どこに惹かれたのかは今でもわからない。
君の特徴的なアヒル口、あるいは物静かなところが好きだったのか。でもそれが初恋であったのは覚えている。
声をかけることもなく、遠くから眺めているだけで、満足だった。
皆が僕を嫌っても、君だけは優しい笑顔を向けてくれたし、何も酷いことを言わなかった。
綺麗なままの君が好きだった。
でも、砂地に誰かの名前を書いて、踏みつけている君を見たとき。
それが妄想であると気づいたんだ。
人を傷つけることを知らない、小さな虫をも殺さないような女の子じゃないってことにね
『届かぬ想い』
※毎日は厳しくなってきたので、二日に一回くらいになります。
「あぁ、つがれたぁ」
自家用船に乗り込むと、思わず乾いた悲鳴がでる。
この仕事を続けてはや十年、連日は人手不足もあって、朝から晩までたっぷり十二時間、労働を強いられている。
休日は二週間前、一昔前なら超過労働で訴えを起こせただろうが、度重なる政治運動の結果、この宇宙での制度化はしてない。
まあ、その分、経済は豊かで、仕事も多いわけだが。
すっかり定番になったAIナビを起動する。
球形で浮かぶ一つ目のロボ、複雑な道順から最短ルートを出してくれる便利な奴だ。
「行き先はどちらでしょうか?」
「マムシ亭」
AIはすぐに反応し、ホログラムで経路を提示した。こんな働いてるんだから、たまには酒を飲んでもバチは当たらないだろう。
風吹く様なエンジンの音、はじめて起動した時は感動したものだが、いまはもう何も感じない。
宇宙流通は品物を荷台に積んで各地に届ける仕事だ。荒れ狂うタイタンや母なる地球がお客様。世界中を旅できるといえば、聞こえはいいが、過酷なもので、夢もロマンもあったもんじゃない。
荷物下ろすには体力も必要だし、星の制度を知っとかないと何回切符を切られるかわからない。最初は酷いもんだった。
何より、宇宙の旅は思ったよりも退屈だ。
星は美しいが、一年もすれば飽きるし、生き物はてんで見当たらない。
ずっと孤独に宇宙を漂うわけだから、時間感覚は麻痺するし、身体の調子もおかしくなる。
こんなこと考えたって、今の仕事が嫌になるだけだ。忘れよう。
丁度店にもついたついたことだ。
マムシ亭は、何百年と続く老舗の居酒屋だ。酒もつまみも安くて美味い。
最高のいきつけの店だ。
暖簾を通れば、もうすっかり廃れた木造内装が目に映る。時間も時間ということで、他の客は男が一人いるくらいだ。
「唐揚げ、ビール、それと枝豆をお願いします」
「あいよ!」
こんな時間だというのに店主からは全く眠気を感じない。毎度思うことだが、この人はいつ寝てるんだろうか?
巷で噂の肉体改造でもしているのかと思うほどテキパキ働いている。羨ましいかぎりだ。
「ひっ…ひっ……!ひっ」
さっきからやかましい。声のする方、隣の席に目をやると先ほどの男が、グラス片手にうつ伏せで泣いている。まあこういう変なやつがいるのはままあることだ。
嫌な感じがしたので、少し離れた席に移動し、唐揚げをビールで流し込む。仕事終わりの一杯としては最高級だ。
「くぅ…!」
感嘆の声が漏れる。合法薬物が現れても、ビール代わるものはないと思う。
「あの……、ずみません」
驚いてそっちを向くと、あの男が隣の席に座っていた。いつの間にこっちにきたのだろう。
「なんですか」
あえて低い声で言う。小さな楽しみを邪魔しないでほしい。
「あの…この、これに、入っていただけませんか」
紙束を差し出してくる。
見ると、”スキャーム保険会社”とある。
どうやら契約を求めているようだ。
「間に合ってます」
既に会社指定の保険に入っているので、俺には必要ない。そもそも、今は技術の進歩により、だいたいの事故は検知され、防がれる。
ここ含む発展した宇宙では、保険はもはや不要の産物、今も必要なのはまだ開拓されてない星くらいだろう。
それでも入るのは、万が一の船の衝突事故に備えてのことだ。破損したパーツは貴重なものが多いので、補填をしてもらうわけだ。
「いやいや、それでもですね、ほら、船が遭難されても、こちらの方で補償できますし、ね、どうでしょう。見たところ、運送屋さんなんですよね」
意外とめざとい、これで目元に涙がなく、場所が場所じゃなければ、良いセールスだったかもしれない。
「大丈夫です。最近の船には、遭難しても観測システムが働きますから、
それにこの年間料金じゃ、とても割に合いませんよ。船の事故なんて、二十年、いや五十年に一度あるかないかですから」
「そう…ですか」
男はカウンターにうつ伏せ、また泣きはじめる。
「ええ、わかってます。もうここじゃ、需要がないなんて、採算承知の上やってるんです」「こんな料金じゃ誰も入ってくれません、正直にやるのがやっぱダメなのか、でも人を騙したら客商売失格ですから、やっぱ正しい、私はまちがってない」
泣きながら騒ぐ男、うるさい、こっちも疲れてるんだ。そっと立ち上がって離れようとした時。
「ええ、ええ、そうですよね、私はそうやってくるからここに回されたんです。
十二時間越えて働いても、成果ださなきゃ意味もないですから、無能な働き者って私のことを言うんですよ」
このセリフを聞いた途端、俺は男に同情を禁じえなかった。俺はセールスをしているわけではないが、何時間も働く苦労は知ってる。特にセールスなんて、回り回って成果ゼロ、徒労に終わることもあるだろう。
帰ってもあるのは安物の人口食品、契約とらなきゃ給料なし、少し話を聞いてやることにした。
「店長、この人にビールを一つ」
「え、ちょっといただけませんよ」
「まあまあ」
隣に戻る。
「ここで会ったのも何かの縁、互いの苦労話でもしましょうよ」
世界の終わりみたいな顔が少し明るくなり、ハキハキと喋りはじめた。
男はあの保険会社に十年も勤めていて、その道のベテランだという。座右の銘は正直で、それで契約を今まで取れていたという。
だが、先ほど話した通り、保険というのは時代錯誤の産物に成りつつある。倒産からの逃亡として、詐欺じみた値段で売りつけるしかなくなったという。
「もううちなんて零細も零細、超零細って言ってもいいくらいです。それでもいっぱい働きました、貢献しました。
時代は残酷ですよー!」
そうだそうだと頷く、互いに十年で長期労働仲間、もうすっかり意気投合し、できあがっていた。
「やっぱもうあそこなんでやめたります、未来はない、記念です。今日はある分だけ金使ってやる!」
男は数えきれんほどの注文をし、カウンターは団体客でもいるのかという格好になった。
「ほら、〇〇さんもこれ飲んで飲んで」
ぐびっといっぱい、にはいと飲む。
「遠慮せず、ほらほら」
「ああ、俺ももうあんな企業ごめんだ、やめてやる」
「でしょでしょ、ほらほら記念記念」
勧められた焼酎を一気飲み、それと同時に俺意識を失った。
目を覚ます。男の姿は既になく、キッチンで店主が皿を洗っていた。
「いま…何時ですか」
「地球時間で8時ですね」
そんな寝ていたのか、流石に帰らなければ。
そう思い荷物を探すが、見当たらない。
「ここに落ちてた鞄、知りませんか?」
「いや、見てないですね」
寝起きで二日酔いの頭を必死に働かせ、目を凝らすが、どこにもない。荷物だけでなく、外に置いてあったはずの船も消えていた。
「あの人はどうしましたか」
「もうお帰りになられました」
からんからんと鈴が鳴る。
「簡単に人を信用しちゃいけないな」
一人、呟いた。
物は盗られてしまったから、帰りは銀河鉄道にでも乗るしかない。不幸中の幸いか、お金は僅かながら残っている。
なんだかもはや清々しい。
「このまま会社も辞めますか」
窓から見下ろす宇宙は、星雲ひとつとない、美しいものだった。
『快晴』
陽光の心地いい朝のこと、語られ村の少年は、いつものように手伝いに駆り出されておりました。汗水垂らし、畑を耕す。
もしここで現代のナチュラリストなどがおりましたら、なんと素晴らしいと賞賛の嵐を贈ったかと思われますが、少年はいささか不服そうでした。
それもそのはず、彼には大きな夢がありました。それは、片田舎、古ぼけた農具を最新と称するほどのこの村から、いつか都市へ旅立ち、冒険者になりたいというものです。
農作業に日々を費やし、芋臭い娘と家庭を築き、子にもまたそれを求めるなど、彼には言語同断。彼に必要なのは鍬ではなく、馬を握る手綱なのでした。
「ちょっと、休憩しよう」
すっかり汗だくの少年は、
土も一通り和らいだので、鍬を立てかけ、ちょっと一息つくことにしました。
青々とした芝に腰を下ろすと、大きな風がびゅんと吹き、小さなバッタは大慌て、追いかけて蜘蛛も避難します。
森に小鳥たちの声がこだまして、小さなオーケストラをひらきます。彼は籠に載せられたグミの実を、一つ二つとつまみながら、爽やかな喧騒に耳を傾けるのでした。
「キィ…キィ…」
耳慣れない声が聞こえます。少年も思わず、食べるのをやめ、その声に注力します。
「井戸のほうからだ、キツネでもオオカミでもないぞ、聞いたことない、なんだろう」
甘いものも食べて、ちょうど喉も乾いていたので、声のほうへ抜足差し足、慎重に向かいます。
その声はどんどん大きく、どこが苦しそうになっていきます。ゴツゴツした岩肌のような井戸が見えてくると、そこにバシャバシャ水の跳ねる音が混じってきます。
少年はなんだなんだと、足がもつれつつも、急いで中を覗き込みました。
暗いくらい井戸の底には、銀色に輝く小さなナニカがいました。必死に跳ね回り、もうめちゃくちゃに身体を動かしもがいています。
少年は何がなんだかわかりませんでしたが、咄嗟に桶を井戸に落とし、つりそうな手に力一杯、暴れ坊と化した桶をなんとか引っ張りあげました。
陽光が照らし、その正体を露わになります。それは、銀の鱗に包まれて、こぶりの尖った爪があり、小さな翼をはためかす、
そう、ドラゴンでした、しかも大きさは少年と大差ない、そう、赤ん坊のドラゴンが井戸で溺れていたのです。
ドラゴンは身体をブルブル振るわせて、小さな雨で少年を濡らしたあと、いきなり飛びかかります。呆気に取られた少年は、尻餅ついてなすがまま、身体中ペロペロと舐められました。
数秒の沈黙の後、彼はドラゴンを引き離し、ようやく状況を理解しました。
(すごいぞ、キツネでもオオカミでもないぞ、ドラゴンだったんだ、でもどうして井戸なんかに…)
ドラゴンはキィキィと甘え、頭を近づけてきます。よく見ると眼はまだひらきかけ、少年を親と勘違いしたのでしょう。
「おまえ、なんだ、俺のこと好きなのか」
肯定かどうかわかりませんが、ドラゴンはまた少年を舐めます。
「わかった、わかったから、そうだな…、でもうちに置けないしな…」
それは当然、ここは単なる田舎村、ドラゴンブリーダーがいるわけもなく、食糧も十分というわけではありません、ましてやドラゴンですからたいそう食うことは予想できますから、彼は頭を悩ませました。
(そもそもここに置いて、親が帰ってたら大変なことになる…、村が黒焦げになるのは流石に嫌だ)
少年はハッと思い立ちます。
「おまえ、ちょっとこっちに来い」
彼は森の方へとドラゴンを引き連れ向かいます、そこは少年の秘密基地、大きな沢と、溢れる果樹の森林です、ここには野生動物も多く訪れ、今日はうさぎの姿がありましたが、ドラゴンに驚き、まさに脱兎と、逃げました。
「ここなら食糧はうんとある、おまえも腹一杯食べれる」
「俺以外がきた時は、あの木のうろに隠れてやりすごすんだ」
「おまえは今日からドラゴンの子だから、ドラコだ。毎日くるから、まってるんだぞ」
人の言葉はわかりませんが、何か察したのか、ドラゴはキィキィと返事しました、少年もまた上機嫌に頷いて、そこから小道を駆けていきました。
(よしよし、やったぞ!あいつがいれば、俺も冒険にいけるかもしれない、鍬を持つのも牛の世話ももう少しの辛抱、こんな村からはおさらばだ!)
少年は胸に夢想を踊らせながら、家に帰りました。その夜、作業を途中で放り出し、かんかんに怒られたものの、どんな酒でもこんな酔っ払いは生まれないほどに、空想に酔った少年には、馬の耳に念仏。
そのまま心地良い眠りについたのでした。
次の日から少年は、森へ通うようになりました。最初は会うたび会うたび、飛び掛かられて、大騒乱となったものの、次第に色々するようになりました。一緒にうさぎを捕まえたり、魚をとったり、木登りしたり、
背中に乗って、村まで飛んだり…
いつしか少年は、ドラコに兄みたく接するようになりました。撫でてやったり、一緒に笑ったりするのが楽しいのです。
もし、叶うなら、一人ではなく、ドラコと共に空を飛んで都市へ行けたら、そんな想いが少年の心に灯りました。
しかし、その空想も長くはありませんでした。ある日のこと、
青年はいつもの様に森にやってきました。
口笛を鳴らすと、ドラコがばっと飛びだします。もう身体はすっかり大人、琥珀色の瞳に大きな爪は、まさしくドラゴンという姿でありました。
「ドラコ、今日は飛ぶ練習だ。おまえも大きくなったことだ、少し遠出してみようじゃないか」
ドラコは身体を屈めて、青年は背中に乗ります。用意した手綱を掴むと、大空へと勢いよく飛びあがります。
視界には、どこまでも広がる森林に原野、遠くには街が見えます。尖塔が雲を貫いて、伸び上がり、陽光に輝いています。
「よし、ドラコ、今日はあそこを目指すぞ」
ドラコはギィ!と鳴き、雲を弾くほど翼をはためかせ、町へと向かいました。
荷馬車を引く商人に、雑談に明け暮れる夫人たち、遠くからでも人々の生活はよく見えます、少年が特に見るのは冒険者たち、思い思いの武器には、赤錆と傷が残り、長い戦いの日々を思い起こさせます。
青年はそんな姿に自分を重ね、剣を振るい、ドラコと共に敵を薙ぎ倒し、英雄の様に凱旋する。そんな空想を描いていました。
(もう夢じゃない、そろそろだ、ドラコと共に
最高の戦士を目指すんだ)
突然、彼を振り落とさんばかりの強風が襲いました。
「ドラコ!いきなりどうした!」
そう、ドラコが突如として速度をあげ、町から離れているのです。青年が空に眼をやると巨大なドラゴンがいるではありませんか、ドラゴンはドラコめがけて猪突猛進、すごい速さで迫ってます。
青年は手綱をしっかり掴み、可能限りスピードを上げます。
「がんばれ!ドラコならいけるぞ!おまえはどんな奴よりはやいんだ!」
しかし、その努力虚しく、ドラコは苦しげな息をあげながら、よろよろと平野に身を下ろしました。
すぐさまドラゴンも降り立ち、彼らを見下ろします。煌々と輝く銀の鱗に、巨大な翼。何もかも見通す様な黄色い瞳、圧倒的な威厳、それは恐ろしくも、何処か寂しげでした。
ドラゴンは、ドラコに頭を近づけると、
「ギィ…ギィ…」と鳴きますが、ドラコは縮こまり、青年の背中に収まりきらない身体を隠します。
青年は、兄として、育ての親として、ドラコを守ろうと前に立ち、震えながらも小さなナイフを向けました。
しかし、ドラゴンは意にも返しません、
ただ、その寂しげな眼で見つめるだけです。
はっとして、青年はドラコと竜を見比べます。そう、瓜二つ、この竜はドラコの親だったのです。彼女はまだ羽も未熟なドラコを落っことし、ずっとずっと探していたのです。そして、今日この日、ようやく大事な息子の、それも成長した姿を見つけたのです。
青年はしばし俯いていましたが、やがてドラコに向き直り、口を開きました。
「ドラコ、こいつ、おまえの母さんだって」
「ほら、やっと迎えがきたんだよ」
ドラコはそれ聞いて、向き直ります。
見つめ合う二匹の竜は、思いが通じ合ったのか、互いにギィギィ鳴きました。
ドラゴンは翼を広げ空へ舞いますが、
何か躊躇する様に青年を見つめます。
青年は目元を抑えながら、縦に首を揺らし、最後の合図を吹きました。
すると、二匹の美しい銀竜は、遠い遠い空の彼方へ飛び去っていきました。それを見送る青年は、頬の赤腫れを親につめられながらも、ほどなくして旅立つのでした。
『遠くの空へ』
頭痛がする、朦朧として吐き気もひどい、
その上、カラカラと背に降り注ぐ陽光は、容赦なく身体を焼けつけている。
「あつい…」
うわ言のように呟き、歩く、歩く。
靴下に入る砂つぶは、一つ一つが燃えるよう、その上、汗がべたついて、僅かな水分は余計に奪われる。
「……!」
目の前には、青く透き通った砂漠のオアシス、緑乱れ、生命が息づいている。自然と足速となり、紅く痛んだ脚を鞭で打つように働かせる。
着いた瞬間、獣みたいに顔を突っ込み、生命の雫を咽喉に通していく。
渇いた体が潤いをもち、ぼやけた視界は、いくばくかはっきりとした。
助かったという安堵と同時に、疑問と不安が浮かび上がる。
「私はなぜここにいるのだろうか」
私は砂漠の探検隊でも、イスラエルの商人でもない、こんな荒涼とした地に踏み入れるような人間ではない。
そもそも私は一人家にいたはずだ。
一日中、現代的娯楽に勤しみ、深夜のラーメンに満足し、ぐっすり眠りについたのだ。こんな目に遭ういわれはない。
わかったぞ、これは夢なのだ。
明晰夢というのを聞いたことがある。
しかし、夢にしては渇きも、痛みもやけにリアルだ。
突如、私に途方もない恐怖が沸き立った。
声が聞こえたのだ、命じるような機械的な声
「まけたんなら、やり直し」
背筋が凍る。
私は知っていた、この砂漠も、このオアシスも、ああ、そうか、そういうことだったのか。
記憶のダムが決壊し、口をあんぐりした男は、震えながら許しを請いたが、砂漠は全てを砂に変えて、男の言葉を掻き消した。
「まだ終わらないの?」
「ええ、なかなか難しいようで…」
「もういっそのこと、あなたが私の息子ならいいのに」
「私は単なるロボなので、彼の感覚を知れる程、人間的にできてはいませんから」
『言葉にできない』
「今年も御迎えにあがりました」
天の使者は、いつもと変わらぬ調子で答えた。
「あら、もうそんな時期なの」「もうちょっとこちらにいてもいいと思うけれど」
「それはいけませぬ、貴方様が地上に現れることが春を告げる合図なのですから」
その通り、暗く陰惨な冥府の地下から出ることで、私の母は豊穣をもたらす。
母は私と一緒でないと酷く悲しんで、冬を告げて仕事をサボってしまうのだ。
「いや、今回はもうちょっといるわ」
頑なな私を使者は怪訝そうに見つめる。
「なぜですか?」
少し間の後、使者は表情を語りだす。
「去年もそうでした、失礼ながら、貴方様は外に出ることを望んでいないように見えます。母との再会は、あなたにとって嬉しいものではないのですか?」
「いや、嬉しいー、嬉しくないというわけではないの、ただ…」
「ただ…?」
「最近、ヒステリーがひどいの、突然喜んだと思ったら、悲しんだりと、母はそんな調子なのよ」
「今日だって、まだ会ってすらいないのに夏真っ盛りの暑さじゃないの」
冥府に漏れるほどの光には、照りつけららた春風が乗っていた。
『春爛漫』