終わる時というのは、あっけない音を立てて訪れるものらしい。
「⋯⋯ねえ、何か言ってよ」
額に冷や汗が滲む。そんな私を無視するような素振りで、彼は無言のままだった。
こんなにも容易く終わってしまうのか。私たちが一緒に過ごしてきた月日さえ無かったかのように。⋯⋯いや、その時間があったからこそ。崩れる瞬間があまりに短く感じるのかも知れない。
「お願いだから、何か、何か言ってよ⋯⋯!」
私がどれほど彼の体を揺すっても、彼はちっとも動じなかった。
真っ青な画面から、私は目を離せないというのに。
恋の話が好きだ。
人が人に対して熱烈に感情を動かし、その感情ゆえに非合理的なことさえ行う。なんて不可解で、なんてロマンチックで、想像するだけでも胸が躍る。
ページを捲る度、音声を聴く度、舞台や銀幕を瞳に映す度、私は鼓動を高鳴らせる。
あぁ、恋とはなんて素敵なものなのだろう。
不意に、友人が私の手を握る。
「ねえ。僕とのこと、考えてくれる?」
「何度も悪いとは思うけれど、そういうことは考えられないの。交際相手が欲しいのなら貴方にもっと相応しい人がいると思うわ」
素っ気なく返し、振り払った掌をそっとハンカチで拭う。彼は顔を曇らせ、肩を落とした。
私は恋の話が好きだ。でも、人が人を愛するという関係を自分自身に置き換えることは、これっぽっちも想像がつかない。
ああ、もしかしたら私は『恋物語』そのものに恋をしているのかも知れない。
『貴方は私のことを愛していないのね』
そんなことを彼女が言うから。
本当に、心の底から、真正、彼女を愛しているのなら出来るでしょうと、彼女は私の手に包丁を握らせた。
私の為なのだもの。やってくれるわよね。
そう、赤い唇で耳打ちした。だから。
彼女が握らせてくれなければ、柄を握る指は震えて取り落としていたに違いない。
彼女が頼んでくれたから、生あたたかい赤い血をかぶることも、生臭い臓物に塗れることも、苦では無かった。
彼女が囁いてくれたから、こんな、おぞましいことをやってのけたのだ。
彼女が、私になら出来る、任せられると、期待をかけてくれたのだから。
それなのに、いつまでたっても褒める言葉はかからない。
細く優しい指は頭を撫でてくれやしない。
やってみせたのに。いじわる。
私は迷子になった子供のように、わんわんと泣き喚いた。彼女から溢れ出た赤い水たまりの中に座り込んで、何時までもいつまでも泣いていた。
全身に風を浴びるのは心地が良い。
広い袖口から風が入り込んで、白いTシャツをふわりと膨らませていく。
そわりと脚の間を撫で上げられていくがくすぐったいほどでは無い。むしろ肌に張り付いた湿気を飛ばされて、爽やかな快感すらある。
このまま空高く舞い上がりたいような、それとも地に足を付けたまま空が降ってくるのを待つか。
どちらとも甲乙つけがたく、くすくすと緩めた目元。睫毛を、また風が揺らしていく。
「『おうち時間でやりたいこと』? 」
私の手元の雑誌、大見出しに書かれた文字を読み上げて、彼女は不思議そうに首を傾げた。
「ええと、この特集だと⋯⋯『自宅でゆっくり体を休める』『他人に気を遣わずに自然体の自分で』とか」
「なぁにそれぇ」
体を動かすことが好き、アウトドア派、と常日頃胸を張る彼女だ。そもそもとして考えが理解出来ないようで、鈴を転がすような美しい声を立てて笑った。
「お出かけ、楽しいよ! いーっぱい、体がへとへとになるまで動いてね、ゆっくり腕を伸ばす時の気持ちよさったら!」
にこにこと笑顔を浮かべていた彼女が、ふっと眉を下げ、「最近はしてないけど」と呟く。
「⋯⋯出かけるのが大好きだったんだね」
「うん、そうだよ! 貴方はおうちが好き? それとも、お出かけが好き?」
「最近は出かけるのも好きかな。貴方に会えるから」
だから最近、読まずに詰んだ本は増えてきたし、アイロンのしていないシャツは皺だらけだし、部屋の隅には埃が積もってきた。
それでも今の私は彼女から目が離せない。彼女に会う前の自分が思い出せない。彼女に夢中だ。
また「なにそれー」と彼女が笑う。
「貴方はおうちは好きになれそう?」
「楽しいよ! 狭いのは嫌だけど、お水はいつも綺麗だしご飯も沢山貰えるし、それに、貴方みたいな面白い人にも会えるからね」
「それなら良かった」
水槽のガラスに手を当てると、人魚はくすくす笑いながら反対側から手を合わせてきた。