小さい頃にお父さんを失い、お母さんが私をここまで育ててくれた。高校卒業目前というところで、お母さんがある日突然一人の男性を連れてきた。お父さんがいなくなってしまってから、この家に男性が入ってきたのは初めてだった。ただならぬ出来事と察した私は、母が話し始めるのを静かに待った。
「お母さんね、この人と再婚しようと思うの。」
そうして、私の生活は一転した。新しいお父さんはある大企業の社長さんで、私は令嬢ということになった。前の生活とは違う、輝きが溢れた生活になった。家も食器も家具も、何もかもが綺麗で、美しかった。漫画やアニメでよく見ていた家政婦やお手伝いさんが、実際に私たちの身の回りの世話をしてくれ、専属の料理人が食事を作った。ただその分、作法に関しては厳しくなった。言葉遣い、ペンの持ち方、お辞儀の仕方、歩き方など、細かいところから普段の生活の動作まで、全てを見られるようになった。更には、お父様、お母様と呼ばなくてはいけなくなり、お母さんとの距離を感じるようになった。二人で過ごせる時間など全くなく、ゆっくり話をすることも少なくなっていった。
こんな生活が続き、やっと慣れてきた時、お父様から舞踏会に行ってみないか、とお誘いを受けた。
「やっと作法が様になってきて、こちらの世界に馴染めるほどになっただろう。」
その言葉を鵜呑みにし、私は今日一人、舞踏会に向けて家を出発した。執事が動かす車の景色は、何だかいつもと違うように見えた。
「お嬢様、到着いたしました。」
目の前には大きな扉が広がっていた。開け放たれた扉の奥には、着飾った女性が沢山いた。聞いてみれば、何やらこの街の有名な王子が主催で開いた舞踏会らしい。圧倒的に女性の割合の方が多く見えたのはそのせいだろう。受付を済ませ大広間へと向かう。文字通り大きな部屋で、王子と思われる男性は既に多くの女性に囲まれていた。女性たちを見れば、自分が少し惨めに思えた。私だけみすぼらしい素朴なドレスで、この場にいるには浮きすぎていたから。そう思って前を見れば、たまたま王子と目が合った。その瞬間、王子は私のそばまで駆け寄り手を握った。
「僕、この子と踊ります。」
冷たい視線を感じながらも、王子に手を引かれながら大広間に設けられた特等席に腰かけた。
「どうして私なんかを?」
会話がなく、無意識に手を伸ばしていた料理を口に運びながら聞いた。
「貴方が良かったのです。着飾らない貴方が、僕には一番美しく映ったのでしょう。」
口角が上がるのが分かった。彼を好きになってしまった瞬間だった。
少しずつ会話が弾み、お互いの顔が緩んできた頃。大広間の扉が大きく開いた。シワやシミ一つない透き通った肌。艶がかった金色の髪の毛。彼女の為に作られたかのような青いドレス。主役は遅れてやってくる。どこかで聞いた言葉が頭の中で繰り返される。王子の視線は、彼女に釘付けだった。
「なんて美しい女性なんだ…」
そう放った王子の顔は、怖くて見れなかった。彼の匂いが薄くなって、気付いた。彼はもう、私から離れていたのだと。
王子は金髪の女性と大広間で、楽しそうに踊っている。私のことなんてすっかり忘れて、彼女との時間を過ごすのに夢中なように見えて、胸が苦しくなるのを覚える。彼らはこのまま結ばれてしまうのだろうか、私はこのままでいいのだろうか。
3階から広間を眺めていたら、彼女が王子を突き飛ばし、扉に向かって階段を降りようとしているのが見えた。王子が彼女を追いかける。その王子を私が追いかける。彼女が履いていたガラスの靴が脱げる。彼女は気付いても尚走り続ける。彼も気付きながらも追いかける。私は立ち止まる。ガラスの靴を拾って、また彼を追いかけた。
扉を出れば彼女はいなくて、肩で呼吸をする彼の姿があった。時計の針が重なって、お城の時計の鐘だけが鳴り響いた。彼が後ろに振り返ろうとしたのが見えて、咄嗟に草むらに隠れた。彼がいなくなった後、その草むらから見えた一人の女性。ボロボロな髪にみすぼらしい服装。お城に似つかわしくない格好に、何だか違和感のような、既視感のようなものを覚えた。
「シンデレラ…?」
私は持っていたガラスの靴を草むらに隠した。
「時計の針が重なって」
「ねぇ幸せってなんだろうね」
隣に座って一緒に映画を見ていた彼女が、暗い画面に流れるエンドロールを眺めて呟いた。見ていた映画のせいだろうか、彼女の瞳には水溜りができていた。そして、そんなことを口にしていた彼女は、死んだ。
彼女が亡くなって三年が経った今も、恋人は作っていない。あの時何も返せずにいた自分を呪った。彼女は自殺。原因は未だに分かっていない。タバコを咥え、あの日見た映画をつける。隣にもう愛する人の姿はない。口から吐かれた煙が、部屋を覆いつくす。なんとも表せない匂いが心を落ち着かせた。映画は全く頭に入らなかった。最後に映画の主人公の男は笑った。自分は幸せだと言わんばかりに。
あの日の彼女の言葉を、声を、頭の中で反芻する。
幸せとは、愛する人が自分を愛し、傍にいてくれることだと僕は思う。
あの時の彼女の涙に、意味は存在したのだろうか。
三ヶ月付き合った彼と、最近同棲を始めた。
今まで一回も喧嘩したことがなかったのに、同棲を始めてからは喧嘩が増え、些細なことで喧嘩をするのは同棲を始めて今回で五回目だった。
沈黙が流れて彼の方を見れば、さっきまで私を見つめていた瞳は、どこか明日を見つめているようで。
「今までお互いのペースでやれてるって思ったのは僕だけだったのかも、今まで困らせてごめんね。」
僕たちもう終わりにしよう、なんて。
私が入る隙もなく掌に残された合鍵。
違う。こんなはずじゃなかった。
ただ、二人でもう一回考えようって、仲直りしようって、そう言ってほしかっただけなのに。
空っぽになった私のお皿と彼の食べかけのお皿が、私たちの最後の思い出になった。
「お互いのペース」
今年も気がつけば秋がやってきていた。八月のカレンダーは破られ、九月が顔を覗かせた。
「ねぇ!またお菓子ばっかりじゃん!」
「いいでしょ別に。私の勝手じゃん。」
「だからってなあ、」
「まあまあ。珀音ちゃんも、航くんも落ち着いて。」
そう言って今日も僕たちの喧嘩の仲裁に入る看護士さんの姿。大部屋なだけあって、この光景は同室の患者さんに見られていて、もう僕はこの病院の常連だったし、言い争う光景も、看護士さんが僕たちを宥める姿も、もう見慣れたものになっていた。
幼馴染の榊 珀音(さかき はな)は、去年の十一月に急性骨髄性白血病と診断され、医者から余命宣告を受けた。"早くて三ヶ月、もって一年"と言われたと彼女は言っていた。その時の彼女の何とも言えない表情が、脳裏から離れた日は無かった。それを聞いた日から、僕は毎日珀音の病室に通うようになった。お見舞い、というのが目的ではあったが、本当は彼女の傍にずっといたかったのが理由だ。彼女は僕の幼馴染だが、密かに僕が想いを寄せていた相手でもあった。だからこそ、彼女が心配だし、彼女の傍に居たかった。でも結局本音を話せないまま時は過ぎてしまい、素直になれなくなった僕は、彼女と喧嘩することでしかコミュニケーションを図れなくなってまできている。
「てか、航がお見舞いで沢山お菓子持ってくるのがいけないでしょ!」
「はぁ?じゃあいいよ、絶対今度からお菓子なんて持ってきてやらねえからな!」
「そういう話じゃないじゃん!航の馬鹿!」
今日も今日とて珀音は頬に空気をこれでもかと詰め、僕から顔が見えないようにそっぽを向く。ガラス越しにうっすらと見える珀音の顔は、いつでも愛おしかった。
ある日いつものようにお見舞いに行くと、病室の扉の前で珀音のお母さんと医師と見られる白衣を着た男性、その隣に看護師が立っているのが見えた。距離が一歩近づく度に聞こえてくる彼らの声は、何だか深刻そうに聞こえた。あともう少しで内容が聞こえそうだというところで、珀音のお母さんが僕に声をかけた。
「あら、航くん。ごめんなさいね、気づかなくて。」
「いや、大丈夫ですよ。珀音に何かあったんですか?」
一呼吸の間があったあと、珀音のお母さんは静かに大丈夫よ、と言った。この一言が嘘なことなんてすぐに分かった。
病室に入り、ベッドに寝転ぶ珀音にいつも通り声をかける。
「今日も差し入れ。」
「うん、そこ置いといて。」
いつもと違う素っ気ない態度に違和感を感じた。
「おい、来てやったのになんだよその態度。」
「別に私、毎日来て欲しいなんて言ってない。」
「は?お前何言って、」
「もう関わんないでよ!……ずっと嫌いだったから。航のこと。」
「……え?」
「毎日毎日嫌いな奴の顔見なきゃいけないこっちの身も考えてよ。……最悪。」
何も言葉が出なくて。
気付いたら病室を抜け出して、涙と鼻水を道端に散らして走っていた。
気付かなかった。
気付けなかった。
気付きたくなかった。
あれから一ヶ月半が経ち、彼女の命日と言われる日が刻一刻と迫ってきていた。けれど、僕はあの日以来一度も病室に足を運んでいない。あの日言われた言葉と、こちらを一度も見ない彼女が、頭から離れなかった。何度か病院の前を通ったけれど、中に入る勇気はなく、かれこれこんなに日が経過していた。あの日を引きずり続けている自分の情けなさに、頭を抱えていた時、ふと病院に行かなければいけないと思った。天から降ってきたように。神様からのお告げのように。その思いつきは突然のものだった。
気付けば病院へと向かう足は、普通の速度から早歩きに変化し、気付けば無我夢中で走っていた。何でかは分からない。けど、僕の直感は今すぐ病院へ向かわなければと、逸る足を止めることは無かった。
久しぶりの病院に懐かしむ暇もなく、僕は病室へと駆けた。なんだか嫌な予感がした。その嫌な直感は、その後すぐに的中した。
彼女の病室の表札はなくなっていた。
急いで病室の扉を開けると、彼女がいるはずのベッドに彼女の姿は見えず、ベッドの前に立つ彼女の両親と、医師たちの姿が見えた。僕に気付いた彼女の両親は、さっと目元を拭い、僕に声をかけた。その声はやけにやつれていた。
「あら、航くん。久しぶりね。」
「あ、はい。お久しぶりです。」
「……これね、あの子が貴方に渡してって。」
そう言って彼女の母親が鞄から手探りで取り出したのは、一枚の封筒だった。表紙には僕の名前が刻まれていた。
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私の幼き頃からの相棒 航へ
この手紙を書いた理由はもう死ぬって分かったから。お医者さんがお母さんに話してるの、聞いちゃったんだよね。てか聞こえちゃった。予定より早くなりそうです、だって。
こわい。こわいよ、航。
なんでこんな時にかぎって傍にいてくれないの、
いつもみたいにおかしたくさんもってきてよ
いつもみたいにけんかしようよ
いつもみたいにわらわせてよ
わたしがここに生きてるって、おしえてよ
初めて会ったときから大好きだったよ。
航が来てくれるから生きててよかったって、もっと生きたいってはじめておもえたの
わたし、いきてていいの、かな、?
わたるにひどいこといって、つきはなしちゃった、
ほんとはすごくだいすきなのに、すなおになれなくて。
わたるといっしょにいろんなところ行きたかったなあ
手つないで、ふたりでいろんなけしきみて、たまにけんかもして、でもすぐになかなおりして。
ハグも、キスも、まだできてないなあ
しにたくないな
しにたくないよ
向こうで待ってるから、また迎えに来て。
そのときは差し入れって、いつもみたいにお菓子持ってきてね。
お医者さんから話聞いて、凄く悲しかった時に外で揺れてるススキを見て、手紙を書こうって、急に思いついたの。
色んな人と沢山恋して、最後には私の元に帰ってきてよね。
あれから五年がたち、僕も高校生になっていて。味気ない日常に飽きながらも、毎日をそれなりに楽しく過ごしていた。その日は夏休みの課題のために本を借りようと、近所の図書館に足を運んだ。受付で貸出の手続きを終わらせ、帰ろうと来た道を戻ると、出入口付近に座っていた三人組の女子小学生が、花言葉辞典を広げ、一生懸命眺めているのが目に入った。三人の前を通った時、彼女たちの誰かが放った言葉が耳に入った。
「ねぇねぇこれ見て。
ススキの花言葉って"心が通じる"なんだって。」
「ススキ」
小さい頃にお母さんが読んでくれた絵本を今でも覚えている。一人の小さな女の子が誰かのヒーローになりたいと、人助けをしていくお話。あの頃の私はただ、主人公の女の子が大好きで、その絵本を週に一回は必ず寝る前に読んでもらっていたし、自分で読むことも沢山あった。大好きすぎて、保育園にも絵本と一緒に登園し、暇さえあれば一人静かにその絵本の世界にのめり込んだ。
一人暮らしの為に引越し作業をしていた私は、久しぶりに見たその絵本の表紙に、童心を思い出して本を開いた。
_ある所にほまれちゃんという小さな女の子がいました。ほまれちゃんは、「ヒーローになりたい」という夢を持っていました。今日もその夢に近づくために人助けをするみたい。早速ドアを開けて外の世界に飛び出しました。
最初に出会ったのは、重い荷物を持ったおばあちゃん。腰に手を当てて、長い長い階段を眺めています。それに気づいたほまれちゃん。すぐにおばあちゃんの元へ駆け寄ると、「おばあちゃんお荷物貸して!」と言いました。おばあちゃんは少しびっくりした後、「重いけど大丈夫かい?」と言ってほまれちゃんに荷物を渡しました。とっても重かったけど、ほまれちゃんは一度も階段に荷物を下ろさずに、階段を登りきったのです。おばあちゃんからお礼に、ほまれちゃんは飴ちゃんを貰いました。
次に出会ったのは、暗い顔をしたスーツを着た男の人。公園のベンチに座って、大きな溜め息をついているみたい。ほまれちゃんは、急いで男の人の元へ走って「どうかしたの?」と聞きましたが、男の人は何も答えませんでした。ほまれちゃんは元気になあれと思って、男の人にさっき貰った飴ちゃんをあげることにしました。「どうぞ」と男の人に差し出しました。男の人はそれを見て、少し笑いながら「ありがとう」と言い、飴ちゃんを受け取りました。ほまれちゃんは何だかいい事をした気分になりました。ほまれちゃんは男の人から千円札を貰いました。
次に出会ったのは、怪我をしている制服を着た女の子。肩にかけたスクールバックの持ち手を強く握りしめています。ほまれちゃんは「こんにちわ」と挨拶をしました。女の子はほまれちゃんの方を見ましたが、何故か挨拶を返してくれませんでした。ほまれちゃんはさっきの男の人と同じように、貰った千円札を「どうぞ」と差し出しました。女の子は一瞬驚いたあと、嬉しそうに千円札を受け取り、お礼にほまれちゃんはビデオテープを貰いました。
最後に出会ったのは、
_ここで本は途切れ、残った最後のページに飛ぶと「めでたしめでたし」とだけ書かれていて、最後に出会ったのは誰だったのか。本当に登場人物の三人はほまれちゃんに助けられたのか。最後にほまれちゃんは何を貰ったのか。が謎に包まれている。
これは一世を風靡した「千切れ絵本事件」に使用された絵本である。この事件は、この絵本「ほまれちゃん」の最後の前のページが全て千切られているという事件だ。つまり、私だけではなく、この絵本を買った殆どの人がめでたしの前を知らない、ということだ。今でもそれを知る人は存在せず、作者が千切ったのか、第三者なのか、それすらも分からない、未だ謎に包まれている事件なのだ。
_20xx年
「ほまれちゃん 特別版」が発売された。抽選で当たった五人だけが、あの絵本のめでたしの前の現場を目撃できるのだという。ほまれちゃんの行方を知りたい人は、勿論私だけではなく。沢山の人が一斉に応募したという。
私は当たらなかったが、友達が当たり、結末だけを教えてくれるというので話を聞いた。内容は以下の通りだ。
_最後に出会ったのは、今本を読んでいる貴方。ほまれちゃんは前の人に貰ったものを、そのまま次の人に渡せば人助けになることを知っています。ほまれちゃんは貴方にビデオテープを渡します。「これを見たら次のページに進んでね」ほまれちゃんは笑顔で言いました。そして、貴方からどんどん遠ざかっていきます。
早く見ろ。
_そのページに貼られているビデオテープには、
おばあちゃんが階段から転がり落ちている映像。
サラリーマンがロープを首にくくりつけて椅子から飛ぶ映像。
女子高生が校舎の屋上と見られるところから飛び降りる映像。
最後には「次は貴方の番」と小さな女の子の声が入っているという。
めでたしめでたしとは何を意味していたのだろう。
ちなみに、この絵本を書いた作者は書いたあとすぐに死亡。この話をしてくれた私の友人も先日亡くなった。もしかしたら、私も番が回ってきてしまったのかもしれない。
私が死んだら、
次はこの文を今読んでいる貴方の番。
「ほまれちゃん」