sleeping_min

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【あなたがいたから】

「師匠、あなたがいたから、俺、ここまで生きてこられたよ……っ」
 冷えきった私の指先を、両手の温もりのなかに握りこんで、彼は言う。かすむ視界の向こうで、子供らしいあどけなさの残る青年の顔が、こちらを覗きこんでいる。ぽろぽろとこぼれた涙が、彼の頬のみならず、私の頬までも熱く濡らす。
 焼けるような熱さは、胸にも感じていた。鼓動に合わせて、どくどくと血が溢れ続けている。その熱を、荒野を吹き渡る風が冷まそうとしている。
 どんなに風が吹こうとも、周囲に立ちこめる濃厚な血の匂いは、とうぶん消えそうになかった。私と彼の周りには、巨大な魔獣の残骸が無惨に散らばっている。ここら一帯を縄張りにしていた竜型の魔獣だ。荒野を舞台にした長き戦いはついに幕を閉じ、一人の青年だけがいま、勝者としてこの場に君臨している。
「師匠、昔、あのひどい戦火のなかで死ぬはずだった俺を、この歳まで、育ててくれて……、くっ、……ありが……とう……っ」
 喉奥から絞り出すような声で、彼は告げた。私は驚き、わずかに目をみはる。なにかにつけて反抗的だった彼から、そんな感謝の言葉が聞けるとは、思ってもみなかったから。
「俺にっ、剣を教えてくれて、ありがとう……」
 彼の唇が、苦しみを噛み潰すように歪む。
 私はかすかにうなずく。この十一年間、彼にはみっちりと剣を教えこんだ。私がいなくなっても、剣の腕ひとつで生きていけるように。その結果、彼は十六歳にして、私を凌駕するほどの剣士に成長した。彼は私の誇りだ。生涯でたった一人の、最高の弟子。
「そして、あなたに教わった剣で、父さんと母さんの仇を討たせてくれて、ありがとう……っ」
 私の右手を握りしめる彼の両手に、ぎゅっと力がこもる。はしばみ色の瞳に燃え立ったのは、憎しみの炎。
「いつかあなたを倒す、その目標があったから、俺、どんなにキツい修行も頑張れたんだ……!」
 私はふたたびうなずき、うっすらと微笑む。魔王軍の侵略遠征に参加していた私が、戦火に包まれた街で彼を拾ったとき、彼はまだわずか五歳だった。でも、ちゃんと親の仇を覚えていた。全身で彼を庇って抱え込んでいた母親と、彼女らを守るように剣を構えていた父親を、あっさり同時に斬り捨てた巨大な女剣士。恐怖で見開かれた幼児の瞳には、大剣を握りしめた恐ろしい姿の魔族が映っていた。そう、紛れもなく、私だ。
 だから彼は私に対してずっと反抗的だったし、懐くこともなかった。私の手に彼から進んで触れてくれたのは、今日が初めてだ。
 私たちが戦場で初めて視線を交わしたあの日、五歳の彼は恐怖のまなざしで私を見つめながらも、飛びすさり、母親の懐から抜いた護身用ナイフをかまえた。その一連の動きに、私は並々ならぬ剣士の才を見た。そして次の瞬間には、彼を育てることに決めたのだ。彼なら私の剣術を継げる、そんな確信があった。
 人間である彼を殺すどころか庇いながら戦場から連れ出す――その行為は、当然ながら、魔王軍への裏切りを意味する。私はほかの魔族の目から逃れるために、角を隠し鱗を隠し、なるべく人間に近い姿に身を変えて、放浪することになった。幼い彼の手を引きつつ、人間の街から街へと渡り歩いた。行く先々で野盗や魔獣を狩り、路銀を稼いだ。魔王軍からもたびたび追っ手が送りこまれてきたので、戦いの絶えない日々だった。もっとも、幹部クラスの者を十名ほど返り討ちにしたあたりから、追っ手は来なくなったが。
 魔族と違って脆弱な体の人間族の子供を、追っ手や魔獣から守りつつ育てるのは、それなりの苦労も多かった。だが、毎日が新鮮な驚きの連続で、楽しくもあった。人間族の子供は、魔族に比べて成長が著しい。昨日できなかったことが、今日にはできるようになっている。それがまた面白かった。もしかしたら、彼自身も己の成長を面白く思っていたのかもしれない。剣の修行中、彼の瞳は生き生きと輝いていた。そして、ありったけの憎しみを私にぶつけてきた。
 憎き仇のもとで、彼が逃げ出すことなく剣の修行に打ちこんでくれたのは、私を強い剣士として認めてくれていたからだろう。その上で、彼には絶対的な目標があった。強い剣士である私を倒す、という目標が。彼のそうした闘志や憎しみを、私は好ましく思っていた。剣士として成長するために、不屈の意志は欠かせぬものだ。彼ならきっと、私を超えてくれるだろうと信じられた。魔族随一の剣鬼と称えられ、互角に戦える相手を失っていた私が、ようやく楽しめる相手に出会えたのだ。彼のはしばみ色の瞳に睨まれるたび、私の胸は期待でゾクゾクと高鳴った。
 そしてついに今日、願っていたときが訪れた。
 人間も魔族もめったに足を踏み入れない辺境の荒野で、私たちは対峙した。彼の申し入れによる決闘だ。彼の成長を日々見守っていた私は、喜んで決闘を受け入れた。潮時というものがあるなら、いまだと思った。彼もきっと、そう思ったに違いない。
 私の剣術は、大剣という重量物による速攻必殺を旨とする。そんな剣術の遣い手が二人いるにも関わらず、戦いは長引いた。十一年間を師弟としてともに過ごしてきた私たちは、息をするよりも簡単に相手の動きが読めてしまう。睨み合いや打ち合いばかりが続き、半日経っても勝負は決しなかった。まさに互角。このままだと、スタミナの面で人間族の彼が不利になると思われた。が、先に疲れが出たのは、老いた私のほうだった。打ち合いの隙を突いて、彼はとうとう私に一太刀を浴びせた。私に当たったのは、たったの一太刀。だが、その一閃こそが、私の胸を深くえぐったのだ。剣の動きで相手の隙を誘って一撃で致命傷を与える――私が教えた通りの、膂力と瞬発力を要にした素晴らしい剣技だった。彼が剣術で私を凌駕した瞬間だった。
 ちなみに私たちの周りに飛び散っている竜型魔獣は、決闘に巻き込まれただけの哀れな被害者にすぎない。決闘騒ぎが気になったのか、たまたまこの場に顔を出したのが運の尽きと言えよう。つい、いつもの魔獣狩りのように、二人で息を合わせて叩き斬ってしまった。
「私の命は――」
 彼に語りかけようとしたとたんに、胃や肺から血の塊がこみあげる。それをごふっと吐き出して、私は掠れた声で言葉を続ける。
「私の命は、あまりにも長すぎた。千年のあいだ、生きることに、惓んでいた。強さも極まり、誰も相手がいなくなり、王の命令のまま、ただ剣を振るうだけの、虚しい日々だった。だが、君がいたから、この晩年は、とても充実したものになった。永い人生のなかで、君と過ごした日々が一番楽しかったよ。ありがとう」
 そう、あの日、あの場所に彼がいたから、私の目はふたたび光を取り戻すことができた。彼の闘志が、虚無の闇から私を救い出してくれたのだ。
 淡い微笑みとともに感謝を告げると、彼はカッと怒りで頬を赤くした。さっきまで流していた嬉し涙は、ひっこんでしまったようだ。
「そんなの、まるで、俺のせいで師匠が幸せだったみたいじゃないか――」
「幸せだったよ。いまもね」
 私は満足の笑みを浮かべ、目を閉じる。彼の手中から指先を引き抜いて、ぱたりと地面の血溜まりに落とす。
 ……が、ひとつ確認し忘れていたことがあった。おちおちと死んではいられない。薄く片目を開ける。
「ところで、私が死んだら、君はこの後、どうするつもりだ?」
 ここから魔族の足で二日歩けば、人間の街がある。さらに五日歩けば、剣士の腕を活かしやすい大都市がある。まずはそこに行って、定住するなりふたたび旅暮らしをするなり、とにかく彼なりの幸せを掴んでほしいと思っている。切り刻んだ竜型魔獣の鱗や角を持っていけば、当分の路銀になるだろう。
「お、俺……? このあと……?」
 彼は面食らったようだ。言葉に詰まる。瞳からスッと炎が消える。――ああ、これはいけない。生きる目的を失った彼は、ただの抜け殻になってしまう。私は彼の感情のこもった瞳が好きなのに。
 ひとつ息をついて、私は上半身を起こした。
 彼のはしばみ色の瞳が、驚きで丸くなる。
「君の修行の課題はまだ残っている。詰めの甘さだ。本当に殺したければ、くっちゃべってないで、ちゃんととどめを刺さなければならない」
「まさか……」
 私は胸の傷口に手を当てる。血はすでに止まっていた。それどころか、ざっくり開いた傷も塞がりつつある。さすがに服は修復できないので、あとで繕わなければならないが。
「前にも教えただろう。魔族の回復力を侮るな、と」
 彼は魔獣や人間の野盗を相手にすることがほとんどだったから、この回復力にはぴんとこないのかもしれない。
「心臓をえぐった程度じゃ死なない。首を切り落とし、さらに脳を叩き潰すぐらいはしないと」
「そんな、まさか……」
 彼は愕然とした表情でその場に崩れ落ちた。私は思わずニヤリと笑った。他種族の絶望顔にゾクゾクしてしまうのは、魔族として抗えない性(さが)なので許してほしい。
「魔族はこの頑丈な体があるから、怪我知らず病気知らずで、長生きなんだ」
 そのせいで、生きることにも飽きやすい。
「とはいえ、この体も人間で言えば九十歳になる。寿命は近い」
「嘘だろ、ずっと三十代にしか見えないのに!?」
 それは私が人間に化けているからだ。ただ、二十代の女性に化けているつもりだったので、彼の反応はすこしショックだった。老けて見えるのは言動のせいか。
「私の寿命が尽きるよりも先に、完全に引導を渡してみろ。それができなければ、仇を討てたとは言えないぞ」
「無茶言うなよ、人間とあまりにも違いすぎるじゃないか……」
 彼の拳が、悔しげに地面を叩く。
「これでも、人間に寄せているつもりだが? 私が全身を鱗で覆ったら、その剣では歯が立たないぞ。いや、刃が立たないぞ」
「なっ」
 私にハンデがあると知って、彼がますます絶望に顔を歪める。
「それに、君との戦いでは、魔族の魔術を使っていない。私が闇の魔術を使えば、君などあっという間に死霊術師のエサになる」
「そ、そんな手加減だらけの戦いであんたを殺したって、ちっとも喜べないだろうが! 正々堂々と勝負しやがれってんだ!」
 私を睨みつけた彼は、屈辱で顔じゅうを真っ赤に染めていた。潤んだ瞳には、憎しみの炎がふたたび強く灯っている。私は頬が緩むのを抑えきれなかった。
「私は正々堂々と、剣術だけで君と勝負したつもりだよ。剣の腕前では、君の勝ちだ。だが、戦場で生きる剣士としては、君はまだ甘い、ということだ」
「くそっ! 俺は魔族の師匠と戦いたいんだよ! 魔族のあんたを殺したいんだよ!」
「そうか、では、次の旅の目的は、魔族化した私をも殺せるような剣の入手だな。よし、聖剣を探そう。聖剣なら闇の魔術にも抗える。魔王軍にだいぶ折られたとはいえ、世界のどこかには、まだ何本か残っているはずだ」
 私はウキウキと立ち上がった。傷はもう完全に塞がっている。失った血も、そこでくたばっている魔獣の肉を齧れば、すぐに取り戻せる。
「君の本音が聞けて嬉しかった。たまには死んだフリも悪くないな」
「こっ……殺してやる! 絶対に、絶対にだ! 絶対に師匠を殺してやるからなぁっ!!」
 荒野を震わせ、彼の咆哮が響き渡った。この素晴らしい声量は、鍛え上げた腹筋や肺活量の賜物だ。弟子の鍛錬の成果に満足しつつ、私は自分の大剣を拾い上げ、背中の鞘にカチリと収めた。
「その日を、ずっと待ち望んでいるよ」
 彼の仇として、師として、育ての親として、彼が彼自身の幸せを見つけるまでは、まだまだくたばるわけにはいかない。楽しい日々は、これからもしばらく続きそうだ。

6/21/2024, 3:22:32 AM