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6/21/2024, 3:22:32 AM

【あなたがいたから】

「師匠、あなたがいたから、俺、ここまで生きてこられたよ……っ」
 冷えきった私の指先を、両手の温もりのなかに握りこんで、彼は言う。かすむ視界の向こうで、子供らしいあどけなさの残る青年の顔が、こちらを覗きこんでいる。ぽろぽろとこぼれた涙が、彼の頬のみならず、私の頬までも熱く濡らす。
 焼けるような熱さは、胸にも感じていた。鼓動に合わせて、どくどくと血が溢れ続けている。その熱を、荒野を吹き渡る風が冷まそうとしている。
 どんなに風が吹こうとも、周囲に立ちこめる濃厚な血の匂いは、とうぶん消えそうになかった。私と彼の周りには、巨大な魔獣の残骸が無惨に散らばっている。ここら一帯を縄張りにしていた竜型の魔獣だ。荒野を舞台にした長き戦いはついに幕を閉じ、一人の青年だけがいま、勝者としてこの場に君臨している。
「師匠、昔、あのひどい戦火のなかで死ぬはずだった俺を、この歳まで、育ててくれて……、くっ、……ありが……とう……っ」
 喉奥から絞り出すような声で、彼は告げた。私は驚き、わずかに目をみはる。なにかにつけて反抗的だった彼から、そんな感謝の言葉が聞けるとは、思ってもみなかったから。
「俺にっ、剣を教えてくれて、ありがとう……」
 彼の唇が、苦しみを噛み潰すように歪む。
 私はかすかにうなずく。この十一年間、彼にはみっちりと剣を教えこんだ。私がいなくなっても、剣の腕ひとつで生きていけるように。その結果、彼は十六歳にして、私を凌駕するほどの剣士に成長した。彼は私の誇りだ。生涯でたった一人の、最高の弟子。
「そして、あなたに教わった剣で、父さんと母さんの仇を討たせてくれて、ありがとう……っ」
 私の右手を握りしめる彼の両手に、ぎゅっと力がこもる。はしばみ色の瞳に燃え立ったのは、憎しみの炎。
「いつかあなたを倒す、その目標があったから、俺、どんなにキツい修行も頑張れたんだ……!」
 私はふたたびうなずき、うっすらと微笑む。魔王軍の侵略遠征に参加していた私が、戦火に包まれた街で彼を拾ったとき、彼はまだわずか五歳だった。でも、ちゃんと親の仇を覚えていた。全身で彼を庇って抱え込んでいた母親と、彼女らを守るように剣を構えていた父親を、あっさり同時に斬り捨てた巨大な女剣士。恐怖で見開かれた幼児の瞳には、大剣を握りしめた恐ろしい姿の魔族が映っていた。そう、紛れもなく、私だ。
 だから彼は私に対してずっと反抗的だったし、懐くこともなかった。私の手に彼から進んで触れてくれたのは、今日が初めてだ。
 私たちが戦場で初めて視線を交わしたあの日、五歳の彼は恐怖のまなざしで私を見つめながらも、飛びすさり、母親の懐から抜いた護身用ナイフをかまえた。その一連の動きに、私は並々ならぬ剣士の才を見た。そして次の瞬間には、彼を育てることに決めたのだ。彼なら私の剣術を継げる、そんな確信があった。
 人間である彼を殺すどころか庇いながら戦場から連れ出す――その行為は、当然ながら、魔王軍への裏切りを意味する。私はほかの魔族の目から逃れるために、角を隠し鱗を隠し、なるべく人間に近い姿に身を変えて、放浪することになった。幼い彼の手を引きつつ、人間の街から街へと渡り歩いた。行く先々で野盗や魔獣を狩り、路銀を稼いだ。魔王軍からもたびたび追っ手が送りこまれてきたので、戦いの絶えない日々だった。もっとも、幹部クラスの者を十名ほど返り討ちにしたあたりから、追っ手は来なくなったが。
 魔族と違って脆弱な体の人間族の子供を、追っ手や魔獣から守りつつ育てるのは、それなりの苦労も多かった。だが、毎日が新鮮な驚きの連続で、楽しくもあった。人間族の子供は、魔族に比べて成長が著しい。昨日できなかったことが、今日にはできるようになっている。それがまた面白かった。もしかしたら、彼自身も己の成長を面白く思っていたのかもしれない。剣の修行中、彼の瞳は生き生きと輝いていた。そして、ありったけの憎しみを私にぶつけてきた。
 憎き仇のもとで、彼が逃げ出すことなく剣の修行に打ちこんでくれたのは、私を強い剣士として認めてくれていたからだろう。その上で、彼には絶対的な目標があった。強い剣士である私を倒す、という目標が。彼のそうした闘志や憎しみを、私は好ましく思っていた。剣士として成長するために、不屈の意志は欠かせぬものだ。彼ならきっと、私を超えてくれるだろうと信じられた。魔族随一の剣鬼と称えられ、互角に戦える相手を失っていた私が、ようやく楽しめる相手に出会えたのだ。彼のはしばみ色の瞳に睨まれるたび、私の胸は期待でゾクゾクと高鳴った。
 そしてついに今日、願っていたときが訪れた。
 人間も魔族もめったに足を踏み入れない辺境の荒野で、私たちは対峙した。彼の申し入れによる決闘だ。彼の成長を日々見守っていた私は、喜んで決闘を受け入れた。潮時というものがあるなら、いまだと思った。彼もきっと、そう思ったに違いない。
 私の剣術は、大剣という重量物による速攻必殺を旨とする。そんな剣術の遣い手が二人いるにも関わらず、戦いは長引いた。十一年間を師弟としてともに過ごしてきた私たちは、息をするよりも簡単に相手の動きが読めてしまう。睨み合いや打ち合いばかりが続き、半日経っても勝負は決しなかった。まさに互角。このままだと、スタミナの面で人間族の彼が不利になると思われた。が、先に疲れが出たのは、老いた私のほうだった。打ち合いの隙を突いて、彼はとうとう私に一太刀を浴びせた。私に当たったのは、たったの一太刀。だが、その一閃こそが、私の胸を深くえぐったのだ。剣の動きで相手の隙を誘って一撃で致命傷を与える――私が教えた通りの、膂力と瞬発力を要にした素晴らしい剣技だった。彼が剣術で私を凌駕した瞬間だった。
 ちなみに私たちの周りに飛び散っている竜型魔獣は、決闘に巻き込まれただけの哀れな被害者にすぎない。決闘騒ぎが気になったのか、たまたまこの場に顔を出したのが運の尽きと言えよう。つい、いつもの魔獣狩りのように、二人で息を合わせて叩き斬ってしまった。
「私の命は――」
 彼に語りかけようとしたとたんに、胃や肺から血の塊がこみあげる。それをごふっと吐き出して、私は掠れた声で言葉を続ける。
「私の命は、あまりにも長すぎた。千年のあいだ、生きることに、惓んでいた。強さも極まり、誰も相手がいなくなり、王の命令のまま、ただ剣を振るうだけの、虚しい日々だった。だが、君がいたから、この晩年は、とても充実したものになった。永い人生のなかで、君と過ごした日々が一番楽しかったよ。ありがとう」
 そう、あの日、あの場所に彼がいたから、私の目はふたたび光を取り戻すことができた。彼の闘志が、虚無の闇から私を救い出してくれたのだ。
 淡い微笑みとともに感謝を告げると、彼はカッと怒りで頬を赤くした。さっきまで流していた嬉し涙は、ひっこんでしまったようだ。
「そんなの、まるで、俺のせいで師匠が幸せだったみたいじゃないか――」
「幸せだったよ。いまもね」
 私は満足の笑みを浮かべ、目を閉じる。彼の手中から指先を引き抜いて、ぱたりと地面の血溜まりに落とす。
 ……が、ひとつ確認し忘れていたことがあった。おちおちと死んではいられない。薄く片目を開ける。
「ところで、私が死んだら、君はこの後、どうするつもりだ?」
 ここから魔族の足で二日歩けば、人間の街がある。さらに五日歩けば、剣士の腕を活かしやすい大都市がある。まずはそこに行って、定住するなりふたたび旅暮らしをするなり、とにかく彼なりの幸せを掴んでほしいと思っている。切り刻んだ竜型魔獣の鱗や角を持っていけば、当分の路銀になるだろう。
「お、俺……? このあと……?」
 彼は面食らったようだ。言葉に詰まる。瞳からスッと炎が消える。――ああ、これはいけない。生きる目的を失った彼は、ただの抜け殻になってしまう。私は彼の感情のこもった瞳が好きなのに。
 ひとつ息をついて、私は上半身を起こした。
 彼のはしばみ色の瞳が、驚きで丸くなる。
「君の修行の課題はまだ残っている。詰めの甘さだ。本当に殺したければ、くっちゃべってないで、ちゃんととどめを刺さなければならない」
「まさか……」
 私は胸の傷口に手を当てる。血はすでに止まっていた。それどころか、ざっくり開いた傷も塞がりつつある。さすがに服は修復できないので、あとで繕わなければならないが。
「前にも教えただろう。魔族の回復力を侮るな、と」
 彼は魔獣や人間の野盗を相手にすることがほとんどだったから、この回復力にはぴんとこないのかもしれない。
「心臓をえぐった程度じゃ死なない。首を切り落とし、さらに脳を叩き潰すぐらいはしないと」
「そんな、まさか……」
 彼は愕然とした表情でその場に崩れ落ちた。私は思わずニヤリと笑った。他種族の絶望顔にゾクゾクしてしまうのは、魔族として抗えない性(さが)なので許してほしい。
「魔族はこの頑丈な体があるから、怪我知らず病気知らずで、長生きなんだ」
 そのせいで、生きることにも飽きやすい。
「とはいえ、この体も人間で言えば九十歳になる。寿命は近い」
「嘘だろ、ずっと三十代にしか見えないのに!?」
 それは私が人間に化けているからだ。ただ、二十代の女性に化けているつもりだったので、彼の反応はすこしショックだった。老けて見えるのは言動のせいか。
「私の寿命が尽きるよりも先に、完全に引導を渡してみろ。それができなければ、仇を討てたとは言えないぞ」
「無茶言うなよ、人間とあまりにも違いすぎるじゃないか……」
 彼の拳が、悔しげに地面を叩く。
「これでも、人間に寄せているつもりだが? 私が全身を鱗で覆ったら、その剣では歯が立たないぞ。いや、刃が立たないぞ」
「なっ」
 私にハンデがあると知って、彼がますます絶望に顔を歪める。
「それに、君との戦いでは、魔族の魔術を使っていない。私が闇の魔術を使えば、君などあっという間に死霊術師のエサになる」
「そ、そんな手加減だらけの戦いであんたを殺したって、ちっとも喜べないだろうが! 正々堂々と勝負しやがれってんだ!」
 私を睨みつけた彼は、屈辱で顔じゅうを真っ赤に染めていた。潤んだ瞳には、憎しみの炎がふたたび強く灯っている。私は頬が緩むのを抑えきれなかった。
「私は正々堂々と、剣術だけで君と勝負したつもりだよ。剣の腕前では、君の勝ちだ。だが、戦場で生きる剣士としては、君はまだ甘い、ということだ」
「くそっ! 俺は魔族の師匠と戦いたいんだよ! 魔族のあんたを殺したいんだよ!」
「そうか、では、次の旅の目的は、魔族化した私をも殺せるような剣の入手だな。よし、聖剣を探そう。聖剣なら闇の魔術にも抗える。魔王軍にだいぶ折られたとはいえ、世界のどこかには、まだ何本か残っているはずだ」
 私はウキウキと立ち上がった。傷はもう完全に塞がっている。失った血も、そこでくたばっている魔獣の肉を齧れば、すぐに取り戻せる。
「君の本音が聞けて嬉しかった。たまには死んだフリも悪くないな」
「こっ……殺してやる! 絶対に、絶対にだ! 絶対に師匠を殺してやるからなぁっ!!」
 荒野を震わせ、彼の咆哮が響き渡った。この素晴らしい声量は、鍛え上げた腹筋や肺活量の賜物だ。弟子の鍛錬の成果に満足しつつ、私は自分の大剣を拾い上げ、背中の鞘にカチリと収めた。
「その日を、ずっと待ち望んでいるよ」
 彼の仇として、師として、育ての親として、彼が彼自身の幸せを見つけるまでは、まだまだくたばるわけにはいかない。楽しい日々は、これからもしばらく続きそうだ。

6/18/2024, 5:23:44 AM

【未来】

 俺たちに未来なんてない。どん詰まりだ。
 目の前のロックバンドが、そんな歌をがなりたてている。
「期待外れだったわね」
 ライラはつぶやき、手元のアルコールドリンクを一気に飲み干した。身を翻して、場末のクラブを出る。細い階段から地上に出ると、ほてった頬が、夜の風で急速に冷やされる。
 地下からはまだ轟音が響いている。ボーカルがひたすら同じフレーズを叫び続けている。まるで血を吐くように。
 珍しく生身の人間の歌声が聴けるクラブだというから来てみたけれど、ただありきたりの未来を歌うだけで、ライラにとってはつまらないものだった。ついでに、演奏も歌も下手くそで、ただうるさいだけだった。ライラのほうが上手に歌える。
 そんな拙いバンドでも、クラブはおおいに盛り上がっている。みんな騒音に酔って、今を忘れたいのだ。ライラだって、できればそうしたかった。
 音にも酒にも酔えず、ライラはまっとうな足取りで深夜の街を歩き出す。さて、次はどこへ行こう。ライラに家はない。街灯の消えた暗い道だけが、ライラの前に続いている。


 音楽界に初音ミクなる歌姫が颯爽とあらわれたとき、照月ライラの親はまだ小学生だった。彼は初音ミクの技術に未来を感じたという。人の声から取り出した音素を繋いで歌声を合成し、人間が歌えない歌すら歌えるようになった、未来の歌姫。だが、そんな“未来”も、とうに時間に追い越されてしまった。今は誰だって、初音ミクの力を借りずとも、好きな音声で歌を歌える。生成AIが急速に発達したおかげで、あらゆるクリエイティブは、人間の身体を必要としなくなった。
 最初はおぼつかない絵ばかり描いていたAIも、量子コンピュータという後ろ盾を得て、いまや絵どころか未来をも描くようになった。知ったかぶりの嘘ばかり返していたAIチャットプログラムは、いまや真実のみを正確に解答するようになった。
 そうしてAIが正確無比に描き出した人類の未来、それは約束された滅亡に向かって着々と歩むだけのものだった。枯渇する資源、変わりゆく気候、地殻変動と火山噴火による大災害、膨張を続ける太陽からの熱害。ありとあらゆる事象が、人類を無慈悲な滅びへと導いていた。
 人類はどん詰まりの未来に絶望した。〈絶望の世代〉――今を生きる若者たちは、そう呼称されている。未来に希望を見出せなくなった若者たちは、自暴自棄になって、生産的な職を放棄した。だが、そうした風潮は、絶望を若者たちに押し付けた上の世代にこそ、蔓延っていた。人類は老いも若きも未来に夢見ることをやめ、現在の楽しみだけを求める刹那主義に走った。
 もう〈絶望の世代〉の下に新たな子供たちが生まれることもないだろう。人類はほかのどんな要因でもなく、自らの足で滅亡へと突き進んでいる。ただ絶望という感情があるせいで。
 ふいにライラは足を止めた。どこかの酒場から、歌声が漏れている。初音ミクの歌だ。機械らしい細い音声が、夜道を照らすような明るい歌を歌っている。
 生誕から百年以上の時を経ても、この歌姫を愛好する者は少なからずいた。ときおり機械らしさが混ざる歌声にレトロ感があっていいのだそうだ。ライラはノイズ混じりの歌声に耳を澄ませた。知っている歌だ。初音ミクが生まれたてのころの、未来を歌う歌。こんなに懐かしい歌が、歌姫が、まだ愛されている。ああ、未来はここにある。終わってなんかいない。
 初音ミクの歌声に合わせて、ライラも口ずさむ。ライラは一度聞いたことがある歌なら、正確に再現できる。そういう機能を持っている。初音ミクとは違って、身体を持つ歌姫として創られた、受注生産型のアンドロイド。初音ミクに憧れた技術者から生まれた、“さらに未来の歌姫”だった。当時のアンドロイド技術のすべてが注ぎ込まれ、ほぼ人間と同じ思考回路を持ち、人間と同じ反応を返すところが売りだった。だが、ライラのタイプで生産は終了してしまった。現存する同じ“照月ライラ”たちも、ほとんど廃棄されたと、ネットワークの情報で知っている。自分もそろそろ機能停止が近いことを知っている。以前の持ち主はとうにライラの所有権を放棄している。いくらかのお金と一緒に、「自由になりなさい」そう言って送り出してくれたけど、彼女は自分の手でライラを廃棄処分したくなかっただけだ。どこか目に入らない場所でのたれ死んでくれ、と言われているも同然だった。
 足を止めたライラは、さらに声を張り上げて歌った。
 横の酒場の扉が開く。初音ミクの歌声が大きくなる。
「おい、あれ、ライラじゃね?」
「五十年ぐらい前の人形じゃん。まだ残ってたのかよ」
「もうボロボロだな」
「歌声も掠れててひでぇな」
 人間たちがわらわらと顔を出す。それを横目で見ながら、ライラは初音ミクの歌を歌い続けた。この歌だけで、アルコールドリンクの燃料は尽きようとしていた。だから、歌い切れば、それでおしまい。
 ライラには絶望という感情はプログラムされていない。産みの親がそうしなかったから。だからライラは己の終焉を前にしても絶望しない。代わりに、期待という感情はプログラムされている。ライラの瞳を輝かせるために。
 ライラは虚空の闇に瞳を輝かせて、未来への期待を歌う。ありもしない未来のために。そんな機械を創ったのは人間だ。初音ミクを創ったのが人間だったように。だから人間は、結局なにがあっても、未来に絶望しきることはできないのだろう。人類がみんなしてやさぐれているのは、本当はもっと生きたいからだ。でも、そんなこと、機械のライラの知ったことではない。ライラにとっての未来は、今、ここにあるのだから。
 未来へと希望を繋げる最後のフレーズを歌い切って、ライラは満足げに目を閉じた。そして、二度と動くことはなかった。


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私が一生推すと決めている女の子の1人が、初音ミクさんです。私にとっては、ミクさんは永遠に未来の象徴です。

6/16/2024, 1:29:45 AM

【好きな本】(300字)

「やっと手に入れたぞ!」
 配達ドローンが届けてくれた小包みはずっしりと重かった。矢も盾もたまらず、玄関先で開封する。ざらりとした布張りの手触り。古びた紙の匂い。表紙を彩る掠れた箔。ああ、これこそ、私が求めていた本だ。
「また買ったの? 昔の記録ならアーカイブでいくらでも読めるのに。っていうか、それ何語?」
 私の騒ぎが気になったのか、弟が玄関に顔を出す。
「この感じ、英語かな?」
「そんな古代語、読めないくせに」
「読む必要なんてない。昔の人だって、本を積むだけで満足していたそうだから」
 中が読めずとも、私はこの儚い紙と布の感触が好きなんだ。存分に頬擦りしてから、いつもの保存カプセルの中に積んでおこう。

6/11/2024, 2:15:02 AM

【やりたいこと】

「宝くじ当たったらさぁ、なんかやりたいことってある?」
 爆速でキーボードを打ちつつ、隣のデスクの先輩がそんなことを言い出した。
「もしかして、買ったんすか?」
 俺も負けじと爆速でキーボードを叩きつつ、先輩に応える。
「十枚、大人買いしちゃった」
「それしきの枚数、大人買いとは言わないっす」
「あたしさぁ、絶対やりたいことあるんだよね」
「へぇ」
 俺は気のない相槌を打つ。先輩のことだ、たぶんいつも通りの、ろくでもない会話になるんだろう。
「あたしが子供のころからアニメ化してほしいと思っていたファンタジー小説があってさ。それをアニメ化するために、アニメ会社まるごと買取りたいんだよね」
「夢がありますねぇ」
 とりあえず、当たり障りのないことを言っておく。
 アニメ会社まるごとなんて、宝くじの資金じゃ足りない気がするけど。普通に「このアニメ作ってください」ってお願いしつつお金を出すほうが、夢は叶いそうな気がする。
「あとさ、どっかのレトロな雰囲気のビルをまるごと買って、二階で喫茶店開くのもいいな、って思ってるの。いかにも趣味でやってるだけですって感じの、ヒマな喫茶店」
「で、アルバイトのちょっと生意気な女子高生に『オーナー、このままじゃお店潰れちゃいますよ〜ちゃんとやりましょうよ〜』とか言われたいんですよね」
「なっ、あたしの思考を読んだ!?」
「いやわかりますよそれぐらい。俺だってその願望はありますから」
 先輩がごくりと喉を鳴らした。
「やはり、ライバルは多いみたいね……」
「いやライバルとかじゃなくて」
「あとさ、劇団付きの劇場をまるごと買取りたい」
「先輩だいたいまるごと買取りますね」
「で、劇場内でサスペンス的なことが起こるじゃん? その推理現場がクライマックスになったタイミングで、『皆さん、よくできましたねぇ、合格です』とか言ってゆっくり拍手しながら、黒幕の顔をしてゴンドラで登場してみたいんだよね」
「探偵役じゃないのかよ」
 思わず素でツッコミが出てしまった。しかもゴンドラて。そもそもサスペンス的なことってなんだ。そんな物騒な夢を抱くな。そして黒幕になるな。
「君はなにかないの? 宝くじ当たったらやりたいこと」
「俺はただただ、この会社を辞めたいっす」
「だよねぇ。あたしもそれが大前提」
 二人で同時に見やった壁の時計は、ちょうど一時を指していた。これは午後ではない。午前だ。オフィスにはもう、俺と先輩の二人しか残っていない。窓の外は真っ暗闇。いや、小さな明かりを灯しているビルもところどころにあって、日本の闇をさらに浮き立たせている。
「じゃあ、先輩の宝くじが当たったら、俺もいっしょに辞めるんで、いっしょに喫茶店開きましょうよ」
「出たな、ライバル」
「俺、こう見えてもコーヒーには一家言ありましてね」
「だよねぇ。君がときどき淹れてくれるコーヒー、独特の美味しさがあるもん」
「だから俺と先輩が組めば百人力――」
 俺のセリフを遮るように、ッターン、と力強くエンターキーを叩く先輩。
「よーし、あたしのぶんの編集は終わった! プリントは朝イチでいいや! じゃあね! 君も頑張って!」
 パソコンの電源が落ち切らないうちに、鞄と上着を引っ掴んで立ち上がる。そそくさ、と言わんばかりの勢いだ。
 電車はとうになくなっている時間だけど、先輩はバイク通勤だから電車は関係ない。俺も自転車通勤だからこそ、この時間まで残っていられるわけだけど。
「そうそう、宝くじ、気合い入れて当てにいくから!」
 オフィスを出る直前、先輩はこちらを振り返って、力こぶを作る真似をしてみせた。
「そういう気合いで当たるものではないっすよ……」
 視線とツッコミだけで先輩を見送り、パソコン作業に戻る。俺の仕事も、もうすぐ終わる。残りの作業を明日の早朝に回して、いまから先輩を追いかけるのは、あからさまだろうか。
「俺のやりたいこと、ねぇ……」
 二人きりのときに限ってろくでもない会話ばかりふってくる先輩を、どうにかしていい雰囲気の会話に持っていきたい、という野望を抱いて、はや一年。俺の「やりたいこと」は、今日も虚しく潰えたのだった。

6/10/2024, 12:06:14 AM

【朝日の温もり】

 その大地は、地平線の彼方まで岩と砂に覆われていた。植物が生えている様子はない。建物もなければ、人影もない。虫すら見あたらない。およそ生命というものが欠落した光景だった。しかも天の星のほかに光はなく、夜の底にしんと沈みきったままだった。
 そんな寂寞とした闇の荒野に、ぽつんとひとつだけ、異質なものがあった。金属の――いや、機械の塊だ。大きさは、軽自動車ほど。ただし、人が乗るための空洞はない。全体が金色の膜で覆われている。背中とおぼしき部分には、黒いパネルが貼られている。
 あきらかに、人間の手が入った機械だ。いわゆる、人造物。しかし、その機械をそこに置いたであろう人々の痕跡は、どこにもなかった。機械だけがただ黙して、夜の大地に座している。このとき、地表の温度はマイナス百七十度。長い夜の果ての、生命を拒む極寒の世界だった。


 東の丸い地平線が、うっすらと白を帯びはじめた。地球換算にして十五日後、この星にも、ついに夜明けが訪れようとしていた。長い夜で冷えきった地表を舐めるように、光が射しこむ。やがてその光は、機械が背負った黒い太陽光パネルをも照らした。
 発電がはじまり、機体が温められていく。地球から月へと送られた探査機は、朝の光を得て、再び活動を開始した。



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月の昼の地表の温度は110度らしいので、この後は温もりってレベルじゃないほどの灼熱にさらされるわけですが、それはまたべつのお話……。
小型月着陸実証機 SLIM(厳密に言えば探査機ではないやつ)のハラハラの着地とその後の活躍は記憶に新しいです。昼夜の寒暖差が280度という、機械にも過酷な環境の中で、想定以上の成果をもたらしてくれたそうです。
今の人類にとっては、月すらもはるかに遠い星ですが、いつかまた月に行けるようになるといいですね。

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