【さよならを言う前に】
「ねぇ、私たち、もう終わりにしましょ」
薄暗いバーの片隅で、タイトなワンピースに身を包んだ女がつぶやいた。長い睫毛を物憂げに伏せて。
持ち上げたカクテルグラスを小さく揺らし、真っ赤な唇をつける。
「どうしてだい、ハニー。ぼくたち、うまくやれてたじゃないか」
傍らに座っていた男が、大げさなジェスチャーで首を振る。
いかにも伊達男です、なんならイタリア男の血が混ざってます、と言わんばかりの色気たっぷりの顔立ちと、芝居がかった仕草。こんな人、漫画か洋画の中でしか見たことないよ。もしかして、そのオシャレスーツもイタリア仕立て?
六人がけのカウンターと二つのテーブル席しかない狭いバーは、ほどほどに席が埋まっている。私が座っているカウンター席から椅子をひとつ空けた向こう側。トンデモ美男美女のカップルが、意味ありげな雰囲気で肩を並べてるもんだから、ついつい聞き耳立てちゃってたのよね。っていうか、ちらちら横目で盗み見ちゃってたのよね。
だから私は気づいている。女性はさっき、XYZというカクテルを頼んでいた。「これで終わり」という意味のカクテルだ。つまり、彼女は本気だ。本気で別れるつもりだ。
ロマンスグレーをオールバックになでつけた初老のバーテンダーは、美男美女の別れ話にも素知らぬ顔でシェイカーを振っている。やっぱり、バーテンダーはこうでなくっちゃ。っていうか、こんなにばっちりキマったいぶし銀のバーテンダーが洋画じゃなくて日本に存在してていいんですか? いいんですね、ありがとうございます。思わず内心で拝んじゃうよね。
このバーに来たのは今日が初めてだけど、いぶし銀バーテンダー、というかマスターを見た瞬間に、大当たりだな、ってピンときた。いま飲んでいるマルガリータも、びっくりするぐらいおいしい。見た目も腕も一流なんて、これもう奇跡のマリアージュでしょ。
バー巡りは私のちょっとした趣味で、営業の仕事がうまくいった日はご褒美代わりにバーに寄ることにしている。それも、大通り沿いのにぎやかなバーじゃなくて、路地裏の奥まったところの階段下にあるような、隠れ家みたいな静かなバーを探すのが好き。常連だけで固まってて居心地が悪いことも多いけど、たまにこういう当たりのバーを引けるから、面白くてやめられないんだよね。
それにしたって、ここまで“仕上がった”バーはそうそうない。小市民の私にはもったいないぐらい。そのうえ、片隅に美男美女のカップルがいるときたもんだ。もしかして私、映画の世界に迷い込んじゃった?
「お客様、ギムレットでございます」
マスターが伊達男の前にカクテルグラスを差し出した。伊達男は大げさに肩をすくめる。
「勘弁してくれよマスター、ギムレットには早すぎるだろう」
「いいえ、『長いお別れ』ですから」
「マスター、あんたまさか――」
伊達男が顔色を変えて立ち上がる。
解説しよう! 「ギムレットには早すぎる」というのは、海外のハードボイルド小説に出てくる有名なセリフ。別れたい美女の意図を汲んでマスターが勝手に出してきたギムレットに、伊達男が気取ったセリフを返し、さらにマスターが小説のタイトルを返した、というわけ。
え、待って、なんでこんなお芝居みたいなキザなやりとりしてるの? しかも伊達男、めっちゃマスターを睨みつけてるんですけど。なにこの一触即発の雰囲気。さっきのセリフの応酬でなにがあったの?
「ごめんなさいね、このお店、私の縄張りなの」
美女も立ちあがる。その手が滑るようにワンピースの裾を撫でたと思ったら、ちらりと見えた太いガーターベルト。そして、拳銃。
……え、拳銃?
「あなたが私の組織の情報を狙っているスパイだってことは、もうバレてるの」
うおー! 美女が太もものホルスターから引き抜いたのはワルサーPPKだ! 雰囲気ぴったり!
あ、ワルサーPPKというのは小型の自動拳銃ね。『007』でジェームズ・ボンドが使ってたやつ。スパイ映画好きだからつい詳しくなっちゃって……って解説してる場合じゃない! なにこの状況! これからなにが始まるの!? ここ日本なんですけど!?
ああ、こんなときにマルガリータ頼んじゃった私のバカ! 流れ弾に当たって亡くなった恋人の名前が由来のカクテルじゃん! 死亡フラグじゃん! まだ恋人もできたことないのに!
硬直している私の目の前で、美女がワルサーPPKを伊達男のこめかみに当てる。伊達男は両手を挙げた。
「ああハニー、銃じゃ誤解は解けないよ。ぼくたちの心を溶かすには熱い夜が必要だ、そうだろう?」
「茶番はもうおしまいよ。今のあなたは凄腕のスパイ〈毒蛇〉じゃなくて、ただの道化師だわ」
そのとき、バーにいた客がいっせいに立ち上がった。もちろん、私以外。
しかも、全員の手に拳銃。銃口はすべて伊達男に向けられている。えっ、マジでなんの集まり? まさかマフィアの抗争じゃないでしょうね?
「なるほど、ここにいるのは全員君の仲間か。ぼくのためにこんなに人を集めて歓迎会を開いてくれるなんて、〈毒蛇〉冥利につきるね」
あー違う違う! 私、一般人! 通りすがりのただの客! 小心者の小市民! 巻き込まないでお願いだから!
カウンターで縮こまっている私の存在にやっと気づいたのか、美女は気まずそうにこちらをちらりと見て――無視された。
「長いお別れの前に、言いたいことがあるなら聞いてあげるわ」
「このぼくに、命ごいなんて無粋な真似をさせる気かい? 最後に君の唇が欲しいと言ったら?」
「毒蛇に噛ませる唇はないわね。さっさとボスの居場所を吐きなさいってことよ」
しゅるり、と音をたてて男のネクタイをほどく美女。
な、なんか見ちゃいけないシーンが始まってるんですけど!
と、マスターが滑るように私の前にやってきて、耳元で囁いた。……あっ、声もいい……。
「お客様、ここで見たことは他言無用に願います」
「も、もちろんです! 誰にも言いません! 言っても信じてもらえないだろうし!」
「賢明なかたで安心いたしました」
マスターがにっこり微笑んだ。ありがとうございます、その老獪な笑顔を口止め料として、心の額縁に入れて永遠に飾っておきます! ごちそうさまです!
私は足の震えを抑え、鞄をつかんで立ち上がった。
「そ、それじゃ、私はこれで、さよな――」
おっと、その前に。
「あの、お会計お願いします」
こんなときでも、踏み倒しはできない小市民なのでした。
8/21/2024, 3:53:48 AM