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四、小さな命
ミアの勤め先であるこの屋敷には、屋敷の主人であるアルバートと、ハウスメイドとして住み込みで働くミアのたった二人しかいない。とは言ったものの、年中二人きりというわけでもなく、稀に客が訪れることもしばしばあるのだ。


「そんなところでしゃがみ込んで何してるんだ」
不意に頭上からアルバートの声が降ってきて、ミアはぱっと視線を上げた。
「花壇に水をやりにいくと出て行ってからいつまで経っても戻ってこないから探しにきた」
「あ……すみません。珍しいお客様がいらしていたので、どうしたものかと」
ミアはそう言うと再び視線を落とす。
客?と首を傾げたアルバートも同じようにミアの視線を辿れば、その先にいた正体に目を丸くした。
「……猫?」
まだ仔猫のようだった。毛並みに艶はなく、土汚れも酷い。それでいて目も当てられないほどにやせ細っている。
「花に水をあげようとしたら、花壇から鳴き声が聞こえてきて。探してみたら、この子を見つけました」
ミアはそっと仔猫を持ち上げて腕に抱える。羽根のような軽さにミアはただただ驚いた。
「親猫とはぐれてうちの屋敷に迷い込んだか」
「もうずっと鳴き止まなくて……」
ミアの言葉通り、仔猫はか細い声で必死にみゃあみゃあと鳴いている。
「腹を空かせているんじゃないか」
「お腹を……」
空腹でも何も口にすることができないあの過酷さを、ミアは誰よりもよく知っていた。湧き上がるのは名も知らぬ感情。ミアは僅かな力で仔猫を抱きしめると、意を決してアルバートを見上げる。
「あの、ご主人様」
何を感じ取ったのか、アルバートは己に注がれる真っ直ぐな視線から逃れるように思わず目を逸らした。
「……分かったから。そんな目で俺を見るなよ」
アルバートはたまらず息を吐く。
「いきなり固形物を与えるのはコイツの胃の負担を考えればあまり良くないだろ。ミルクでもあげてみたらいいんじゃないか」
「! そ、そうします……!」
アルバートの提案にミアはぱあっと表情を輝かせると、こくこくと頷く。仔猫を抱えて小走りで屋敷の中へ戻って行くミアの背を目で追いながら、アルバートは自分の頭を乱暴にかいた。
「……なんだあの顔。初めて見たぞ」
アルバートはひとりごちる。もちろんそれを聞く者など、誰一人としてここにいるはずもない。







屋敷の庭で仔猫を拾ってから早十日。
ミアは時間さえあれば仔猫の世話を焼いていた。餌を与え、体を洗い、丁寧にブラッシングを施し、玩具で構い、夜は寝床を共にした。そんなミアは今日も新しく仕入れた猫じゃらしを元の白さと柔らかな肉付きを取り戻した仔猫の前に楽しげにチラつかせている。
「……まるで猫同士の戯れだな」
そんなミアの様子を肘をつきながら傍目で眺めていたアルバートはぽつりと呟いた。
「ご主人様、今なにか仰いましたか?」
「別に何も。……というかお前、近頃そいつにばかり構いすぎじゃないか? お前の主人は誰だ?」
どこか刺々しく尋ねてくるアルバートに、ミアはぱちくりと目を瞬かせる。
「アルバート様です」
分かりきったミアの返答にもなお、アルバートは不満げに口をむっと尖らせる。
「分かっているなら、もっと……」
そこまで言いかけて口を噤んだ主人と、じゃれる仔猫を交互に見比べたミアは、立ち上がりアルバートの前まで歩くと、手に持っていた猫じゃらしを主人の顔の前でユラユラと揺らし始めた。
「……おい、何をしている」
「ご主人様も猫じゃらしで遊びたいのかな、と」
屈辱にも似た感情に顔を赤くしたアルバートは、ふざけるなと声を上げようとした次の瞬間、来客を知らせるベルの音が屋敷中に響いた。ミアとアルバートは目を見合わせる。
「私が出ます」
「頼む。応接間に通してくれ」


屋敷に訪れたのは五十代半ばのふくよかな女性だった。彼女は玄関先でミアの後をついて回る仔猫を目にするなり、その場でいきなり感嘆の声を上げた。
「まあ! やっぱりここにいたのね!」
その言葉を聞いて、ミアは仔猫との別れがいきなりやってきたことをすぐさま悟った。動揺していることがバレぬように、ひとまずアルバートが待つ応接間まで女性をお連れする。その間、ミアの心臓はいつも以上に大きく脈を打っていた。

「ああ、良かった……! 仔猫が居なくなってから親猫であるこの子を連れて連日外を探し回っていたんです。そうしたら今日、ここのお屋敷を前に一歩も動かなくなってしまって。もしかしてと思って訪ねてみたら、大当たりでしたわ」
夫人の足元には毛艶の良い真っ白で美しい猫がいた。屋敷の庭で拾った仔猫をそのまま大きくしたような、そんな猫だ。女性の話を聞くに、どうやら仔猫は彼女の飼い猫だったらしい。まるで再会を喜ぶように、親猫は仔猫の顔を執拗に何度も舐め、仔猫はそれに応えるように親猫に擦り寄っている。
「ごめんなさいね、迷惑をかけてしまって……。仔猫を保護してくれて本当にありがとう」
「いいえ、見つかって良かったです。保護のことなら当たり前のことをしただけですから、どうかお気になさらず」
深くお辞儀をする夫人を前に、アルバートはさらりと微笑む。
一介の使用人に過ぎないミアが、己の主人とその客のやり取りに口を挟むことなど到底許されるはずもなく、彼女に出来ることと言えば、アルバートの後ろでただ静かに控えていることくらいだった。
「帰り道、お気をつけて」
「ええ、ありがとう。このお礼は必ず」
夫人はそれだけ言い残すと、親猫と仔猫を連れ立って屋敷を後にした。
まともにお別れの挨拶をすることもままならず、仔猫はミアの元から去って行った。訪れる静寂。心にぽっかり穴が空いたような、何とも言えぬ喪失感に、ミアはどうしようもなく泣きたくなった。
「ミア」
ソファーから立ち上がったアルバートが、ミアの名を呼ぶ。
「おいで」
命令口調とは違う、あやすようなその声に、ミアは逆らうことなくゆっくりとアルバートに近付く。
次いで、アルバートの大きな手のひらが、ミアの前髪をまるで宝物を扱うかのように優しく撫でた。
「お前は確かに、消えかけていたひとつの小さな命を救ったんだ。それを誇れ。……お前はよく頑張ったよ」
アルバートの言葉に、ついぞミアの頬を一粒の涙が伝う。
「それに、だ」
アルバートの指がミアの涙を拭う。
「お前には仔猫じゃなく、俺の世話をするという本来の仕事があるだろ。俺はここ数日、お前がいつ俺の世話役を降りて仔猫を主人にすると言い出すのかと気が気じゃなかったぞ」
アルバートにじっとりと睨まれたミアは、ぽかんと口を開ける。
「……私のご主人様は、アルバート様だけです」
「言ったな。なら、ここ数日の穴を埋めるようにしばらくは充分に俺を構えよ。きちんと行動で示せ」
揶揄うような主人の口ぶりに、ミアは心が軽くなるのを確かに感じて、小さく頷いた。
「分かりました。すぐにでも新しい猫じゃらしを買って参ります」
「それは買うな」








2/25/2024, 8:31:12 AM