【突然の君の訪問。】(300字)
心の準備なんてなかった。今朝、玄関を開けて君を前にしたときは。過去に君を拒んで以来、もう二度と会うことはないと思いこんでいたから。そもそも君のことなんて、すっかり忘れていた。
そんな平穏を破る、突然の君の訪問。
挨拶もなしに、足を踏み入れてくるなんて。私は動揺し、君にひどい言葉を投げた。それどころか、靴で叩き潰したよね。仕方なかったんだ。君を家に入れるわけにはいかないから。
君は略称でGと呼ばれるもの。またの名を、御器かぶり。
駆除剤を配備していても、こうやって突然入り込んでくるから、油断も隙もありゃしない。だが、君がどんなに侵入を試みようとも、私は君を拒み続ける。この平穏な日々を守るために。
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『君と最後に会った日』の続きになります。最後に会った日じゃなくなってしまった。
昔、玄関からコンニチハされたことがあった体験を元にしました。奴らはいつでも人間の隙を窺っています。
思いのほかスケジュールが逼迫していることに気づいてしまったので、しばらく300字など短いものだったり、お休みが続いたりすると思います。ただ、書けるときはなるべく書いていきたいです。
いつもいただいている♡が、書くぞーという気力に繋がっています。ありがとうございます。
【向かい合わせ】(300字)
彼の心は歓喜に震えていた。これまでの自分は、相手の背中を追うことしかできなかった。だが、今日ついに、向かい合わせで挑めるところまできたのだ。
相手は厳しい眼差しで、量るようにこちらを見ている。その瞳に、まぎれもなく自分が映っている。ここまで来られたのは、彼がなりふり構わずその背中を目指して追ってきたから。さあ、いざ尋常に――
「結婚してください!」
彼女は表情を崩すことなく身を返し、背後にいた年配の女性に声をかけた。
「店長、例のストーカーです。警察呼んでください」
三十分後、コンビニエンスストアから引きずり出された彼が狭い部屋の中で厳しい眼差しの男たちと向かい合わせになったのは、言うまでもない。
【海へ】
むかしむかし、あるところにおじいさんとおばあさんがおりました。 ある日、おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯に出かけました。
おばあさんが川で洗濯をしていると、川上から、どんぶらこ、どんぶらこ、と聞き慣れない効果音が聞こえてきました。老眼鏡を外してそちらに目をやれば、なんと、人の体ほどもあろうかという大きな桃が流れてくるではありませんか。おばあさんはあっけにとられてその桃を見送ったので、桃はどんぶらこ、どんぶらこ、と川下へ流れていきました。
そもそも、なにかふしぎなものがあるからといって、前準備もなく川に入るのは危険な行為です。自然派のカルトコミュニティに所属しているおばあさんは、山暮らしが長いため、川への安全意識がちゃんと備わっていたのです。
さて、どこからともなくやってきた大きな桃は、行く先々の人々に不審がられ、誰にも拾われることなく川を下っていきました。そしてとうとう、海に出ました。そのままどんぶらこ、どんぶらこ、と海を漂い、やがて鬼ヶ島にたどり着きました。
島の浜辺では、鬼の子供たちが亀をいじめていました。そこへ、唯一無二の効果音とともに大きな桃が流れ着いたのです。桃に気付いた子供たちは歓声をあげました。
「三時のおやつだ!」
「塩漬け桃だ!」
桃は瀬戸内の太陽を浴びてじゅくじゅくに熟していたので、子供の手でも簡単に引きちぎることができました。子供たちが桃をちぎってはどんどん口に運んでいると、なんと、中から人間の赤ん坊があらわれて、おぎゃあと泣きました。
「げっ、人肉!?」
「やべぇ、鬼と人間は近縁種だから、食うとプリオン病になるぞ!」
「ひとまず父さんたちを呼んでこよう!」
鬼の子供たちは桃と赤ん坊を浜辺に残して駆け去りました。
桃のおかげで子供たちから開放された亀は、果肉まみれの赤ん坊を見て感動に震えていました。
「このおかたは、亀がいびられるときに降臨するという、伝説の浦島太郎はんに違いない!」
亀はグリッチを駆使したRTAばりの瞬発力で赤ん坊をくわえると、海の中へと潜っていきました。
余談ですが、桃を食べた子供たちはその晩腹を下してしまいました。いくら塩漬けといっても、海の水で塩漬けになったものは衛生上よろしくないので、やめておきましょう。
さて、桃から生まれた赤ん坊は、亀に浦島太郎と名付けられ、竜宮城へ運ばれていきました。エラ呼吸はできないので溺死しかけていましたが、乙姫さまの奇術でなんとか息を吹き返すことができました。そしてそのまま、乙姫さまの養子になりました。
桃太郎が乙姫の乳を吸っていたころ、鬼ヶ島は人間の襲撃を受けていました。山で柴刈り暮らしをしていた自然派コミュニティの代表者であるおじいさんが、新たな楽園を求め、侵略を開始したのです。
おじいさんはまず〈犬〉と呼ばれる部隊で密かに鬼ヶ島を偵察し、〈猿〉と呼ばれる部隊で陽動を仕掛けつつ、〈雉〉と呼ばれる部隊で各所に奇襲をかけ、みごと鬼の楽園を奪い取ったのでした。
ちなみに部隊の元気の秘密は、おばあさん特製の通称〈きびだんご〉。自然派ならではの違法なアレ入りで、最強ドーピング人間を作り出す恐ろしい丸薬です。ダメ、絶対。
やがて時が経ち、桃から生まれた浦島太郎はすくすくと育って立派な若者になりました。竜宮城の絵にも描けない美しさや、タイやヒラメの舞い踊りをすっかり見飽きた浦島太郎は、人間の世界を見てみたいと思い、乙姫さまに願い出ました。
「かあちゃん、俺、ちょっと地上行ってくるわ」
「ああ浦島太郎よ、やっとこの日が来ましたね」
乙姫さまは浦島太郎に小さな箱を差し出しました。
「これは竜宮城に伝わる〈玉手箱〉という名の最終生物兵器。もし地上で人類が愚かな過ちを繰り返していたなら、これを開けなさい。あなたはワクチンを打っているから、発症の心配はありません」
遠い過去に人類から追われ、ドーム型の海中コロニーを造ってAIの亀を使役しながら密かに暮らしていた一族の末裔である乙姫は、浦島太郎に積年の想いを託して旅立ちを見送りました。
浦島太郎は人造AI亀の背に乗って、まず鬼ヶ島に上陸しました。鬼ヶ島はかつて人が住んでいた痕跡はあれど、今は誰もいません。浦島太郎は廃墟を探索し、とある研究者の日記を見つけました。その日記から読み取れる内容は、こうでした。
かつて、人間と仙桃と遺伝子を掛け合わせ、生まれついての不老不死仙人を造る〈桃太郎プロジェクト〉があった。だが、プロトタイプが研究所から流出してしまい、研究は中止となった。所長だった自分は桃を取り戻すべく、目撃情報を追ってこの鬼ヶ島にたどり着いた。腐った桃はあったが中身は行方不明で、おそらく波にさらわれたのだろう。なにもかもを失って嫌になり、島を侵略しに来たコミュニティと一緒になって面白おかしく暮らしていたら、コミュニティにどんどん人が集まるようになった。やがて面白くない人が面白くもないことを始めるようになり、コミュニティが崩壊した。コミュニティの終末はいつもこうだ。
出だしと結論がまったく違いますが、日記なのでこんなもんです。
いきなり自分の出生の秘密を知ってしまった桃太郎は、日記を抱えて研究所跡を目指すことにしました。再び亀に乗って、本土に渡ります。
「ゆうて浦島太郎はん、おたく三百年も竜宮城に引きこもってたんやから、研究所なんて跡形もなくなってるとちゃいます?」
「行ってみないとわからないじゃないか」
浦島太郎は亀と別れ、川に沿って研究所を目指すことにしました。ほどなく、浦島太郎は五人の人間に出くわしました。
人間たちが言いました。
「ああ、私たちの他にまだ生き残りがいたとは。ここで会えたのも縁というもの。一緒に海へ行きましょう」
「いや俺海から来たんだけど。なんで?」
「人類は戦いの末に滅び、もう私たちしか残っていません。あの波の下にこそ、極楽浄土という素晴らしい都があると聞きました。それで私たちは海を目指しているのです」
「そなた、海から来たということは、もしや、その都の者か。では、玉手箱という生物兵器を知っているな?」
「かあちゃんからもらったけど」
「それを渡せ!」
人間の一人が、懐から手を引き抜きざまに発砲しました。
銃弾は浦島太郎の左胸に命中ました。が、出血はありません。懐に忍ばせていた研究者の日記が、銃弾を防いでくれたのです。
「あっぶねぇ。玉手箱に当たってたらどうすんだよ」
浦島太郎は玉手箱以外は丸腰だったので、すたこらさっさと逃げだしました。目指すは海です。人間たちもそれを追って駆け出しました。浦島太郎が海に飛び込んだので、人間たちも続いて飛び込みました。
その日はあいにくの荒天で波が高く、人間たちは連日の強行軍で全員寝不足だったのと、ライフジャケットなどの装備品がなかったせいで、みんなあっさり溺れてしまいました。浦島太郎は亀のおかげで無事でした。
こうして、玉手箱を使うまでもなく人類は滅びたのでした。こういう事故はよくあることですから、海へ行くときは、体力や装備などの準備を万端にして、天気予報をチェックし、安全確認を怠らないようにしましょう。めでたし、めでたし。
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金曜はお休みしたので、そのぶん今日書きました。たまにこういう頭空っぽなバカバカしいお話を書きたくなります。言うて頻繁に頭空っぽなものを書いている気もしますが。
いつも♡をありがとうございます。
【鳥のように】
頭上で響いたピーヒョロロという鳴き声に反応し、ライダースーツの女が天を仰いで目を細める。
「こんな都心にまで……」
「食べるもの、あるのかな」
女の傍らで、女と同じようにバイクに背を預けて座り込んでいたセーラー服の少女が、首をかしげる。
「あたしたちが狙われてるんでしょ」
「あ、そっか。さすがトンビ、目がいいな〜」
セーラー服の少女は手に持った小さなビスケットにかじりついた。
「あたしが鳥になれたらなぁ」
ライダースーツの若い女は、かじりかけのビスケットを片手に、まだ空を見上げている。
「ミズキさんて、けっこうロマンチストだよね」
あっという間にビスケットを食べきった少女が、ペロリと唇を舐めて言う。
「大人の女性って、もっと現実主義者なイメージあったんだけど」
「なによ、サツキだって一度ぐらいは思ったことあるでしょ? 思春期真っ只中なんだから」
「思ったことないなぁ。私は陸上の高跳びやってたから、鳥になると反則なんで」
「そんな理屈?」
「そんな理屈。兎にならなりたいと思ってたけど」
「あらかわいい。似合いそうね」
「ミズキさんは鳥になったらぜったい猛禽類だよね」
「望むところだわ。猛禽類の目なら生存者捜せるでしょ」
「たしかに」
サツキと呼ばれた少女が周囲を見回す。
彼女たちがバイクを背もたれにして座っている場所は、幹線道路の真ん中だった。周囲の建物は崩れ、瓦礫になって道路になだれ込んでいる。信号機は息絶え、持ち主を失ったホバーカーがところどこで迷路のように行く手を塞いでいる。
主要国家による激しい戦争、立て続けに起きた大規模な地殻変動。たった一年の間にさまざまな災厄が降りかかり、世界中がめちゃくちゃになってしまった。地球上で機能している国家は、もうどこにもないだろう。そして、ミズキたちのように五体満足で生存している人間も、ほとんど残っていないだろう。
ビスケットを飲み込んだミズキが、ヘルメットをつかんで立ち上がった。バイクにまたがり、まとめた髪の上にヘルメットを被る。
トンビがまたピーヒョロロと鳴く。
ミズキに続いて後部座席にまたがったサツキが、ヘルメットを被る前にぽつりとつぶやいた。
「そういえば、トンビって腐肉も食べるんだったっけ。どうりで、人が多かった場所に出没するわけだ」
「げ、やめて嫌な想像させないで」
「私たちもトンビのような食性があれば、昼食がビスケット三枚だけなんてひもじい思いしなくてすむのにね」
「怖いこと言わないでよ。あたしはそういう意味で鳥になりたくはないわよ」
ミズキがバイクのアクセルをふかす。そのエンジン音に負けじとサツキが叫ぶ。
「そうやって鳥を差別するのよくないよ、無駄のない命の循環でしょ!?」
「これだからSDGs育ちは!」
ミズキがバイクを発進させる。ホバーカーの間を縫うように走るバイクの影は、アスファルトの埃に隠れてじきに見えなくなった。
トンビだけが、まだ空を悠々と舞っている。
【さよならを言う前に】
「ねぇ、私たち、もう終わりにしましょ」
薄暗いバーの片隅で、タイトなワンピースに身を包んだ女がつぶやいた。長い睫毛を物憂げに伏せて。
持ち上げたカクテルグラスを小さく揺らし、真っ赤な唇をつける。
「どうしてだい、ハニー。ぼくたち、うまくやれてたじゃないか」
傍らに座っていた男が、大げさなジェスチャーで首を振る。
いかにも伊達男です、なんならイタリア男の血が混ざってます、と言わんばかりの色気たっぷりの顔立ちと、芝居がかった仕草。こんな人、漫画か洋画の中でしか見たことないよ。もしかして、そのオシャレスーツもイタリア仕立て?
六人がけのカウンターと二つのテーブル席しかない狭いバーは、ほどほどに席が埋まっている。私が座っているカウンター席から椅子をひとつ空けた向こう側。トンデモ美男美女のカップルが、意味ありげな雰囲気で肩を並べてるもんだから、ついつい聞き耳立てちゃってたのよね。っていうか、ちらちら横目で盗み見ちゃってたのよね。
だから私は気づいている。女性はさっき、XYZというカクテルを頼んでいた。「これで終わり」という意味のカクテルだ。つまり、彼女は本気だ。本気で別れるつもりだ。
ロマンスグレーをオールバックになでつけた初老のバーテンダーは、美男美女の別れ話にも素知らぬ顔でシェイカーを振っている。やっぱり、バーテンダーはこうでなくっちゃ。っていうか、こんなにばっちりキマったいぶし銀のバーテンダーが洋画じゃなくて日本に存在してていいんですか? いいんですね、ありがとうございます。思わず内心で拝んじゃうよね。
このバーに来たのは今日が初めてだけど、いぶし銀バーテンダー、というかマスターを見た瞬間に、大当たりだな、ってピンときた。いま飲んでいるマルガリータも、びっくりするぐらいおいしい。見た目も腕も一流なんて、これもう奇跡のマリアージュでしょ。
バー巡りは私のちょっとした趣味で、営業の仕事がうまくいった日はご褒美代わりにバーに寄ることにしている。それも、大通り沿いのにぎやかなバーじゃなくて、路地裏の奥まったところの階段下にあるような、隠れ家みたいな静かなバーを探すのが好き。常連だけで固まってて居心地が悪いことも多いけど、たまにこういう当たりのバーを引けるから、面白くてやめられないんだよね。
それにしたって、ここまで“仕上がった”バーはそうそうない。小市民の私にはもったいないぐらい。そのうえ、片隅に美男美女のカップルがいるときたもんだ。もしかして私、映画の世界に迷い込んじゃった?
「お客様、ギムレットでございます」
マスターが伊達男の前にカクテルグラスを差し出した。伊達男は大げさに肩をすくめる。
「勘弁してくれよマスター、ギムレットには早すぎるだろう」
「いいえ、『長いお別れ』ですから」
「マスター、あんたまさか――」
伊達男が顔色を変えて立ち上がる。
解説しよう! 「ギムレットには早すぎる」というのは、海外のハードボイルド小説に出てくる有名なセリフ。別れたい美女の意図を汲んでマスターが勝手に出してきたギムレットに、伊達男が気取ったセリフを返し、さらにマスターが小説のタイトルを返した、というわけ。
え、待って、なんでこんなお芝居みたいなキザなやりとりしてるの? しかも伊達男、めっちゃマスターを睨みつけてるんですけど。なにこの一触即発の雰囲気。さっきのセリフの応酬でなにがあったの?
「ごめんなさいね、このお店、私の縄張りなの」
美女も立ちあがる。その手が滑るようにワンピースの裾を撫でたと思ったら、ちらりと見えた太いガーターベルト。そして、拳銃。
……え、拳銃?
「あなたが私の組織の情報を狙っているスパイだってことは、もうバレてるの」
うおー! 美女が太もものホルスターから引き抜いたのはワルサーPPKだ! 雰囲気ぴったり!
あ、ワルサーPPKというのは小型の自動拳銃ね。『007』でジェームズ・ボンドが使ってたやつ。スパイ映画好きだからつい詳しくなっちゃって……って解説してる場合じゃない! なにこの状況! これからなにが始まるの!? ここ日本なんですけど!?
ああ、こんなときにマルガリータ頼んじゃった私のバカ! 流れ弾に当たって亡くなった恋人の名前が由来のカクテルじゃん! 死亡フラグじゃん! まだ恋人もできたことないのに!
硬直している私の目の前で、美女がワルサーPPKを伊達男のこめかみに当てる。伊達男は両手を挙げた。
「ああハニー、銃じゃ誤解は解けないよ。ぼくたちの心を溶かすには熱い夜が必要だ、そうだろう?」
「茶番はもうおしまいよ。今のあなたは凄腕のスパイ〈毒蛇〉じゃなくて、ただの道化師だわ」
そのとき、バーにいた客がいっせいに立ち上がった。もちろん、私以外。
しかも、全員の手に拳銃。銃口はすべて伊達男に向けられている。えっ、マジでなんの集まり? まさかマフィアの抗争じゃないでしょうね?
「なるほど、ここにいるのは全員君の仲間か。ぼくのためにこんなに人を集めて歓迎会を開いてくれるなんて、〈毒蛇〉冥利につきるね」
あー違う違う! 私、一般人! 通りすがりのただの客! 小心者の小市民! 巻き込まないでお願いだから!
カウンターで縮こまっている私の存在にやっと気づいたのか、美女は気まずそうにこちらをちらりと見て――無視された。
「長いお別れの前に、言いたいことがあるなら聞いてあげるわ」
「このぼくに、命ごいなんて無粋な真似をさせる気かい? 最後に君の唇が欲しいと言ったら?」
「毒蛇に噛ませる唇はないわね。さっさとボスの居場所を吐きなさいってことよ」
しゅるり、と音をたてて男のネクタイをほどく美女。
な、なんか見ちゃいけないシーンが始まってるんですけど!
と、マスターが滑るように私の前にやってきて、耳元で囁いた。……あっ、声もいい……。
「お客様、ここで見たことは他言無用に願います」
「も、もちろんです! 誰にも言いません! 言っても信じてもらえないだろうし!」
「賢明なかたで安心いたしました」
マスターがにっこり微笑んだ。ありがとうございます、その老獪な笑顔を口止め料として、心の額縁に入れて永遠に飾っておきます! ごちそうさまです!
私は足の震えを抑え、鞄をつかんで立ち上がった。
「そ、それじゃ、私はこれで、さよな――」
おっと、その前に。
「あの、お会計お願いします」
こんなときでも、踏み倒しはできない小市民なのでした。