【君と雨】
放課後の空は、濡れたアスファルトに自分の影を映すほどに暗かった。
傘を忘れた君は、校門の前で立ち尽くしている。濡れるのも構わない顔をして、でもほんの少し唇を噛んでいた。
僕は言葉より先に、傘を傾けて君の肩を覆った。
「入る?」
その一言で、君は小さく頷いた。
二人の間に広がる狭い空間。傘に叩きつける雨音が、遠い世界を遮断する。僕らだけが切り取られたようで、胸の奥が静かに高鳴る。
君の髪先から落ちる水滴が、僕の手の甲を打った。その冷たささえ、どこか愛おしい。
雨はまだやみそうにない。
けれど、この足取りがずっと続いてもいいと、ふと思った。
【誰もいない教室】
放課後の教室は、急に呼吸を止めたみたいに静かになる。
机と椅子が整列し、黒板には白い粉の跡。夕陽が窓から差し込み、床を長く染めていた。
ほんの少し前まで笑い声が渦を巻いていたのに、今は沈黙が濃い。
忘れ物を取りに来ただけのはずなのに、足が止まる。空いた席がひとつずつ、誰かの姿で満ちていく気がした。
風に揺れるカーテンが、残っている時間をそっとかき混ぜる。
暗さが増して輪郭が曖昧になっても、教室は黙って今日を抱え込んでいる。
最後に鳴った鍵の音が、放課後を締めくくった。
【信号】
赤が長く続く交差点で、君を待っていた。
僕の視線は、ただ前の信号に釘付けだった。
青になる瞬間を、心の奥で何度も想像していた。
遠くに、君の影がちらりと見える。
走る人々の中、君だけが僕の世界を変える速度で近づいてくる。
信号は無情にも、僕のもどかしい時間を引き伸ばす。
でも、止まることで、見えるものもある。
赤は、待つことの特権だ。
やっと青に変わると、僕は一歩を踏み出す。
君も気づいたようで、笑う。
その笑顔が、信号以上に僕の心を動かした。
交差点を渡るたび、僕は君の存在を確かめる。
止まって、待って、そしてまた進む。
そんな日常の中に、僕の全部があった。
赤も青も、僕にとってはただの色ではない。
君のために時間を刻む、僕だけのリズム。
【言い出せなかった「」】
言葉の入口まで来て、立ち止まったことがある。
喉の奥に、透明な鍵がかかる。開けようと思えば開けられるのに、どうしても手が伸びない。
「ありがとう」と言えば、きっと笑ってもらえた。
「ごめん」と言えば、たぶん許してもらえた。
「好き」と言えば、少し未来が変わったかもしれない。
なのに、沈黙の方を選んでしまう。
口をつぐんだ瞬間、自分が自分の敵になる。
それでも——言えなかった言葉は消えない。
胸の中で形を変え、夜ごと呼吸に混じっては、かすかな影となって残り続ける。
言えなかった「」が、いつか誰かの声に重なって、ふいに救ってくれる日を、どこかで願っている。
【ページをめくる】
白い紙は、静かな湖面に似ていた。指先をそっと差し入れると、波紋のように文字が広がり、沈んでいた声が浮かび上がる。
一枚をめくるごとに、私は時間を裂いている。昨日の私と今日の私を隔てる、薄い膜を破っている。そこには、まだ誰も歩いたことのない小径が、密やかに続いている。
紙の匂いは土の匂いに似て、ページをめくる音は風の羽ばたきに似ていた。まるで、知らない土地へ移り住む支度をするように、私は物語へ身を移す。
閉じれば、現実の重さが戻ってくる。だが、めくった瞬間の私を、誰も奪うことはできない。
それはほんの刹那の自由であり、祈りに似た動作だった。
だから私は今日も指先で未来を試す。
一枚の紙をめくる、それだけのことで。