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2/24/2024, 5:36:56 AM

三、Love you
「ワルツを踊れるか」
窓から差し込む月明かりがぼんやり書斎を照らす夜。走らせていたペンの動きを止め、この部屋の主であるアルバートはふと思い出したようにすぐ傍に控えていたハウスメイドの少女に問いかけた。
「わるつ」
聞き慣れぬ三文字にミアは首を傾げる。
「ダンスだ」
「おどれません」
「だろうな」
今の流れでこの少女が踊れぬことを想像するのはアルバートにとって容易かった。
「近々公爵家主催の晩餐会がある」
主人のその言葉に、ミアは今朝方、この国有数の公爵家から速達で届いた一通の書簡を思い出した。
「招待状のやつですか」
自ずと答えを導き出したミアに、アルバートは小さく頷く。
「そうだ。先日十六を迎えた娘のデビュタントを祝うものらしい」
アルバートの口から自然とため息が漏れる。
「その娘のエスコート役を頼まれた。……公爵直々の頼みだからな。断ろうにもまず無理な話だ」
「それは素敵ですね」
「今の俺の顔を見てもう一度同じことが言えるのか、お前は」
「……お疲れですか? そろそろお休みになられてはいかがでしょう。夜も遅いです」
ズレた気遣いを働かせるミアに、そうじゃないとアルバートは苦虫を噛み潰したような顔で睨みつけた。
「晩餐会の余興としてダンスがある。エスコート役を買うということは初回のダンス相手も務めなければならないんだ。……考えるだけで気が滅入る。お前と話している方がまだマシだと思うくらいにはな」
またもため息を零す主人に何と声を掛けるべきかミアが逡巡していると、アルバートはそんな彼女を他所におもむろに立ち上がった。
「手を貸せ」
「えっ」
アルバートがミアに近付いたのもつかの間、気付けば二人は部屋の中でステップを踏んでいた。
「……あの、ご主人様」
自分の置かれている今の状況が理解出来ずに困惑するミアは、おずおずと己のダンスパートナーに声を掛ける。
「なんだ」
「私、踊れません」
「踊れてるだろ」
「それはご主人様がリードして下さっているからです」
「それがダンスだ。お前は何もせず、そのまま俺に体を預けていればいい」
そう言われてしまえばミアは口を噤むしかない。二人はそのまま、音のない部屋の中でワルツのステップを踏み続ける。ワン、ツー、スリー。ワン、ツー、スリー。
「……上手いな。踊るのは初めてなのか?」
「はい。初めてです。……わっ」
アルバートの問いにミアは答えるや否や、片足を踏み外してバランスを崩した。倒れ込むミアをアルバートは優しく抱きとめる。
「ご、ごめんなさい……」
せっかく上手に踊れていたのに。
自分の片目が見えないことを悔やんだのは、果たしてこれで何回目だろうか。ミアは俯いた。
「気にしなくていい。寧ろ、どこぞの令嬢と踊るより先にお前と踊りたかった俺の我儘を聞いて貰えて助かったくらいだ」
「えっ?」
それは、どういう。
顔を上げるとアルバートと目が合う。
「……その昔、 "I love you"の一文を『愛してる』ではなく『月が綺麗ですね』と訳した男がどこかの国にいたらしい」
アルバートの口から唐突に紡がれた台詞に、ミアは窓から覗く白金色の月を見上げる。夜の空に静かに佇むそれは、いっとう美しく輝いていた。
「ご主人様は物知りですね」
「……もういい」
相変わらずズレた返答をするミアにアルバートはたまらずそっぽを向く。気持ちを切り替えるべく軽く咳払いをすると、アルバートは再び目の前の少女に向き合った。
「もう一度、私と踊って下さいますか。レディ」
差し出された手に自分の手を重ねる。言葉はなかったが、それがミアの答えだということは明白だった。

そうして始まる軽やかなステップ。いつまでもワルツを踊り続ける二人を、夜の空に浮かぶ月だけが、優しく見守っていた。





2/22/2024, 3:34:25 PM

二、太陽のような
「ごめんなさい」
華奢な少女の口から零れ落ちたか細い謝罪はじっとりと湿った夏の空気と同化した。今にも消えて無くなりそうな、そんな具合だ。
「咲かせろとは言ったが」
枯らせとは言っていない。
己の主人から紡がれる淡々としたその言葉に少女はつ、と目を伏せる。
「ごめんなさい」
繰り返される謝罪はこの青年を前にすれば意味など持たないことくらい、何事にも疎く無知なミアでも理解は出来た。それでもたった齢十五の、ましてや片目の見えない欠陥品である自分が彼に出来ることなどたかが知れている。ミアの精一杯の謝罪だった。


数日前にようやく蕾をつけたはずの花壇の向日葵は、大輪を咲かせることなくその生涯を終えた。
「水をたくさんあげれば、それだけ早く咲くと思ったのです」
植えた向日葵の蕾が花開く瞬間を誰よりも焦がれていたミアの良かれと思って取った行動が、どうやら裏目に出たらしい。真実を知ったアルバートの吐いた小さなため息にミアは肩を揺らす。
「……ごめんなさい」
三度目の謝罪。変わらず目は伏せたまま。
「別にいい。お前が無知なことを知っていながらきちんと手順を教えなかった俺が悪い」
花壇に背を向けて歩き出したアルバートの後を、ミアはお仕着せのスカートの裾を翻して慌てて付いて行く。片目が見えないせいでバランスが上手く取れず、少々不格好な走りになっていたが、そんなことを気にしている余裕など今のミアにはあるはずもなかった。
「待って、待ってください。種を。向日葵の新しい種を買ってきます。もう一度、植えます。今度は絶対に失敗しません。ですから……」
ミアの必死な訴えが通じたのか、アルバートは動かしていた足を止めおもむろに振り返る。
「向日葵の開花の時期を考えれば今植えても無駄になるだけだ。また一年後だな」
「いちねん、とは。あと何回眠れば良いのでしょう」
「三百六十五回」
「さんびゃく……」
途方もない数字にミアの頭上に星が廻る。正確に言えば三百と少しなのだが、狼狽えるミアの様子を尻目に見ていたアルバートはそんなことは些事だと小さくかぶりを振った。
「そもそもの話、お前が生まれてこのかた向日葵を見たことがないなんて大袈裟に言うから種をやっただけだ。これで花を咲かせろとは確かに言った。言ったが、それは別に命令だったわけじゃない。ただ、実物を見ることが出来れば、さすがのお前も……」
アルバートはそこまで言いかけて口を閉じた。危うく余計なことまで口にするところだったと嘆息する。
「ご主人様。わたしが、何でしょう」
少女は主人に問いかける。少女の片側の瞳には、一片の曇りもない。
「いや、何も。……暑いな。屋敷の中に戻る。珈琲を淹れてくれ」
「承知いたしました」
アルバートは思案した。己に仕える笑うことを知らないこの無垢な少女も、黄色い大輪を咲かせる美しい向日葵をその目で見ることが出来れば、太陽にも似た花のような笑みを浮かべるのではないかと。……結果として、失敗に終わったわけだが。そんな主人の隠された密かな願いを、ミアはまだ、知る由もない。





2/22/2024, 1:20:03 AM


粒子が舞う。1ミクロンにも満たない。揺蕩う電子の海。何も無い。光はある。目を凝らす。爪先に宇宙。無から有へ。星は回帰する。有から有へ。星々のワルツ。0に1を足す。生まれる。幽かに灯る。芽吹く。貴方がいる。私がいる。此処で息をしている。

『0からの』

2/20/2024, 3:36:55 PM

一、同情
身の丈に合わない恋であることをもう長いこと自覚している。断捨離するにはまたとない機会であったことは間違いなかったはずだ。彼女にとっての最善を選んだ。そこに自分の存在は不必要だったというだけの話。だから手放した。想いは棄てた。巣立つ雛鳥の門出を祝わずして何になる?後悔先に立たずということわざが世に存在するくらいだ。死してなお僕は僕自身を赦しはしないだろう。明白だった。飛び立つ彼女の後を決して追うことのないように背中に生えた透明な翼を自ら手折る。血は流れなかった。

愛に鳴くはずの籠の中の鳥は、その時たしかに哀に泣いていた。貴方の傍にいたかったとしゃくり上げる彼女の頬を伝う滴を拭ってやることなど出来るはずもなく。彼女のことをまるで分かっていなかった。分かったような気がしていただけだった。己の愚かさと不甲斐なさを心底呪った。僕は彼女を、どう愛せばよかったのだろう。

--手記 xxxx.xx.xx




2/19/2024, 3:51:57 PM


空は澄んでいる。冬を食めば肺が凍った。瞬くオリオンの点と点を結ぶこと幾数十。どこからともなく陽だまりの声が聞こえてくる。永く途方もない旅の終わりに春を探している。枯葉が土に還る音を合図にして。

『枯葉』

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