き込む。
「体調でも悪いのか?」
アルバートの問いにミアは首を横に振る。
「なら眠れないのか」
「……」
何も言わないミアに、アルバートは「当たりだな」と呟く。
アルバートは逡巡した後、口を開いた。
「ミア、俺の部屋まで水を持ってきてくれ。喉が渇いた」
「あ……は、はい」
主人の命令にミアは頷く。
自分の部屋に戻れと言われなかったことに、ミアはただただ安堵した。
水を注いだグラスを主人の寝室まで運ぶと、アルバートが手招きした。
「悪いな。夜遅くに」
「いえ」
今のミアにとっては寧ろありがたかった。
アルバートはミアからグラスを受け取るも、それに口を付けることはない。
「お前、今日はここで寝ろ」
「え?」
「俺の寝台使え」
アルバートの言葉を理解した途端、ミアは顔を真っ青にした。そんなこと許されるはずもない。
「い、いけません」
「俺ならソファで寝るから問題ない」
問題大ありである。
「ちゃんとベッドで寝てください」
「まだ寝てないお前にだけは言われたくないな」
間髪入れずに言葉を返されたミアは口を噤んだ。
「明日の朝もゆっくりでいい。……ひとまずは寝ろ。体が持たないぞ」
「……でも」
ミアは目を伏せる。
「何をそんなに不安がっている」
アルバートがミアの頭を優しく叩く。
「俺がいるだろ」
アルバートの言葉にミアは顔を上げた。何がそんなにも自分を不安にさせているのか、ミアは考えたがやっぱりよく分からなかった。それでもこれだけは分かる。自分をそばに置いてくれたあの日から、ミアにとってアルバートは、たった1つの希望なのだ。
七、現実逃避
「終わらん」
辺りを見渡せば書類の山。山。山。
「ここが地獄か」
刻々と時間ばかりが過ぎてゆくなか、捌き切れないほどの膨大な仕事量に、アルバートは気が遠くなるのを感じていた。
そんな折、二度のノックが部屋に響く。姿を現したメイドの両腕には、なんと新たな書類が山が。
「追加の書類が届きました。全てにサインをするよう宰相様から仰せつかっています」
「あのタヌキ爺め……」
ここ連日、近々行われる国を挙げての収穫祭に向け、アルバートは朝から晩まで仕事に追われていた。その原因とも言えるのが総指揮官を務めるこの国の宰相であり、彼は文字通り次から次へと遠慮なしにアルバートへ仕事を割り振る。サインのし過ぎでアルバートがゲシュタルト崩壊を起こすのも時間の問題だった。
アルバートは目を閉じて浅く息を吐く。己を律するのに必要な行為だった。
「ミア」
「はい」
「あれを用意してくれ」
主人の雑な指示にミアは目を瞬かせるも、すぐさま小さく頷いた。
仄かに漂う甘い香り。
執務机から抜け出してローテーブルへと移動したアルバートは、ソファに深く腰をかけると早速ミアが用意したひと口サイズのチョコレートを手に取った。
「巷で最近人気の菓子らしい」
淹れた紅茶を主人の前に置いたミアは「それはとても美味しそうですね」と言葉を返す。
「俺は甘いものはさほど得意じゃないけどな」
「ご主人様が食べたくて取り寄せたのではなかったのですか?」
ミアは首を傾げる。
「いや。お前に食べさせようと思って」
そう言うや否やアルバートは自分の隣を指差した。
「ミア、ここ座れ」
「え?」
「早く」
言われるがままミアがアルバートの隣に腰を下ろすと、次いで口元にチョコレートが差し出される。
「口開けろ」
「でも」
「命令」
なんとも横暴である。ミアは困惑した。
けれどもその二文字を使われてしまえばミアは従う他に道がない。おずおずと小鳥のように小さく口を開くと、すぐにチョコレートが放り込まれた。
口の中で滑らかに踊るチョコレートの蕩けるようなその味わいに、ミアは感嘆の声を漏らす。そんな彼女の様子を横から見ていたアルバートはどこか愉しげだ。
「美味いか?」
アルバートの問いにミアはコクコクと頷いた。
「おいひいれす」
「よし。それならもっと食え」
そうして新しいチョコレートがミアの口元に再び差し出される。
「あの……自分で食べられます」
「却下だ」
清々しいほどの笑顔。取り付く島もなかった。
アルバートの手から次々与えられるチョコレートたちをミアは口の中に含んでゆく。そんな二人の姿はさながら親鳥と雛のようだ。
「癖になるな、これ」
アルバートがぽつりと零す。
「……もういっそのこと仕事なんか放り投げてもっと旨いものでも食いに行くか」
「だめですっ」
「このチョコレートよりもっと旨いものを食わせてやると言っても?」
「だ……だめですっ」
なんとも魅力的な誘いに葛藤するも、それを押しのけ慌てて抗議する己のメイドを前に、アルバートはやっぱり愉しげに笑うだけだった。
六、君は今
その日、アルバートの屋敷に一人の男が姿を現した。民族衣装風の装いをした糸目が特徴的な壮年の男で、名をククリと言う。ククリは商人だ。海を跨いで北から南まで、世界各地で仕入れた稀少品や珍品といった類のものを数多く取り揃えている。アルバートはそんなククリの顧客のうちの一人だった。
ククリは神出鬼没な男だ。呼べば来ることもあるし、来ないこともある。呼んでもいないのに自らやって来ることもある。今回は後者だった。二人は応接間のテーブルを挟んで向かい合う。
「来るなら来るとせめて前もって連絡を寄越せ。こっちだって四六時中屋敷に居るわけじゃない」
「それだとつまらないでしょう。オドロキは人生を豊かにするのですよ、閣下。居なければそれまで。私はお暇するだけです」
目の前にいる男の無茶苦茶な言い分に、相変わらず食えない男だとアルバートは小さく息を吐いた。それでも彼を邪険に扱わないのは、ククリが突然アルバートの前に現れるときは大抵、目を見張る商品を仕入れてきているからだ。アルバートが請け負う仕事に役立つ物も存外多く、ククリが揃える品はなるべく目を通しておきたいというのがアルバートの本音であった。
「ですが、今回ばかりは居てくださって良かったです。貴方にどうしても見せたいモノがありましたので」
どこか上機嫌に笑うククリにアルバートは訝しむ。
「……お前がそんなことを言うのは珍しいな」
「きっと貴方は気に入りますよ。何せ、滅多に手に入らない至高の逸品ですから」
そう言うや否や、ククリはおもむろに立ち上がると、応接間の扉へ向かって歩き出す。
「おい。どこへ行く」
「もちろん、その至高の逸品を今から貴方にお見せするのです。扉の外で待たせているので」
「なに……?」
アルバートは思わず立ち上がる。そうしてククリが放った言葉の意味を、理解するよりも先に知ることとなった。
「待たせたね。君の新しいご主人様が中でお待ちだ」
ククリに促されるまま応接間に入って来たのは、彼の言う至高の逸品などではなく。
「……待て。何だそれは」
「見てお分かりになりませんか? 人間の子どもです」
まだ齢十五ほどの少女だった。
「どういうことか説明して貰おう」
アルバートは苛立っていた。理解など到底出来そうにもないこの状況を、糸目の商人の口から一から十……いや、百まできっちり説明させなければ気が済まないくらいには。そんなアルバートの様子とは裏腹に、ククリははて?と首を傾げる。
「説明も何も、見ての通りです、閣下。仕入れたものが人間の子どもだった。ただそれだけのこと」
「そういうことを聞いているんじゃない!」
アルバートの怒号にククリは肩を竦めてから、自分の傍らに立つ少女を見やる。ようやく観念したのか、ククリは仕方なしという風な具合でついぞ口を開いた。
ここからは少々きな臭い話にはなりますが……。彼女はいわゆる、奴隷区出身の子どもでして。薄汚い大人たちに一日中こき使われ、使い物にならないと捨てられたかと思えばまたすぐに別の大人に拾われ、かと思えば闇オークションにかけられ。そうして終いには、海の向こうへと売り飛ばされた。
私はとある知人のツテで得た情報の中に、私が懇意にしている仕入れ先が集まる区域で秘密裏に人身売買が行われていることを知りました。閣下、貴方もご存知の通り、私は商人の顔の他にもうひとつ別の顔を持っています。職業柄、秘匿義務がありますのであまり詳しいことは言えませんが、情報屋としての仕事の依頼で、上層部からある通達があったのです。そうして私は人身売買が行われている区域に潜入し、そこで見つけたのがこの少女だったというわけです。ええ、そうです。売られていたのです。……ただ、私も仕事ですので。情報を得て上に報告するにはこれはまたとない絶好の機会だと思いましてね。私は調査を続けるために、少々特殊な手を使って金銭の発生しない取引を見事に成立させ、こうして彼女を引き取ったというわけです。
「……話は大体分かった。お前の言うその調査とやらが終わって、ここまで足を運んだということも含めてな」
「さすが閣下。話が早くて助かります」
そう朗らかに笑うククリに対し、アルバートの眉間の皺は深くなるばかり。少女は終始無言だった。光のない瞳がぼんやりと虚を見つめている。
「……その子どもを体よく押し付けようというわけか」
「いえいえ。滅相もございません。貴方様が商品を気に入らないのであれば、商談はこれにておしまい。あとは持ち帰るだけに御座います」
ククリはやはり笑うだけだった。底の見えない、取って付けたような静かな笑みだ。
「持ち帰ってどうする。お前が引き取るわけでもあるまい」
「私とてそうしてあげたいのは山々なのですがね。あくまでも私は一介の商人に過ぎませんので、この子どもの生まれやこれまでのいきさつなんかの情報がどこかで漏れたりでもすれば、さすがに仕事を続けてはいられなくなります。いつまでも手元には置いておけないのですよ。……話が逸れました。つまるところ貴方様が気に入らないのであれば、別のお客様の元へと赴くだけに御座います」
いかがなさいますか?とククリが問う。
「……なにが一介の商人に過ぎない、だ。お前だってやってることはなんら変わりないだろ」
「嫌ですねえ、私をあんな薄汚い奴らと一緒にしないで貰いたいものです。私はこの少女の幸せを願っていの一番に貴方の元へとやって来たのですから。……閣下の力をもってすれば、彼女に付き纏う陰湿な影を揉み消し潰すことなど、造作もないでしょう?」
開いた二つの眼がアルバートを捉える。有無を言わさぬその視線にアルバートは押し黙った。
「それにですね。これは閣下にとっても良いことだと思うのです」
先ほどまでの剣呑な雰囲気はどこへやら、糸目に戻った目の前の男はからりと笑って見せた。ククリは人差し指を弾く。
「幼いころに父君と母君を亡くされてから、貴方はもうずっとお独りでしょう。親しい者も居らず……いえ、これに関しては閣下が寄せ付けないだけでしたね。ともかく、新しい家族を迎え入れるということはとても素晴らしいことだと思いませんか?」
開いた口が塞がらないとはまさしくこのことを言うのだとアルバートは思った。突然何を言い出すかと思えば。思わず頭を抱える。
やはり食えない男だ。こんな男の言うことなど、聞いてやる義理もない。……ないのだが、アルバートは己と一度たりとも目が合わないこの少女のことが、どこか引っかかっていたのもまた事実。
アルバートは深く息を吐く。他人の手の上で転がされるなど、この社会を生き抜くうえでは決してあってはならないことだったというのに。
「……分かった。その子どもは俺が引き取る」
「閣下ならきっとそう仰るだろうと思っておりました」
喜びを表すように、ククリは一度手を叩く。
「それで? 一体いくら支払えばいいんだ」
「そのことなのですが、今回お代は結構です」
アルバートは目を見開いた。根っからの商人気質であるこの男が、無償で他人に何かを与えることなど今まで一度もなかったからだ。
「……タダほど怖いものはないだろう。何が目的だ?」
訝しむアルバートに、まるで私が詐欺師のような言い回しをしますねと、ククリは大袈裟に眉を八の字に下げた。似たようなものだろ。そこまで出かかった言葉をアルバートは呑み込む。
「彼女の価値は貴方が決めるのですよ、閣下。金など目にもくれないほどに」
「どういう意味だ」
「閣下であれば、近いうちにでも自ずと答えが見えてくるはずです」
ククリはそれ以上、何も言うことはなかった。
屋敷を出ようとしたククリがふと思い出したように振り返る。
「ああ、そうでした。彼女のことはなるべく丁重に扱ってあげて下さいね」
「……なぜ?」
金銭面でのやり取りこそなかったものの、アルバートがこの少女をククリから買った時点で、もうこの屋敷の使用人であることは決定事項だった。アルバートはククリに問う。
「もちろん、彼女の新しい主は閣下なのですから、貴方が彼女をどう扱おうと私が口を出す権利はもはや少しもありません。……ただ、彼女、右目が見えていないようなのです」
「右目が?」
ククリの言葉にアルバートは少女を見やる。
「薬品か何かをかけられたのでしょう。彼女の出身を考えれば別段珍しくもないことです」
アルバートは少女のことを何も知らない。それでも彼女の主となった以上、アルバートは知っていかなければならない。例えこの少女が嫌がろうとも。
「蝶よ花よと接しろとは言いません。ただ、彼女が新しい地での生活に慣れるまでのほんの少しの間だけ、どうか寄り添ってあげて欲しい。……そんなしがない商人の囁かな願いを、頭の片隅にでも置いておいて貰えれば」
ククリはそれだけ言い残して、今度こそ屋敷から出て行った。そうしてすぐさま訪れる静寂を破ったのは、言うまでもなくこの屋敷の主人だった。
「お前、名前は?」
問いかけて初めて、少女はアルバートに目を向けた。片目が見えないせいなのか、どこかぼんやりしているようにも見える。
少女は首を横に振る。元よりないのか、それとも忘れたのか、はたまた捨てたのか。それを知る術など、今のアルバートにあるはずもない。
「なら、今からお前の名前はミアだ。異論は認めない。お前は俺が買った。俺の言うことには全て従え。覚えてもらうこともやってもらうこともそれなりにある。せいぜい音を上げない程度に働いてくれよ」
ミアと名付けられた少女はアルバートを静かに見つめたまま、か細い声で返事をした。
目を開けると見慣れた天井が視界に入る。ここが自分の寝室であることを自覚するのにそう時間はかからなかった。
懐かしい夢を見た。ミアと出逢った日の夢だ。
ぼんやり天井を眺めていると、不意にアルバートの上に影が差した。覗き込むようにしてミアがアルバートを見下ろしている。
「おはようございます、ご主人様。朝食の準備が出来ております」
アルバートからの返事はない。その代わり、伸ばした手がミアの頬に触れる。存在を確かめるかのようにひと撫ですると、そのままゆっくりミアの右目の位置まで移動して、今度は彼女の目尻を気遣うように優しく触れた。
「……目、痛くないか」
アルバートの口から紡がれたその問いに、ミアは一呼吸置いてから、「はい」と小さく頷く。
「もう痛くありません」
Mia(ミア)・・・「私の」
五、物憂げな空
今日は朝から暗く厚い雲が空を覆っていた。窓から覗く物憂げな空を、一人部屋にしては無駄に広すぎるこの寝室の持ち主が静かに見上げる。
「これから雨が降るぞ」
主人の寝台のシーツを今まさに回収しようとしていたミアは、アルバートが零した言葉に手を止めた。
「……雨ですか?」
「ああ。それも、嵐に近いやつだな」
それからは早かった。
アルバートの言った通り、ぽつぽつと空から雨が降り出した。風も吹き始め、木々を大きく揺らす。
「本当に降ってきましたね」
アルバートと肩を並べてミアは窓から空を見上げる。次第に強まる雨脚に、何故かミアは得も言われぬ不安に襲われた。
「すぐに止むでしょうか」
ミアの問いにアルバートは肩を竦める。
「さてな。このあと雷あたり落ちそうな気配だが」
「かみなり?」
ミアの口から紡がれたそのたどたどしい四文字の音に、アルバートは隣に立つ少女へと目を向ける。
「何だ。お前、雷も知らないのか」
「はい。知りません」
ミアの返答に、アルバートはどこか愉しげに「へえ」と相槌を打つ。
「まあ、この辺りは降水量が少ない地域で有名だからな。雨自体あまり降らないし、雷を知らずともおかしくはない」
「……そうなんですか。かみなりとは、どんなものなのでしょう」
己を見上げる純粋無垢な少女を前に、アルバートはニッと口角を上げる。
「それなら自分の目で確かめてみるといい」
不思議そうにするミアに、アルバートは「今に分かる」と再び窓の外を見やった。
――刹那、フラッシュにも似た眩い光が、ミアの片側の視界一面を白く彩った。思わず目を瞑ったのもつかの間、まるで空(くう)を真っ二つに裂くような、聞いたこともない轟音がミアの鼓膜を揺るがす。
驚きのあまり声すら出ず、腰が抜けてその場にへたり込みそうになるミアの体を、アルバートがすかさず支える。
「大丈夫か?」
「……は、はい……」
鳩が豆鉄砲喰らったような顔をする彼女にアルバートがたまらず笑っていると、部屋の照明が突然消えた。
「あ……電気が……」
「停電だな。ブレーカーが落ちたんだろ。ちょっと見てくるから、お前は大人しくここで待ってろ」
「えっ」
この暗い中に、たった一人で?
気付けばミアは、部屋を出ていこうとするアルバートのジャケットの裾を強く握りしめていた。
「い、行かないで……」
懇願するミアの声は弱々しく、ジャケットを掴む手は震えている。暗くてよく見えないが、きっと彼女は今にも泣き出しそうな顔をしているに違いない。アルバートは己の一連の行いをすぐさま悔いた。今この瞬間、自分自身が目の前にいたのなら、有無を言わさず殴りつけていたかもしれない。
「……悪かった。悪ふざけが過ぎた。どこにも行かない」
アルバートはミアに向き合うと、そのまま優しく抱きしめる。ミアの小さな背中をさすってやれば、彼女の震えは次第に収まっていった。
「ちゃんとそばにいるから」
自分を包み込む温もりと、優しく諭すようなその声に、ミアは知らず知らずのうちにほうっと息をつく。同じようにアルバートの背中におずおずと両腕を回せば、アルバートはそれに応えるかのようにさらに力強くミアを抱きしめた。
雷はいつの間にか鳴り止んでいた。二人の間に言葉はないまま。雨はまだ、降り続いている。
四、小さな命
ミアの勤め先であるこの屋敷には、屋敷の主人であるアルバートと、ハウスメイドとして住み込みで働くミアのたった二人しかいない。とは言ったものの、年中二人きりというわけでもなく、稀に客が訪れることもしばしばあるのだ。
「そんなところでしゃがみ込んで何してるんだ」
不意に頭上からアルバートの声が降ってきて、ミアはぱっと視線を上げた。
「花壇に水をやりにいくと出て行ってからいつまで経っても戻ってこないから探しにきた」
「あ……すみません。珍しいお客様がいらしていたので、どうしたものかと」
ミアはそう言うと再び視線を落とす。
客?と首を傾げたアルバートも同じようにミアの視線を辿れば、その先にいた正体に目を丸くした。
「……猫?」
まだ仔猫のようだった。毛並みに艶はなく、土汚れも酷い。それでいて目も当てられないほどにやせ細っている。
「花に水をあげようとしたら、花壇から鳴き声が聞こえてきて。探してみたら、この子を見つけました」
ミアはそっと仔猫を持ち上げて腕に抱える。羽根のような軽さにミアはただただ驚いた。
「親猫とはぐれてうちの屋敷に迷い込んだか」
「もうずっと鳴き止まなくて……」
ミアの言葉通り、仔猫はか細い声で必死にみゃあみゃあと鳴いている。
「腹を空かせているんじゃないか」
「お腹を……」
空腹でも何も口にすることができないあの過酷さを、ミアは誰よりもよく知っていた。湧き上がるのは名も知らぬ感情。ミアは僅かな力で仔猫を抱きしめると、意を決してアルバートを見上げる。
「あの、ご主人様」
何を感じ取ったのか、アルバートは己に注がれる真っ直ぐな視線から逃れるように思わず目を逸らした。
「……分かったから。そんな目で俺を見るなよ」
アルバートはたまらず息を吐く。
「いきなり固形物を与えるのはコイツの胃の負担を考えればあまり良くないだろ。ミルクでもあげてみたらいいんじゃないか」
「! そ、そうします……!」
アルバートの提案にミアはぱあっと表情を輝かせると、こくこくと頷く。仔猫を抱えて小走りで屋敷の中へ戻って行くミアの背を目で追いながら、アルバートは自分の頭を乱暴にかいた。
「……なんだあの顔。初めて見たぞ」
アルバートはひとりごちる。もちろんそれを聞く者など、誰一人としてここにいるはずもない。
屋敷の庭で仔猫を拾ってから早十日。
ミアは時間さえあれば仔猫の世話を焼いていた。餌を与え、体を洗い、丁寧にブラッシングを施し、玩具で構い、夜は寝床を共にした。そんなミアは今日も新しく仕入れた猫じゃらしを元の白さと柔らかな肉付きを取り戻した仔猫の前に楽しげにチラつかせている。
「……まるで猫同士の戯れだな」
そんなミアの様子を肘をつきながら傍目で眺めていたアルバートはぽつりと呟いた。
「ご主人様、今なにか仰いましたか?」
「別に何も。……というかお前、近頃そいつにばかり構いすぎじゃないか? お前の主人は誰だ?」
どこか刺々しく尋ねてくるアルバートに、ミアはぱちくりと目を瞬かせる。
「アルバート様です」
分かりきったミアの返答にもなお、アルバートは不満げに口をむっと尖らせる。
「分かっているなら、もっと……」
そこまで言いかけて口を噤んだ主人と、じゃれる仔猫を交互に見比べたミアは、立ち上がりアルバートの前まで歩くと、手に持っていた猫じゃらしを主人の顔の前でユラユラと揺らし始めた。
「……おい、何をしている」
「ご主人様も猫じゃらしで遊びたいのかな、と」
屈辱にも似た感情に顔を赤くしたアルバートは、ふざけるなと声を上げようとした次の瞬間、来客を知らせるベルの音が屋敷中に響いた。ミアとアルバートは目を見合わせる。
「私が出ます」
「頼む。応接間に通してくれ」
屋敷に訪れたのは五十代半ばのふくよかな女性だった。彼女は玄関先でミアの後をついて回る仔猫を目にするなり、その場でいきなり感嘆の声を上げた。
「まあ! やっぱりここにいたのね!」
その言葉を聞いて、ミアは仔猫との別れがいきなりやってきたことをすぐさま悟った。動揺していることがバレぬように、ひとまずアルバートが待つ応接間まで女性をお連れする。その間、ミアの心臓はいつも以上に大きく脈を打っていた。
「ああ、良かった……! 仔猫が居なくなってから親猫であるこの子を連れて連日外を探し回っていたんです。そうしたら今日、ここのお屋敷を前に一歩も動かなくなってしまって。もしかしてと思って訪ねてみたら、大当たりでしたわ」
夫人の足元には毛艶の良い真っ白で美しい猫がいた。屋敷の庭で拾った仔猫をそのまま大きくしたような、そんな猫だ。女性の話を聞くに、どうやら仔猫は彼女の飼い猫だったらしい。まるで再会を喜ぶように、親猫は仔猫の顔を執拗に何度も舐め、仔猫はそれに応えるように親猫に擦り寄っている。
「ごめんなさいね、迷惑をかけてしまって……。仔猫を保護してくれて本当にありがとう」
「いいえ、見つかって良かったです。保護のことなら当たり前のことをしただけですから、どうかお気になさらず」
深くお辞儀をする夫人を前に、アルバートはさらりと微笑む。
一介の使用人に過ぎないミアが、己の主人とその客のやり取りに口を挟むことなど到底許されるはずもなく、彼女に出来ることと言えば、アルバートの後ろでただ静かに控えていることくらいだった。
「帰り道、お気をつけて」
「ええ、ありがとう。このお礼は必ず」
夫人はそれだけ言い残すと、親猫と仔猫を連れ立って屋敷を後にした。
まともにお別れの挨拶をすることもままならず、仔猫はミアの元から去って行った。訪れる静寂。心にぽっかり穴が空いたような、何とも言えぬ喪失感に、ミアはどうしようもなく泣きたくなった。
「ミア」
ソファーから立ち上がったアルバートが、ミアの名を呼ぶ。
「おいで」
命令口調とは違う、あやすようなその声に、ミアは逆らうことなくゆっくりとアルバートに近付く。
次いで、アルバートの大きな手のひらが、ミアの前髪をまるで宝物を扱うかのように優しく撫でた。
「お前は確かに、消えかけていたひとつの小さな命を救ったんだ。それを誇れ。……お前はよく頑張ったよ」
アルバートの言葉に、ついぞミアの頬を一粒の涙が伝う。
「それに、だ」
アルバートの指がミアの涙を拭う。
「お前には仔猫じゃなく、俺の世話をするという本来の仕事があるだろ。俺はここ数日、お前がいつ俺の世話役を降りて仔猫を主人にすると言い出すのかと気が気じゃなかったぞ」
アルバートにじっとりと睨まれたミアは、ぽかんと口を開ける。
「……私のご主人様は、アルバート様だけです」
「言ったな。なら、ここ数日の穴を埋めるようにしばらくは充分に俺を構えよ。きちんと行動で示せ」
揶揄うような主人の口ぶりに、ミアは心が軽くなるのを確かに感じて、小さく頷いた。
「分かりました。すぐにでも新しい猫じゃらしを買って参ります」
「それは買うな」