【空模様】
目の前のキャンバスを青一色だけで塗りつぶす。
ところどころにリンネルの繊維が浮き出て、ざらついた陰影を描く。
凍るほどに真っ青で、荒々しい手触りの空。
これが、今の空模様。
俺から君に届ける、精一杯の空だ。
あの日、俺の精一杯の告白を、君は鼻先の笑いで吹き飛ばした。俺の想像通りに。
「だってキミさ、美術室にこもって絵ばっかり描いてるオタクくんでしょ? あーしが好きになるわけないよね?」
ひと気のない放課後の教室。窓の外は赤く染まっていた。俺の心の色そのままに。
君は片膝を立てて机の上に行儀悪く腰掛け、挑発的な目で俺を見上げていた。短いスカートが裏側のすべてを見せるようにめくれ上がっていたが、だぼだぼのジャージを穿いているから、下着は見えない。完全武装。
「つか、なんであーしなの? 接点ないっしょ。同クラになってまだ一ヶ月だし」
「接点ならある。同じ病院に通ってる」
「ふーん。ストーカーじゃん」
君の目がスッと細くなる。
「君は透明病だと聞いた」
「プライバシーねぇな、あの病院」
舌打ちとともに悪態をつく。その荒々しい態度に俺は怯むが、いっそ心地よくもある。
「俺たちが同じ高校の二年生だと知って、看護師さんが気にかけてくれたみたいで」
「ってことは、まさか、香坂も?」
俺はゆっくりとうなずく。驚きに見開かれていく君の目を見つめながら。
「あと二ヶ月で消えるよ」
透明病。または幽霊病。もしくは空っぽ病。
文字通り、体が透明になって消えていく奇病だ。ウイルスや細菌で感染するような病ではない。だからこそ、原因は不明。本当に病気と言える現象なのかも、まだわからない。発症するのは、思春期の少年少女、つまり俺たちのような年頃の者ばかり。足の爪先からだんだん透明になっていって、数ヶ月もすれば全身が消えてしまう。
足首が透明になっても普通に歩けるから、肉体はそこにあるままなんだろう。だけど、全身が消え、身に着けるものまでも消えてしまうようになったら、いくら肉体があろうとおしまいだ。声は誰にも届かなくなるし、風すら起こせなくなる。ペンもパンも掴めない。つまり、生きる術がなくなる。そうなる前に――首が残っているうちに、患者は安楽死させられる。
あのあと、すぐに見回りの先生が来て教室を追い出された。空はすっかり暮れて紫混じりの紺色だ。うっすらとなびく雲がなまめかしい。
君と俺は帰り道を前後に並んで歩いた。君の家がどこにあるかは知らない。俺はただ君が行くほうについていくだけだ。君は危なげない足取りで、どんどん先に進んでいく。そのジャージの下は、もうほとんど消えているはず。俺はまだ、足首まで。
「香坂はあーしより一ヶ月遅いんだね」
君は首をちょっと傾けて振り向いた。上目遣いに俺を見る。
「だから同病相憐れんで最後に青春を楽しもうってわけ?」
案外、小難しい言葉を知っている。
「当たらずとも遠からずだけど、もともと君のことは気になってた」
「なにそれ、顔が好みとか?」
「そう。顔が好み」
「正直じゃん!」
君はけたけたと笑い出した。
「あーしも、あーしの顔は好みだよ」
とまれ、の路面標示を越えるようにぴょんぴょんと跳ねる。だぼついたジャージが揺れる。
「しゃーねーから、生存記念にモデルぐらいにはなったげてもいーよ。脱がないけど」
「脱がれたら大問題だ。そのままの君でいいよ」
「あれ、なんか後半のセリフえぐくね? 香坂ってそんなキャラ?」
君がきょとんと首をかしげる。これはたぶん、素の表情。
「絵ばっかり描いてるオタクくんかと思ってた」
「絵ばっかり描いてるオタクくんだよ」
箸にも棒にもかからない絵ばかりを。
「あーしはそういう趣味もなくて、空っぽだったからなぁ」
君が空を見上げる。金色に染まった長い髪が、夜の風に流れる。
「ダチがギャルやってっからギャルやってるだけだし。オタクみたいにハマる漫画とかもないし。音楽とかも全部聞き流してるし。なんかこう、流し流されまくってんだよね」
切れかけの街灯がまたたいて君を照らす。アニメーションのワンシーンみたいに。
「もともと幽霊みたいなもんだったから、ま、しゃーないなって」
君がまた俺を振り向く。
「キミは絵を描く趣味があるのに、なんで罹ったん?」
「わからない。それしかないからかも」
家に帰ったところで、部屋は空っぽだ。まっさらな机と、よれた毛布のベッド。キャンバスや絵の具を家に持ち込むことは禁じられている。美術部に入ったことも、いまだに内緒にしている。ましてや、美術の専門学校に行きたいだなんて、言い出せるわけがなかった。進路調査票はいつも、無難な大学を書いて提出している。
透明病のことすら、親には話していない。当然、クラスの友達にも。こんなことを話せる相手なんて、誰もいなかった。君以外には。
「ところで香坂ってどこ住み? まさかあーしの家までついてくる気じゃねぇよな?」
「学園町」
ゆるみかけていた君の表情は、たちまち一転、あからさまな嫌悪で強張った。
「方向正反対じゃん! ストーカーじゃねーか!」
暗い夜空の下、俺はあっさり追い払われた。
君にはとうに見抜かれていたと思うけど、君に寄せる俺のこの想いは、恋の情熱とかそういうものではない。同病相憐れむとかそういう感情だけではない。もっと透明で、なにもかもが凍りつくほどの――怒り。たぶん、俺は怒っているんだと思う。君にも、俺にも、空っぽの家にも。未来にも。
だけど、凍りついてしまった俺は自分でもその感情がわからない。だから、精一杯に絵を描く。俺と君のための、空っぽの絵を。
あの日の出来事がきっかけで君と俺は話し込むようになった――ことはなく、いつもと変わらない、君と接点のない高校の日常が続いた。二週間経って、君は学校に来なくなった。君が透明病だという噂はとっくに広まっていた。お見舞いに行こうというクラスメイトはいなかった。俺はさらに二週間経ってから、病院の定期検診のついでに、君の病室に寄った。大部屋かと思いきや、個室だった。明日の処置のための配慮だろうか。
俺を見てはっとしたように身を起こした君は、首元まで包帯で巻かれていた。そうしないと、体の形がわからなくなってしまうから。毛布はちゃんと足の形に膨らんでいる。見えようと見えまいと、君はまだそこいる。
透明病患者は末期になれば入院する。入院したところで治せるような病ではないので、ここですることといえば、透明病による身体反応の変化の研究とか、君を安楽死させるにはどのぐらいの薬が必要かとか、そういう検査ばかり。最後の最後で、君はさぞうんざりしているだろう。
「なに、寝込み襲いに来たん?」
「もう下半身ないから、そういうのはできないな」
俺はベッドの横の丸椅子に、制服に包まれた腰を下ろした。椅子の薄いクッションの感触はまだ感じられる。足先はもう感覚が無いけれど。
「そのデカい荷物はなんなん?」
君は俺から警戒の視線を外さない。
「君をモデルにして描いた」
俺はキャンバスバッグを下ろして、昨日描きあげたばかりの絵を取り出した。乾燥剤のおかげで、絵の具はもう固まっている。
「あーし、こんなにちっさいの」
絵を見た君は一瞬ぽかんとしたが、すぐにけたけたと笑いだした。S10号、五十三センチ四方の、正方形の空。
「青しかないじゃん。あーしの名前、茜なんだけど?」
「名前は関係ないから」
名前なんてただの識別標で、君自身を表すものではない。
「触ってみて」
君の前にキャンバスを差し出す。
「うわ、えぐ、ザラザラじゃん。包帯みたい」
君はもう片方の手で自分の首元に触れた。
「ふーん、これがあーしかぁ」
ニヤリと挑発的な上目遣いで俺を見る。
「この絵、くれんの?」
「あげない。俺のだから」
俺はキャンバスを引き戻す。
「えっぐ。香坂ってそういうキャラだよね」
君はまた笑った。
そうか――俺はキャンバスを腕の中に抱えこむ。俺はそういうキャラなのか。君が放った言葉の感触に、俺はほっとしていた。君の中には、きっとたしかな俺の形がある。
君はまだ笑っている。ほとんど泣き笑いだ。もうすこししたら、泣き声に変わるかもしれない。
病室の窓から見える四角い空は、雲ひとつない真っ青だ。色がなければ、ただの空っぽに見えるだろう。だけど、君はキャンバスという形を得た。俺はまだ残されている腕で、ぎゅっと空を抱く。怒り、それすらも空っぽだった俺たちだけど、ここに空の形がある。たとえ体がこの世界から消えようとも、俺たちは永遠に、この空を描いて生きる。
【鏡】
十歳のアンは、朝起きると必ずベッド横の等身大の鏡に挨拶をする。おはよう、と言うと、鏡もそっくり同じ顔と同じ声で、おはよう、と返してくる。瞬きのタイミングだけが、ときどき違う。
この国の富める者はみんな、自分専用の“魔法の鏡”を所有している。鏡は自分と一緒に成長し、やがて欠けていく。よくある平面の鏡と違って、“魔法の鏡”は欠けやすい、アンは両親からそう教わった。
ある日、アンは馬車の暴走事故に遭って片足を失う大怪我をした。手術を受けたアンは両足に戻ったが、鏡は片足が欠けてしまった。アンは自分の美しい鏡が欠けたことを嘆いた。鏡なのだから、そっくり同じでなければならないはずだ。そう思ったアンは、鏡と同じように自分の片足を断った。
「これで同じだね」
鏡が持ち主よりも先に言葉を発することはあり得ない。だからそう言ったのはアンであるはずだった。手斧を持って義足で立っているのもアンであるはずだった。血にまみれたドレスで倒れているのは、鏡のほうだ。いや、先日の事故を思い出させる強烈な痛みを感じているのは自分なのだから、自分がアンだったのかも知れない。どちらが所有者でどちらが鏡なのか、アンはわからなくなってしまった。本物のアンも、鏡のアンも、どちらも美しさは変わらない。どちらも片足が欠け、どちらも赤が似合っている。そっくり同じなのだから、どちらがアンでも同じことだろう。
「これで同じだね」
アンはもう一人のアンと同じ表情を浮かべ、同じ声を返した。
アンの事件があってから、魔法のようだともてはやされていたクローン技術は、一転して忌避されるようになった。研究所に出資する貴族はいなくなり、街では出稼ぎをする研究者のクローンが目立つようになったという。
「時代は合わせ鏡、どうせまたすぐに俺らの力を必要とするやつが現れる」
研究者のクローンはみんな、口癖のようにそう言っていたそうだ。そして、中流階級で双子の出生率が増えたのも、この時期である。
【誇らしさ】
「あなたはこの街の誇りです!」
人々の声に背中を押され、若き勇者は魔王を倒すために旅立ちました。
「たくさん修行しました。こうしてあなた様をお護りする任に就けたことが、私の誇りです」
教会から派遣された忠実な僧侶も、勇者とともに旅立ちました。
「おまえのような弟子を持てて、わしは誇らしいのう」
師から免許皆伝を告げられた武闘家が、勇者の仲間に加わりました。
「この樫の杖は我が一族の誇り。この杖にかけて、魔王を倒すと誓いましょう」
そう告げるエルフの魔術師が、勇者の仲間に加わりました。
勇者一行は山を越え河を越え荒野を越え、長い旅の果てに、ついに魔王城へとたどり着きました。
そして、魔王の卑劣な罠にかかって負けてしまいました。
瀕死の勇者は、魔王に向かって叫びました。
「正々堂々と戦わずにこんな卑怯な手を使うとは、おまえに誇りはないのか!」
「誇り? そんな腹の足しにもならんものをありがたがるほど、魔王は暇ではないのだ」
魔王はためらいなく勇者たちにとどめを刺しました。
「こたびも人間どものしつこい侵略を退け、我が城を護ることができた。皆の協力に感謝する」
玉座に堂々と座した魔王は、居並ぶ配下たちを誇らしげに見回しました。
「ありがたきお言葉。魔王さまのお役に立てるのでしたら、どんな姑息な手をも使いましょう」
配下の魔物たちも、誇らしげな顔で応えました。
そして今日も、どこかの街から若い勇者が魔王討伐のために旅立ちます。人々の声援を背に受け、胸いっぱいの誇りを携えて。
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お久しぶりです。休眠中にもぽつぽつ♡をいただいていたようで、ありがとうございます。励みになります。
またこれからしばらく平日に投稿していきます。よろしくお願いいたします。
【鳥かご】
※ 主人公と友人の性別は、お好きなほうでお読みください。
先月、友人から鳥かごをもらった。アンティーク店にでもありそうな、籐製の古びた鳥かごだ。小さく、鳥を飼うには適していない。ただのインテリア品だと思ったが、友人が言うには、中に幸運の鳥が入っているそうだ。私には何も見えない。
メーテルリンクの『青い鳥』でも気取っているのか、なんだか奇妙なものを押し付けられたな、という気がしないでもないが、私はそれを窓辺に吊るしておいた。何にも見えないのだから、何の世話もいらない。ただそこに空っぽの鳥かごがぶら下がっているだけ。さすがに味気ないので、私は雑貨屋で人工の観葉植物を購入し、鳥かごの中に飾ることにした。
いざ鳥かごを下ろし、観葉植物を入れようと扉に触れたときだ。ふいに、鳥の鳴き声らしきものが聞こえた。窓の外から聞こえたのかもしれない。だが、私は鳥かごの扉を開けるのをやめた。観葉植物は鳥かごの上に被せるようにして飾った。そしてまた鳥かごを窓辺に吊るした。
友人の戯言に踊らされている、とも思ったが、悪い気はしなかった。あいつはそういう冗談の上手いやつなのだ。
今日、先月ぶりにその友人が、酒を飲みたいと言って家まで押しかけてきた。玄関で私を見るなり、友人は言った。
「ずいぶんと顔色が良くなったな」
「そうか?」
「ああ、先月は恋人に振られたのだの単位を落としただのなんだのと言って、ひどい顔をしていたじゃないか」
「そういえばそんなこともあったな」
「その様子なら、幸運の鳥も元気そうだな」正面の窓辺に吊るされた鳥かごに目をやって、友人は満足げに笑った。「たまには鳥を飼うのもいいものだろう。あの鳥は世話いらずで、いつもそばにいてくれる」
「ああ。鳥かごさえあれば、だけどね」
私がそう応えると、友人はニヤリと笑う。
「きみ、幸せとは、そうやって捕まえておくものだよ」
それから勝手にずんずんと家に上がり込み、座卓の前にでんと居座った。
「さあ、きみの大切な友人が逃げないよう、歓待したまえ」
こいつは幸運の鳥と違って世話は焼けるが鳥かごは不要だな、と思いながらも、私は笑って冷蔵庫を開けた。
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お久しぶりです。忙しさと忙しさのちょうど谷間になって一息ついたついでに書きました。またしばらくいなくなりますが、8月半ばには戻ってきます。
いつも♡をありがとうございます。たいへん励みになっています。
【街の明かり】(300字)
この街は今日も眠らない。人々は午前二時を過ぎても道を行き交い、林立したビルは煌々と明かりを灯し続けている。
ブラック企業ばかりが集まっているわけではない。飲み屋街があるわけでもない。そもそも、この街には会社も飲み屋も存在しない。五日前まではあったが、すべて機能しなくなった。同時に、明かりを消す者もいなくなった。
立ち並ぶビルの一つ、とある研究所から漏れたゾンビウィルスは、瞬く間に街に広がった。近隣の地域もどんどん汚染され、国は大混乱に陥っている。
いつかは電気の供給も絶えるだろう。その日まで、この街は昼も夜も変わらずに明かりを灯し続ける。昼夜もなく蠢く新しい住民たちが、光を忘れていようとも。
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普段は忘れていますが、電気が絶えず供給され続けているって、めちゃくちゃありがたいことですね。とくにエアコン必須のこの時期は!
しばらくはお休み、もしくは300字が続きます。