私、相羽愛華(あいば まなか)の通う学園には御三家と呼ばれる三大巨頭がいる。学園内の生徒たちの注目の的で、成績優秀、容姿端麗など、四字熟語が本当に似合ってしまう人たちで、三人はいつも一緒に行動していて、登下校も一緒なのを加味すると、仲がいいことが容易に推測できる。今日も学園の朝はその三人で持ち切りだった。
「ねぇ!愛華!今日の御三家見た?!!」
勢いよく教室の扉を開け、朝から大きな声を静かな教室に響かせたのは、私の幼馴染の楠遥陽(くすのき はるひ)だった。
「あーはいはい。また御三家の話ね。」
「もう!ほんとに愛華御三家に興味無いよね!今日ほんっとにレアだったんだから!」
「レア...?どういう意味?」
「よくぞ聞いてくれました!今日の御三家!朝から手繋いで登校してるの!!!もう無理!!尊すぎる!!」
早口で遥陽そう言って両手で顔を覆い隠した。
会話で何となく察しただろうが、遥陽は御三家の大ファンなのだ。追っかけ上等、気安く話しかけるやつはぶっ飛ばす、と意気込むほどの愛の強さだ。最近学園内(御三家を除いて)で、御三家の大ファンと認知され始め、少し恐れられている存在でもある。
「てか、愛華ほんとに羨ましい!」
「何がよ」
「御三家と!クラス一緒じゃん!!」
「あー」
そう。私、相羽愛華はまさかの御三家とクラスが被ってしまったのである。遥陽は羨ましがっているが、御三家と一緒のクラスはそんなに気楽ではいられない。あの日以降、私はそう思った__
__あれは新学年に進級した初日。
下駄箱の前に貼られたクラス発表の紙を遥陽と見た。
「あークラス離れちゃったね。」
「うそ!寂しすぎる...」
「大丈夫だよ、遥陽はすぐ友達出来るから。」
「そんな事ないよ!...私、愛華がいないと死んじゃうよ...。」
「大袈裟だなあ。」
少し涙目になった遥陽の笑いながら撫でる。
「寂しくなったら会いに来てよ。私待ってるから。」
そう言いながら、遥陽を慰めようと御三家の名前を探す。
「え」
「...どうしたの?愛華...ってえ!!!御三家と一緒じゃん!!」
「こんな見事に三人と被ることある...?」
「よかったじゃん!!愛華羨ましいよ〜」
ケロッと通常運転に戻った遥陽と、落ち込む私の立ち位置は、さっきの真逆だった。この時私は、まあ何とかなるだろう、と軽い気持ちでいた。それが間違いだったと気づくのは次の日からだった。
初日には姿が見えなかった御三家が、翌日姿を現した。初めて見る彼らは、私たちとは比べられないぐらいの輝きを放っていて、安易に近付けない空気を纏っていた。
御三家の構成は男二人と女一人。
一人目は御三家の太陽、鷲尾碧(わしお あお)。男女共に人気ありの、圧倒的陽キャ。気さくで明るい性格からか、入部当初から先輩たちに可愛がられ、一年でレギュラー入りを果たした、サッカー部の絶対的エース。その飛び級度から付けられた肩書きは、"サッカー部の革命児"。
二人目は御三家の月、琥十波玄(ことなみ はる)。あまり人と関わらないが、生き物が好き。バスケ部に所属していて、スリーポイントシュートを感覚で決めるその才能から付けられた肩書きは"バスケの天才"。こちらも鷲尾同様、その才能とセンスから一年からレギュラー入り果たしている。
三人目は御三家の姫、白鳥桃(しらとりもも)。こちらも鷲尾タイプで、男女共に人気を博している。明るく元気、そしてとにかく優しい。部活は軽音部で、担当はボーカルとベース。その彼女の姿から付けられた肩書きは"軽音部の王女"。他方の事務所からのスカウトが止まらないという。
まあそんなこんなで、こちらとは住む世界が全く違うことなど分かりきっている。更に彼らは、この神から与えられた天物を生まれつき持っているにも関わらず、三人とも大企業の御曹司、ご令嬢なのだ。前世でどんだけ徳を積んだら、これだけの恵まれた環境で育つことができるのだろうか。
そんなことを考えながらふと席に座ろうとして気づいた。私の前に白鳥桃、そして彼女を挟むかのように左右の席に座る鷲尾と琥十波。何だか頭がクラクラしてきた。一学期は席が全く変わらないと、昨日担任が話していたことを思い出し、目が眩み始めた。頭を抑えながら、御三家にバレないように静かに席に着く。三人とも仲はいいはずだが、今は全く喋っていない。増してや、目線はスマホに落ちていて、お互いの存在すらも感じていないように見えた。
が、そう思ったのもつかの間、鷲尾が口を開く。
「なぁ、桃。飲み物買いに行こうぜ。」
「んえ?もも?」
「おい、俺でいいだろ、俺が一緒に行ってやるよ。」
「何が悲しくて玄と一緒に飲み物買いに行かなきゃなんねーんだよ。俺は!桃と!行きたいの!お前はお呼びじゃねーんだ!」
鷲尾の大声によって琥十波も声を荒立て始め、二人はお互いの胸ぐらを掴み始めた。それを見た白鳥は釘を刺すかのように
「もう、喧嘩するんだったら私他のクラスの人のとこ行くから。」
と、吐き捨てた。すると、二人はお互いの胸ぐらを掴むのをやめ、必死に白鳥の顔を覗き込んで懇願し始めた。
「え、待って桃。行かないで。」
「おい!俺は桃を求めてんの!喧嘩してないから!ほら、一緒に行こ?」
「喧嘩してないんだったら玄と行ってくればいいじゃん。はい、いってらっしゃーい。」
風の如く進んでいく彼らの会話は、いつの間にか白鳥によって終止符が打たれていた。二人は白鳥には何も言い返せなくなったようで、どちらが先に教室に戻ってくるかを競走しよう、と走って自販機に向かっていった。周りの声が無くなった白鳥は、「ふぅ」と小さい溜息をついて、また席に座り直した。
その数十秒後、彼女の周りはまた声で溢れて返った。理由はさっきの二人じゃない。年上に見える男子学生五人ぐらいに囲まれていたのだ。知り合いなのか、初対面なのか、はたまた友達なのか。まぁ、私には知る由もないが。...ただ、少しすると彼らの空間は何だか怪しい空気に変わっていった。段々と白鳥との距離が近くなり、彼女に向けて熱い視線が注がれ、彼女の身体を今にも触ろうという、下心丸出しの手がいくつか伸びているのが見えた。最初は見て見ぬふりをしていたものの、エスカレートしていく行為と、白鳥の嫌がる姿を見て、声をかけることを決意した私は徐に席を立ち上がった。少し勢いのついた椅子は、教室に響く位にはいい音をあげた。前にいる六人の視線が、教室中にいる人達の視線が、全て私に注がれているような気がした。でも、もう気にしてなんていられない。この先どんな結末になったって、もう後の祭りだろう。私は大きく深呼吸をしてから、彼らに声をかけた。
「あの、多分ですけど、先輩ですよね?」
「え?誰?そうだけど?何か文句あんの?」
「白鳥さん嫌がってますよ、その下心丸出しの手。」
「あ?」
「いや、だから。貴方たちの下心丸出しの手と気持ち悪い視線に、白鳥さん拒絶反応出てます。...気付いてます?」
「...なんだよこのブス。僻みかよ。」
「あーそうですねー。私はブスです。ブスは可愛い子助けちゃダメなんですか?私よりブスな内面の貴方たちから救っちゃだめなんですか?」
「...このブス...うっせぇんだよ!」
拳が私に飛ぶ。
あぁ。私、初めてだ。誰かに殴られるの。でも、誰かを助けてこの仕打ちならいいか。
諦めて身を差し出して、目を閉じる。その一瞬。拳が起こした風が目の前で気配を消した。不思議に思って目を恐る恐る開けると、拳を閉じ込めた手の甲が、全体に拡がっていた。手を辿ると、少し見慣れた二人の顔が見えた。
「鷲尾...くん。」
「...っぶねぇな。何してんすか。」
「女の子には手を出すな、と教育されてこなかったんですか?」
「お、お前ら、鷲尾と琥十波じゃねぇかよ。...こいつだよ、こいつが先に手出してきたんだ。」
「いや、全部見てたっすから。誤魔化しても無駄っすよ。」
鷲尾の不敵な笑みからとてつもない圧を感じる。奴らもそれを察したかのように、少し喉を締めたあと、逃げるように教室から出ていった。安心したからか、腰が抜けて私はその場に崩れ落ちた。
「...お前...相羽?だったっけ?」
「え...あ、うん、そう。」
「桃のこと、助けてくれてサンキューな。マジかっこいいな!お前!」
「相羽が助けてくれなかったら、俺ら助けに来れなかった。本当にありがとう。」
急な展開に頭が回らない私を他所に、鷲尾は頭を撫で、琥十波は私の手を握った。そして、今まで見れていなかった彼女の顔を見る。凄く震えていて、私が助けていなかったらどうなっていたのだろう、と嫌な想像が頭をよぎった。
「白鳥、さん。大丈夫だった?」
「あ...うん、本当にありがとう。愛華ちゃんが助けてくれなかったら、私...。本当にありがとう。」
そう言って白鳥は泣き出した。その白鳥をさも当たり前かのように、鷲尾と琥十波は抱きしめ、頭を撫でる。まるで赤子をあやすかのように。この日を境に、私の彼ら三人に対する今までのイメージは全て崩れ去ったのだ__
今日も聞こえる彼らの下らない内容の喧嘩は、もう聞きなれた。今日はどちらが白鳥を好きかで言い合いをしているらしく、当の白鳥本人は呆れて寝てしまっている。また言い合ってるよ、なんて呆れて見ていると、二人と目が合う。
「...え?...なに。」
「...いやさ、愛華に決めてもらえばいいんじゃね?」
「...なにを。」
「俺と碧、どっちの方が桃への愛が強いか。」
「...いやいやいや。そんなのどっちもどっちでしょ。」
「いーや!俺の方が桃のこと好きだ!」
「いや、俺だ。」
「はいはい。もういいって。」
あの日からもう三ヶ月ほどが経ち、私と御三家は友達と言えるほどの関係になった。私は彼らの喧嘩を毎日のように見て、彼らは私に毎日のように決着を促す。
最初は御三家に対して、嫌なイメージが多かった私だったが、あの日、変に三人の関係に足を踏み入れてしまったことで友達へと発展してしまった。でも、それも何かの縁だったのだと今では思える。神様がくれた私への天物は、一生手放すことの無い幼なじみと、大嫌いから大好きになった御曹司とご令嬢の友達だ。
~
「ねぇ、今年も三人で見れたね。夏の大三角。」
「ね。」
「うん。」
私は碧と玄と一緒に星空を見上げるこの時間が一番好きで、凄く特別だった。
初めて私たちが出会った日。あの日も今日と同じような夏の日だった。ふと空を見上げて見えた輝く夏の大三角に酔って、つい口が滑ってしまった。
「なんか、私たちみたい。」
「え?」
「あの星。三つの星が手を繋いでる。」
「ほんとだ。」
「...あれって夏の大三角じゃない?」
「え!ほんとだ!」
「そういえば俺たちってさ...。」
"鷲"尾碧。"琥十"波玄。"白鳥"桃。
私たちは夏の大三角。
いつまで経っても、何があっても夏には必ず手を繋ぐ。
星空が夏の大三角を自分に映し出す限り、私たちは永遠にずっと一緒にいることが出来る。
星空よ。一生私たちを繋いでいて。
「星空」
ある日私は痴漢に遭った。偶然かと思ったけれど、手は私のスカートから離れない。怖いのに、助けを呼びたいのに、なぜか声が出ない。手を払い除けることもできない。顔の分からない誰かに私はずっと怯えていた。次の駅に着く数分が、数時間に感じた。
あの日から私は外に出ることが出来なくなった。男の人に恐怖心を抱くようになり、お父さんと顔を合わせることすら避けることになった。周りの視線も怖くなり、カーテンを閉めた湿っぽい部屋で毎日を過ごすようになった。勿論学校にも行けなくなった私は、ずっと食べて寝て食べて寝るの繰り返しで、体重は急激に増加した。全くの別人のような体型に最初は驚いたが、あの日のことを忘れられるような気がして、この体型も受け入れられるようになってきていた。
でも、あの日の出来事は毎日のように夢に出てきて、あの日を忘れさせてくれない。
__混みあった車内はもう見飽きた。いつもより早い電車に乗ったって、違う号車に乗ったって、いつも席は満員状態で、座れることなんて一ヶ月に一回ぐらいの奇跡の確率だ。だからいつも七時発車の七号車に乗る。七は私の大好きな数字で、私に関わる数字には大体"七"が入っている。誕生日は七月七日、出席番号は七番、部活の背番号も七番。ただ、電車に関しては本当に偶然で、学校に間に合うギリギリの時間の電車がこれだっただけたが。
いつも同じ時間、同じ車両のせいか、車内の人達は顔見知り程度になった。まあ顔見知りといっても、私がただ勝手に人の顔を覚えて、あの人この前もあの席だったなとか、やっぱあの人いっつもあの角だな、とかを知っているだけだが。でもそれでも、なぜか見覚えのある人たちを見つけると安心した。
今日もいつもの人達だ、なんて安心していると、下半身に何か違和感を感じた。何かが当たっているような、動いているような、不思議な感覚だった。満員電車だったから誰かの鞄がたまたま自分に当たってしまっているだけだろう、そう考えた。だけど、人が少なくなってきてもその違和感は残り続けた。
(虫でも這っているのかな)
その無知な考えが私を恐怖に陥れた。私の手に触れたのは、明らかに誰かの手だった。私のお尻を触る誰かの手。まさか人の手だとは思わずパニックになった私に、追い打ちをかけるように、
「君、かわいいね」
知らない男の人の声。低くて冷たく聞こえるのに、どこか笑みが含まれたような、そんな印象だった。自分が今置かれている状況が理解出来た時、私の頭は停止した。
怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。
気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。
なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。
(……なんで……私なの……?)
感情とは裏腹に声は出なくて、震えてその場から逃げることも出来なくて。真っ白な頭で考えつくことなんてろくな事じゃなく、今この男のあそこを蹴れば逃げれるんじゃないか、後ろを向いて思いっきり男の顔を殴ってやればいいんじゃないかなど、絶対に勝てるわけないのに、力で解決しようとする案ばかり思いついてしまう。
その間にも、男の手は私の身体のあらゆるところに伸びていた。いつの間にか上半身にも手が潜り、気付けば下着は脱がされていた。抵抗したいのに力が強い。やめてほしいのに声が出ない。どうしたらいいのか分からなかった。早く駅に着いて、そう祈ることしか出来なかった。
駅までの距離があと少しになった頃、私の下半身には温かい何かの感触があった。その時はまだ気づかなかったが、後で気づいたあの時の何かの正体。耳元で聴こえる男の荒い鼻息がより一層、事を感じさせた__
「……っ!」
勢いよく布団から飛び起きる。あの日の夢だ。
「今日も……。なんで私がこんな思いしなきゃいけないの……。」
目から涙がこぼれているのが分かった。それでも、涙を止めることなど私には出来なかった。
私が一体何をしたというの?何か悪い事をした?貴方の人生を奪うようなことをした?神様教えて下さい。私があの男に対して何をしたというのでしょう。
泣き疲れたのか、急に眠くなって布団に潜った。
二度寝してしまっていたみたいだ。目を覚ました頃には、時刻は十二時をさしていた。
布団に潜ったままスマホをいじっていると、突然インターホンが鳴った。宅配便か何かだろうと思って、無視をする。静かな部屋に諦めずに鳴り響く甲高い音についに痺れを切らし、部屋の扉を勢いよく開けて下の階が見える階段から身を乗り出し、お母さんを呼ぶ。
「ねぇお母さん!インターホン鳴ってるってば!早く出てよ!煩いんだけど!」
私の声は虚しくインターホンの音に消される。お母さんはベランダに出ているのか、買い物をしているのか、反応はなく、お母さんの行方すら分からない私は、階段をおり、インターホンの側の受話器を取る。モニターに映し出されていたのは、私の学校の友人たちだった。彼女たちは私が出ていることに気づいていないのか、こちらを見向きもせず何かを話しているようだった。私が「はい」と言うと、彼女たちはすぐに話をやめ、返事をした。
「あの、私たち○○さんの同級生の△△と、▢▢と...」と丁寧に自己紹介をしてから、本題に移った。
「最近○○さん学校来てなくて、どうしても心配になって来ちゃいました。ご迷惑でしたらすみません。私たち、○○さんの顔が見たいだけなんです。お願いです。少しでもいいので、○○さんに会わせて下さい。」
顔が見えている訳でもないのに、彼女たちは私の姿が見えているかのように、モニターに向けて礼をする。
久しぶりに見た友達の姿に懐かしいものを感じた私の体は勝手に動いていて、気付けば扉を勢いよく開けていた。あまりの勢いに、友人たちは目を見開いて驚いていた。私だと認識すると、その驚きも徐々に薄れ、私と彼女たちは久しぶりに顔を合わせた。実際に顔を見ると、色々な楽しかった記憶が蘇ってきて、自然と涙が溢れていた。友人たちの方を見ると、彼女たちも涙を流していた。泣きながらの再開となってしまったが、私たちらしくてそれもいいという結論に至った。久しぶりに家族以外の人と話をして、久しぶりに心から笑えた気がした。話せた時間はほんの数十分だったが、数時間話していたような気さえしていた。
彼女たちがいなくなり、一人で家の扉の前に立つ。外に出たのは凄く久しぶりだった。夏の暑さをこれでもかと感じさせてくるような暑さで、太陽の光は私以外の全てを照らすように輝き続けていた。自分だけが日陰の中に隠れているような気がして、私も太陽に見つけてもらいたいと思った。履いていたサンダルを雑に脱いで、あえて裸足で家の前の道路に飛び出した。太陽は私を見つけたと証明するかのように、私に一身に光を浴びせた。暑くて、太陽光だけでのぼせそうになった。でも、それだけ私は、太陽の光に当たっておらず、光を当ててもらえていなかったのだ。
気持ちが入れ替えられたような気がした私は、急いで家の中に戻った。階段を駆け上がり、部屋の扉を勢いよく開ける。改めて部屋を見回すと、脱ぎ散らかされた服、所々に散らばったティッシュ、締め切られたカーテン。今まで目を逸らしてきた自分の醜さに直面し、何だか今までの自分に恥ずかしさを感じた。
すぐにカーテンを開き、ティッシュをゴミ箱に入れ、服を洗濯機に投げ込んだ。掃除機をかけ、窓を開けて換気もした。自分の醜い部分を綺麗にしていく度、心の中にあった黒いものが小さくなっている気がした。
現実と向き合えた私は、もう一つ、ある事に気づいた。
「太陽の光が差し込んでる……」
太陽に見つけて貰えたことで、輝いてた日常が戻ってくる、そんな予感が私を奮い立たせていた。太陽があの日私にくれた日差しは、私の生きる糧になっている。
「日差し」
地球には重力が働いていて、物を手から話すと必ず垂直に落下する。また、そこに風が加わると風向きに少し物が傾いたり、風向きに連動するように動いたり。
それは何処かから飛び降りる時も同様であり、重力の影響で人は垂直に落下し、そこに風が生じる。服が風に煽られ揺れる。その時間はほんの一瞬だが、その一瞬を体感すると、実際はそうではない。飛び降りで自殺未遂した人は皆そう言う。あの時間の中に、落ちていると感じる実際の景色、自分の全身に当たる風の圧、そして頭の中を巡る走馬灯。
私は今実際にその状況に置かれている。いや、正確にいえばその状況にならざるを得なかったのだ。私が乗っていた船が不具合によって、今にも爆発しそうな勢いだったので、私は急いで一番必要なボンベだけを持ち出して船から飛び降りた。
でも何故だろう。落ちていると感じれる程の景色の変わりも無ければ、圧を感じるほどの風も感じない。更に、走馬灯なんかが巡るわけもない。
何だ、あれは嘘だったのか。
そう思うしかない私は酸素ボンベが無くなるのをただただ見つめながら、無重力空間に留まる他無かった。
「落下」
俺は冴えない大工だ。元々遅刻癖があったのに加えてある大失態を起こしたのが引き金となり、失業。子供もいなければ女房もいない。そのまま歳をとっていき、御年五十歳である。最近は老化が進んで目がぼやけ、段々物忘れも酷くなってきている。それでも何も手にない俺は一人で生きていくしかなかった。
今日もうるさい近所の子供の声で目を覚ます。気づけばもう児童の登校の時間のようだった。声が無くなったのを確認すると、俺は忍者のように素早く外に出て、家のポストを開ける。今朝までに投函されていたのは、たった一枚の新聞紙だけだった。その新聞紙を乱雑に取りだし、またコソコソと家の中に帰り、すぐに新聞紙をリビングの机に叩きつけ、眼鏡をかけて勢いよく椅子に座る。新聞紙を開く手は上手く動かず、開くのを躊躇っていた俺の目に飛び込んだのは、新聞紙の表紙を大きく飾った女児が事故に巻き込まれ亡くなった事故の記事だった。そこに記載されていた大まかな内容は下記の通りだ。
「一年前のある日、小さな街で交通事故が起きた。乗車前の飲酒のせいで居眠り運転をしていたトラックが歩道に突っ込んだのが原因で、小学三年生と見られる女児が亡くなったというとこものだ。事故が起きたのが昼頃という事もあり、目撃者は多く存在し、救急車・警察への通報、AEDを使用した心肺蘇生などが行われたが、女児は救急車が到着する五秒前に息を引き取った。彼女の近くにいた人達からは、「もう既に救急車のサイレンは間近で聞こえていた」という証言もとれている。
目撃者の数の多さと、幾つもの証言によって、犯人はすぐ警察によって捕らえられた。それを知った被害者家族は涙を零し、「あの子が可哀想で仕方ありません。無事に犯人が捕まって。それだけがあの子が私たちにくれた愛情の恩返しになるといいです。」と話した。
容疑者は五十代男性、職業大工の○本○康であり、警察の調書によると、飲酒運転を認めているとのこと。」
俺はそこで新聞を読む目を閉じた。そんなつもりは無かったのだ。まさか女児を撥ねてしまうなんて、歩道に突っ込んでしまうなんて思わなかった。あの日は上司に自分のミスを押し付けられ、仕事をすることに嫌気がさしていた。やけ酒をして昼寝をし、起きたら既に始業の時間になっていた。寝てたから大丈夫だと、軽い気持ちで仕事を始めた。それが仇となり、人をしかも女児を撥ねてしまった。頭が混乱して逃げたい気持ちでいっぱいだったが、葛藤の末俺は自首することにした。正確に言うと、茫然自失としていた俺を警察が捕まえた、という感じだ。それから俺は牢屋に入れられたが、面会に彼女の両親が立ち会いに来てくれた。彼らは俺を不起訴にする、と話したのだ。その代わり、年忌法要には娘の墓に顔を出して欲しい、と。俺は彼らの優しさに甘え、そして救われた。
あの時やけ酒をしていなければ。軽い気持ちで飲酒の後に仕事に行かなければ。こんなことにはならなかったのだと思う。でも今更後悔したってもう遅い。そんな事は分かりきっているはずなのに。最新の新聞に記載されたあの日の記事を見たら、あの日を思い出してしまった。
俺は新聞を閉じておもむろに椅子から立ち上がり、財布とスマホだけをズボンの両ポケットに突っ込んで、家の玄関の扉を開け、外に歩を進める。
あの事件が起きて、当たり前のことだが周囲の人間の俺を見る目は変わった。外に出るとコソコソとあからさまにこちらを見て話す隣人。子供を近づけまいと、そそくさと子供を家の中に入らせる近所の親たち。気付けば俺の身体は、外に出ることを拒むようになっていた。太陽を浴びるのすら怖くなって、カーテンは全て閉め、湿った部屋でひたすら布団にくるまるようにまでなった。
でも今日は、今日だけは絶対に外に出なければいけない。彼女の両親の約束を守る為にも。
俺は彼女のお墓の前に立ち、静かに両手を合わせる。今日は彼女の一周忌だ。俺はこれから先も、この約束を果たし、彼女と彼女の両親に償い続けていかなければならない。それが俺が犯してしまった罪の代償なのだ。
俺の人生の転機は間違いなくこの事件だったであろう。
そして俺は囚われている。
この"一年前"の事件に。
「一年前」
「この中でどの色が好き?」
「うーん」
朝、昼、夜。その三つだけに限定されただけの数多の色に魅力を感じたことは今まで無かった。
「私は今日の空の色が好き。」
三つのどれにも分類されない曖昧な色の空が私に唯一魅力を感じさせる。
それはいつだって、私たち人間がこの曖昧な世界に生き、その曖昧の答えを求めているからだと思う。
「あいまいな空」