【鏡】
十歳のアンは、朝起きると必ずベッド横の等身大の鏡に挨拶をする。おはよう、と言うと、鏡もそっくり同じ顔と同じ声で、おはよう、と返してくる。瞬きのタイミングだけが、ときどき違う。
この国の富める者はみんな、自分専用の“魔法の鏡”を所有している。鏡は自分と一緒に成長し、やがて欠けていく。よくある平面の鏡と違って、“魔法の鏡”は欠けやすい、アンは両親からそう教わった。
ある日、アンは馬車の暴走事故に遭って片足を失う大怪我をした。手術を受けたアンは両足に戻ったが、鏡は片足が欠けてしまった。アンは自分の美しい鏡が欠けたことを嘆いた。鏡なのだから、そっくり同じでなければならないはずだ。そう思ったアンは、鏡と同じように自分の片足を断った。
「これで同じだね」
鏡が持ち主よりも先に言葉を発することはあり得ない。だからそう言ったのはアンであるはずだった。手斧を持って義足で立っているのもアンであるはずだった。血にまみれたドレスで倒れているのは、鏡のほうだ。いや、先日の事故を思い出させる強烈な痛みを感じているのは自分なのだから、自分がアンだったのかも知れない。どちらが所有者でどちらが鏡なのか、アンはわからなくなってしまった。本物のアンも、鏡のアンも、どちらも美しさは変わらない。どちらも片足が欠け、どちらも赤が似合っている。そっくり同じなのだから、どちらがアンでも同じことだろう。
「これで同じだね」
アンはもう一人のアンと同じ表情を浮かべ、同じ声を返した。
アンの事件があってから、魔法のようだともてはやされていたクローン技術は、一転して忌避されるようになった。研究所に出資する貴族はいなくなり、街では出稼ぎをする研究者のクローンが目立つようになったという。
「時代は合わせ鏡、どうせまたすぐに俺らの力を必要とするやつが現れる」
研究者のクローンはみんな、口癖のようにそう言っていたそうだ。そして、中流階級で双子の出生率が増えたのも、この時期である。
8/19/2024, 3:17:28 AM